ケアンズ観光とれたて情報【リビング・イン・ケアンズ】» ケアンズで輝く人インタビュー http://www.livingincairns.com.au ケアンズ発のフリーペーパー【リビングインケアンズ】がお届けするケアンズ旅行前に必見のケアンズポータルサイト Tue, 31 May 2016 23:34:35 +0000 http://wordpress.org/?v=2.8.4 ja hourly 1 夢に生きてもいい、不可能はない。 http://www.livingincairns.com.au/%e3%82%a8%e3%83%83%e3%82%bb%e3%83%bc/%e5%a4%a2%e3%81%ab%e7%94%9f%e3%81%8d%e3%81%a6%e3%82%82%e3%81%84%e3%81%84%e3%80%81%e4%b8%8d%e5%8f%af%e8%83%bd%e3%81%af%e3%81%aa%e3%81%84%e3%80%82/ http://www.livingincairns.com.au/%e3%82%a8%e3%83%83%e3%82%bb%e3%83%bc/%e5%a4%a2%e3%81%ab%e7%94%9f%e3%81%8d%e3%81%a6%e3%82%82%e3%81%84%e3%81%84%e3%80%81%e4%b8%8d%e5%8f%af%e8%83%bd%e3%81%af%e3%81%aa%e3%81%84%e3%80%82/#comments Mon, 24 Sep 2007 04:12:02 +0000 Keiko Murphy http://www.livingincairns.com.au/%e3%82%a8%e3%83%83%e3%82%bb%e3%83%bc/%e5%a4%a2%e3%81%ab%e7%94%9f%e3%81%8d%e3%81%a6%e3%82%82%e3%81%84%e3%81%84%e3%80%81%e4%b8%8d%e5%8f%af%e8%83%bd%e3%81%af%e3%81%aa%e3%81%84%e3%80%82/ 身障者として世界初の
エベレスト北ルート登頂に成功。
ガンと闘う人に
熱いメッセージを送る。

 

ポール・ホッケーさん
登山家

 

 

ケアンズで輝く人ーポール.ホッケー

Profile

Paul Hockey ぽーる・ほっけー

1963年4月5日キャンベラ近郊の町、セス生まれ、11歳からケアン ズに暮らす。
骨ガンのため、生後3週間で右腕を付け根から切断。
空手、カンフー、韓国合気道の3つの武道で黒帯を獲得。シドニーで空手師範として3年間道 場を運営した後日本へ渡り、結婚して再びケアンズへ。
ツアーガイドとして働きながら、アンデス山脈の最高峰、アコンカグア山の登頂に成功。2004年、長 年の夢であったエベレストを目指すも、頂上まであと248mの地点で酸素不足のため下山を余儀なくされた。今年3月、再びエベレストに挑む。信条は NEVER GIVE UP !彼の登山活動や講演は多くの身障者の人たちを励ましている。
今後も小児ガン研究所への寄付を目標に本の執筆、講演を予定。
www.paulhockey.com

※リビング・イン・ケアンズ 1995年3月号掲載

 

 

 

この3月の終わり、‘片腕しかない人身障者としては世界初’という大いなるゴールを抱いて、ポールさんはエベレスト登頂に再挑戦する。

 

 

 

「自分勝手な奴だ、と言う人もいる。そうかもしれない。だけど、夢に生きてもいい、不可能なことはない、そういうことを人々に伝えたいと思ってる」

 

 

けれども、彼のエベレスト登山の夢は、自分のものだけではない。その証拠に、彼の活動や講演を通して、多くの身障者の子供たちやその母親からメールが寄せられている。

 

 

自分はなんて不幸なんだ、なぜ障害を持って生まれて来たのか。と、生きる自信のなかった子が、ポールさんの登山の話を聞いて生きる希望の光を見るのだ。

 

 

「最近も、1歳で両足を失った子のお母さんから手紙をもらったよ。僕の記事を読んで、『この子はまだ自分の人生を生きられる。それも挑戦に満ちた人生を生 きられる、と気づきました』としたためてあった。こんなことがとても励みになっている。この子には、エベレストの山頂の石をプレゼントするって約束したん だ」

 

 

 

ポールさんの、自分の人生に対する真摯な在り方が多くの人々を動かす。

「NEVER GIVE UP, NEVER GIVE UP, NEVER GIVE UP!」

 

 

 

 

