恒久平和への祈りを
小笠原の新寺より捧げる、
PADIカレッジの初代日本校長。

 

吉田一心さん
小笠原・行行寺住職

 

ケアンズで輝く人ー吉田一心

Profile

吉田一心 よしだ・いっしん
1944年11月29日 中国チンタオ生まれ。大学卒業後、日本赤十字社神奈川県支部勤務、救急法と水上安全法の普及を務める。1977年NAUIインストラクター、’82年PADIインストラクターに。’87年PADIカレッジジャパン設立と共に校長に就任し、約1000人のインストラクターを養成。’93年浄土宗僧侶になり、三重県鈴鹿市の南龍寺住職として8年勤め、’03年小笠原村へ。新寺建立の資金集めのため、4年間全国行脚。 ‘07年、新寺、行行寺開山。現在、同寺住職。

 

40代半ばにして僧侶になることを志し、不思議な縁に導かれ、小笠原諸島の父島に新寺を建立、現在は住職として勤める吉田一心さん。

もともと、海、そしてビジネスの世界に身を置いていた氏が、仏教という異なる世界を生きるまでに、どのようないきさつがあったのだろうか。

 

生きるとは、そして死とは 救いを求めて、ビジネスの世界から仏教の道へ。

 
小学校4年生までは北海道、その後ずっと神奈川県の藤沢に住んでいた吉田さんにとって、海は常に身近な存在だった。大学1年の時から江ノ島西浜のライフガード、卒業後は、日本赤十字社で海での救助活動を続ける。

 

 

その後、世界的なネットワークを誇るダイビングスクール、PADIの日本校長に就任し、単身赴任で仕事に没頭。新規コースの開発など、インストラクターのために様々な業務に取り組んだ。だが、売上を計算する頭の片隅には、海で命を落とした人達の苦悶に満ちた顔が離れなかったという。

 

 

「ライフガード時代から見てきた人間の死は、苦しく、恐ろしいものでした。」自分もあのようにもがき苦しみ死んで行くのかと思うと、死が恐ろしくなる。生きるとは何か、死ぬとは…。救いを求めるべく、仏教本を手元に置いた。

 

 

「当時は無我夢中で働いていましたが、40を過ぎると、”死”はどこかの誰かのものではなく、自分自身のものとして思うようになります。このまま人生が終わっていいのか…そんな思いを持っていました。」

 

 

6年後、2つの組織に分かれていたPADIが1つに統合されることに。
「ここは肉体的にも精神的にも人生の転機」と、バブル全盛期、46歳のときダイビング業界を離れる。

 

 

「僧侶になろう、と決心したのは、故郷の北海道に帰ったとき。無性に帰りたくなり、訪ね、その夜決めました」

 

 

小笠原の戦地跡を訪れ、 僧侶としての夢が固まる。

 

この決断がダイビング業界に波紋を呼んだのは言うまでもない。

が、吉田さんの決心は固かった。佛教大学の通信課程で学び、実践の修養を積んで、3年後に僧侶の資格を得、跡継ぎのいなかった三重県鈴鹿の寺で住職になる。

 

 

更なる転機が訪れたのは、5年余りが過ぎた頃。

小笠原の父島に住むダイビング仲間からの、「亡くなった叔父の葬儀を執り行ってもらえないか」という1本の電話がきっかけだった。

 

 

かつて島には寺が2つあったが、1944年の空襲で焼失、戦後も再建されていなかったのだ。電話の5ヶ月後、硫黄島で法要をすることが決まり、吉田さんは小笠原を訪ねた。
法要が行われた硫黄島は、戦争末期、日本兵20,129名、米兵6,821名が戦死する死闘が展開された場所である。法要の後、多くの命が失われた地下壕を歩いた吉田さんに、平和への希求という、強い思いがわき上がる。

 

 

「島で戦没者の慰霊を続けたい。鈴鹿の寺は跡継ぎがいる、娘2人も独立している…身軽な自分が行かず誰が行くのか…」
小笠原に新寺を造るという夢の基礎がこの時から固まっていった。

 

 

ケアンズで輝く人ー吉田一心さん

80余名が参列した落慶法要にて、父島の方々との記念写真。吉田さんの向かって右には村長さんご夫妻の姿も。

 

 

 

努力の末、小笠原唯一の寺を建立。 平和のために祈る。

新寺を建立するには、当然ながら費用がかかる。堺市、正明寺の副住職の方など仲間が支援活動を始め、全国1,110の浄土宗寺院から建設資金を募ってくれた。

吉田さん自身も、北海道から沖縄まで学校や福祉施設で、時には街頭に立つなど200回にもわたる法話会を行って全国行脚をし、浄財を募った。

4年間で、土地の購入とお寺を造る資金が溜まったというバイタリティはすごい。

 

 

「お釈迦様と法然上人の仏教思想を広めたい、小笠原村の人の役に立ちたい、自分で決めたことだからやり遂げる、などいろいろな想いを持って活動を行いました。
でも、寄進者が増えた途中からは”夢の共有”へと変化しました。私だけの想いではもうないのです。全国の多くの方々と夢を共有し、スクラムを組んでの仕事です。辞めよう、などと思ったことは一度もありませんでした」

 

 

お金集めは計画通り順調に進んだが、予想に反して土地が決まらない、という苦しみに直面するも、ついに戦後62年目の夏に、建設着工。

 

 

ケアンズで

内地からいらした方々を乗せたおがさわら丸が父間を離れたところ。ドルフィンテール号船上よりの見送り。「また来いよー!」、「また来るよー」。この後、海に飛び込み海中から最後のお見送りとなったそう。

 

 

 

 「寺の掲示板には”歩めば到る”と掲げています。新寺建立発願以来の想いです。歩まねば、目的地には到達できません。微速でも努力をし、歩めば到達できます。目的(地)を持ち、歩む(努める)ことが人間として重要ではないのでしょうか」

 

 

天井画は京都ゆかりの中国人画家が担当。モチーフは龍だが、吉田さんの希望で小笠原の抜けるような空と海をイメージして青を主体に。墨色の線描をほどこし、戦没者への鎮魂の想いも込めたという。

 

こうして行行寺(ぎょうぎょうじ)が完成し、住職に就任した現在は、「長く寺院がなかった島の人達に仏とのご縁を結ぶ助けを、そして戦没者への回向と恒久平和を祈りたい」と語る。

 

 

政府は硫黄島へ遺骨収集団を60回以上派遣しているが、いまも、12,000体の遺骨は眠ったままだ。

 

 

「絶対に平和でなくてはいけません。それは”母と子が手をつないで歩ける世の中”です。今、世界中でそれをできない所が何カ所もあります。どちらが勝っても負けても、共に多くの死者が出るのが戦争です。理由をつけて戦争をしてはいけません。

 

 

今は、硫黄島の玉砕兵士と共に、硫黄島で命を落としたアメリカ兵にも回向を捧げる日々を送っています。」

 

 

まばゆいばかりの海原を見渡す山腹の寺で、吉田さんの祈りは続く。

 

 

 編集後記
なぜ小笠原の方のインタビューが?と不思議に思われた方もいるかもしれません。(実際にお会いせずに原稿を書くという初体験に苦労しました…)実は、ダイビングつながりでケアンズと縁のある吉田さんが、11月12日と13日にケアンズで講演会と法話会をして下さるんです!(詳しくはP.31イベントページに)。ビジネスの世界、海、仏教、全てがバラバラなようでいてつながる人生の不思議をしみじみと感じます。「求め」て、「歩む」ことが大切なんですね。  講演会が楽しみです。Keiko

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