「チャレンジしがいがあるからやる」 世界で誰も達成していないことに挑戦。

1953年、史上初めてエベレストの登頂に成功し、歴史の一ページに名を刻んだ、エドムンド・ヒラリー卿の綴った本。この本を読んだ少年時代から、心の どこかで彼がヒーローであり続けたという。そして何年もあと、偶然、ヒラリー卿のインタビューをラジオで耳にし、彼の話す内容に感動。いつしか、エベレス トに登りたいという夢が具体的に膨らんでいった。

 

 

 

「その頃は空手道場を運営していて、武道にどっぷり浸かっていた。自分の心、体、魂に挑戦するという意味で、武道と通ずるものを登山に感じたのかもしれない」

 

 

 

その後、調べてみると、チベット経由は身障者で登頂に成功した人はまだいないということがわかる。そして、このルートは南ルートより遥かに厳しいことを承知で、大きな課題を自らに課すことに決めたのだ。

 

 

「簡単そうだったらやる必要はない。チャレンジしがいがあるからやるのさ」

 

 

 

その後のポールさんの行動は早かった。
登山家として世界的に著名なニュージーランド人、ガイ・コッター氏に、「自分の夢であるエベレスト登山に挑戦したいこと。同時に自分の登山活動によっ て、ガンへの関心を高めたいこと、登山活動の後の執筆や講演を通じて、ガンの研究費をオーストラリア小児ガン研究所に寄付したいこと」を書いた手紙を送っ た。

 

 

 

コッター氏からすぐさま「協力する。ぜひお会いしたい」という返事をもらい、借金をしてニュージーランドへ。

 

 

 

ニュージーランドの山を登った時は、007がディナースーツを着て、イブニングドレスを着た女性とドリンクを片手に手招きしている、という幻想を見たという。

 

 

「僕が崖っぷちに向かって歩き出したから、登山パートナーが驚いて引き止めてくれたんで助かったよ。今、思うとこれが登山中で一番恐かった体験かな。
空気 が薄くなってくると幻想を見る人は多いし、エベレストでは寝ている間に呼吸が止まってしまう人もいるんだ」

 

 

山の厳しさを物語るエピソードである。
2003年は、コッター氏の率いるアドベンチャー・コンサルタンツのメンバーと共に、エベレスト登山に向けたテストとして、6960mと南半球で一番高いアンデス山脈アコンカグア山に挑んだ。

 

 

 

体力的に問題がなくても、高山病に関しては実際に登ってみなければわからない。結果は良好で、帰国後、自信を携え、エベレストが一歩近づいていた。

 

 

登山には多くの資金も必要だ。35kgのバックパックを背負い、足首に重りをつけて山道を歩くという地道なトレーニングとツアーガイドの仕事を続けながら、寄付を募る活動も行う。

 

 

 

死んだら終わり。 山はいつでもここにある、と気持ちを切り替えて。

 

そして、いよいよその日。

「本当に来たんだ…。エベレストの最初の一歩を踏み出した時は、そんな感慨があった」とポールさん。

 

 

 

山を登っている時は、とにかく一歩一歩に集中するだけ。登り始めは音楽を聞きながら。家族のことを考えながら。

 

 

 

途中にはいくつかベースキャンプが設置されているが、キャンプ1の後は、音楽を聞くのも止めた。雪崩が起きたり、ローブが壊れたり、山では何が起こるかわからないからだ。

氷点下30度の中、一歩一歩雪を踏みしめるのみ、なのである。寒く乾燥したエベレストでは1日に8リットルの水を飲まなければならない。

 

 

 

「たとえ6時間登山のしっぱなしで疲れて、喉が乾いていなくても、氷を砕いて水にして飲む。そんな風に自分を制することができないといけない」

標高7500メートルからは酸素ボンベも必要だ。一呼吸一呼吸が大きな意味を持つ。

 

 

 

自分を制する、自分に打ち勝つ、次の段階を目指す、と、空手を通じて学んだことは、全てエベレストという巨大な大自然と向き合うにふさわしい哲学であった。

そして、理念だけでなく、一瞬に焦点を当てて素早く決断を下す、という実際面でも武道が役立っていた。

 

 

 

エベレストの標高8100m付近での登山風景。

 

 

あと248メートルで8848メートルの頂上というその時、ポールさんの様子をベースから見守っていたキャンプリーダーが言った。

「酸素が足りない。今すぐ引き返せ。たとえ頂上へ行けても帰ってくるだけの酸素が足りない」

 

 

 

「…30秒くらい考えた。頂上はすぐそこに見えた。長い間夢に見た頂上が。でも、同時に3人の子供たちの姿が脳裏に浮かんで。タフな決断だったけれど、僕は生きて帰らなければならない、と思った」

 

 

 

写真を撮りたかったらあと30分くらいはそこにいても大丈夫だ、と言われた時は「ふざけんな。写真を撮るために登ったんじゃない」とかなり感情的に返してしまったという。

 

 

 

平地の250メートルと山頂では感覚がまるで異なる。たった数百メートルのこの距離を登るのに4時間、そしてその地点へ帰ってくるのに更に2時間はかかる。リーダーは、登山の速度から酸素の残度を計算したのだ。

 

 

 

8600メートルを登り、体力も知力も極限状態にある。

 

 

(左)エベレスト登山では、ひとつの簡単なミスが命取りになる。旗は危険区域の始まりを示す。(右)エベレストの標高8600m地点にて。この後、持っていた酸素ボンベでは酸素の量が足りず引き返す事に。

 

 

 

「雪の中から突き出た足、ナイロンにくるまった体、登山中はいくつもの死体を見た。実際、これ以上行くなと止めた女性はアドバイスを無視して二度と帰って これなかった。今回の旅でも知ってるだけで7人が亡くなってる。死んだら終わりだ。山はいつでもここにある、と気持ちを切り替えるしかなかった…」

 

 

雪焼けが痛々しい。この登山で体重が15kg減った。

 

無事下山した時は、もう二度とエベレストには来ない、と思ったという。

 

 

 

「でも不思議とね、シャワーを浴びたら、また挑戦するっていう気持ちになった。次はもう1本多めにタンクを背負うさ」

 

 

 

ポールさんの好きな日本語の一つに「七転び八起き」がある。今まで何度「無理だ」とう言葉を投げかけられたことだろう。片腕じゃ車の運転は無理。片腕 じゃ武道で黒帯を取るなんて無理…その彼は現在もマニュアルのジープを駆り、一時は武道で生計を立てていた。

 

 

 

「ネガティブな人の言うことを聞くな。人生は短い。エンジョイしたい。そして諦めずに夢に生きたい。ポジティブであれば、誰でも何でもできる。そう信じているから」

 

 

 

 

自分の腕、最愛の母を奪った ガンで苦しむ子供を助けるための再挑戦<

ポールさんは2005年3月、果たせなかった夢を果たすべくエベレストに再び挑む。今回は半年前にガンで亡くなった母、ドロシーさんと共に。

 

 

 

「またエベレストに登るの?」と聞くドロシーさんにポールさんは答えたのだ。

 

「行くよ。今度は頂上を目指すんだ」
「じゃあお母さんも一緒に行くわ」

 

 

…お母様が亡くなったのはその会話が交わされた数日後だった。
自らの腕を奪い、母の命を奪ったガンで苦しむ子供たちを少しでも助けられるよう、エベレストという立ちはだかる大きな挑戦を受ける日が今、刻々と迫る。

 

インタビュー後記
自分が背負っているものがわかっていて、突き進んでいる、そういう印象を受けたのだけれど、「いい人なんかじゃないから誤解しないでね」と言ったりして、あくまでも気取らない方でした(冗談もかなり面白い)。
そして、人間って自分の意志でこんなに変われるものなんだ、ということに気づかせてくれました。この号が出る数週間後に旅立つポールさんに励ましのお便りを送りたい方や資金をサポートしたい方は、ぜひ
paulhockey@hotmail.com までメールを!Keiko
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ケアンズ唯一の日本人ジョッキー http://www.livingincairns.com.au/%e3%82%a8%e3%83%83%e3%82%bb%e3%83%bc/%e3%82%b1%e3%82%a2%e3%83%b3%e3%82%ba%e5%94%af%e4%b8%80%e3%81%ae%e6%97%a5%e6%9c%ac%e4%ba%ba%e3%82%b8%e3%83%a7%e3%83%83%e3%82%ad%e3%83%bc/ http://www.livingincairns.com.au/%e3%82%a8%e3%83%83%e3%82%bb%e3%83%bc/%e3%82%b1%e3%82%a2%e3%83%b3%e3%82%ba%e5%94%af%e4%b8%80%e3%81%ae%e6%97%a5%e6%9c%ac%e4%ba%ba%e3%82%b8%e3%83%a7%e3%83%83%e3%82%ad%e3%83%bc/#comments Thu, 10 May 2007 03:37:11 +0000 jc-kazu http://www.livingincairns.com.au/wp/%e3%82%a8%e3%83%83%e3%82%bb%e3%82%a4/%e3%82%b1%e3%82%a2%e3%83%b3%e3%82%ba%e5%94%af%e4%b8%80%e3%81%ae%e6%97%a5%e6%9c%ac%e4%ba%ba%e3%82%b8%e3%83%a7%e3%83%83%e3%82%ad%e3%83%bc/ ためていたパワーを一気に爆発させて勝つ

ケアンズ唯一の日本人ジョッキー 
賀谷祥平

 

Kaya

 

Profile
賀谷祥平(かや・しょうへい)
28歳 広島出身。2003年8月COFFS HARBOUR(コフスハーバー)競馬場カップーデーにてデビュー、同11月MOREE(モーリー)競馬場で初勝利。
これまで58の競馬場で騎乗。3シーズンで778戦79勝(5/17現在)。NSW州ARMIDALE(アーミデール)、TAMWORTH (タムワース)、MUSWELLBROOK (マスウェルブルック)、QLD州GOLD COAST (ゴールドコースト)、INNISFAIL(イニスフェイル)、VIC州EUROA(ユーロア)を経て、現在、オーストラリア、ケアンズ在住

 

野球やサッカーに限らず、日本人スポーツ選手が海外で活躍する姿はまさに感動!
今回はケアンズで活躍する唯一の日本人ジョッキー、賀谷祥平さんをご紹介します。

 

馬が好きだったんです、乗る方ではなくて買う方が…

なぜジョッキーに?の質問の答が上のコメント。
賀谷さんは東京の大学を卒業後,就職せずにオーストラリアに来た。
日本にいる時にオーストラリアにある競馬学校へ入れば、ジョッキーになれることを知ったからだ。

その動機は明快。「日本でレースを見ていてなりたくなっただけ。」子供が野球選手に憧れるように純粋に、迷うことなく道を選んだ。

 

当時はゴールドコーストからメルボルンにかけていくつかの競馬学校があり、大きいところでは毎年20〜30人の新入生がいたが、賀谷さんが選んだのはNSW州のアーミデールにあった小さな競馬学校。生徒は賀谷さん一人だけだった。

朝から馬房(馬がいる部屋)の掃除、馬の手入れ、騎乗の練習、たまに座学と朝から夕方までみっちり、休みなし。マンツーマンの特訓が続く。

半年間学校に通い(ちなみに日本のJRAの競馬学校、騎手コースは3年制。)、その後1年半各地の学校や厩舎をまわる修行と模擬レースを繰り返す。

 

一番苦労したことは競走馬の力が強くて最初は全く抑えられなかったこと。またジョッキー独特の競走馬の乗り方の修得で、中腰で乗って全身、特に足腰を使うので筋肉痛で足がガクガクに。これは今でも疲れるとか(笑)。

 

当時他の学校には、賀谷さんのように日本からジョッキーの勉強にきている人もいた。現在でもオーストラリア国内でレースに出場している日本人ジョッキーはNSW、QLD合わせて7〜8人程いる。
ジョッキーになるための制限はないが、プロになったあかつきには、勝てなかったらそれまで…という厳しい勝負の世界に生きることになる。ジョッキーは自分からレースにエントリーするのではなく、調教師から指名されて、初めて騎乗できるため、勝てない騎手には指名は来ないのだ。

 

ためていたパワーを最後に一気に爆発させて勝つんです

NSWでレースに出ていた賀谷さんがケアンズに来たのは昨年6月。知り合いの調教師を通じてだった。
彼が副業でやっていた配管の仕事で、サイクロン後の復興工事のためイニスフェイルに来た際、他の調教師に賀谷さんの話をしたところ、指名が来たのだ。

 

ケアンズに来る前5年間のほとんどは日本人のいない町での活動。もちろん日本食もなければ、シドニーやブリスベンに出るのにも5〜600キロあり、なかなか都市へ行く機会もなかった。そろそろ日本語でのコミュニケーションも恋しくなってきていた頃だったとか。

 

ケアンズはお好きですか?と聞くと、「暖かいし、海はあるし、日本人はいるしオーストラリアの町では一番好きです。初めてこっちに移ってきた時は信号もあり、ビルもあり大都会に見えてうれしかったです(笑)。」

 

ケアンズとは言っても、普段仕事の中で接するのは圧倒的にオージー。まわりのオーストラリア人との関わり方で心がけていることはと尋ねると「性格のせいもありますが黙ってないで、言いたいことは言わせてもらうぞ、ってスタンスではいます。」と、自らをコントロールし、勝負の世界で生きる彼らしい発言が返ってきた。

 

レースは毎日ある訳ではなく、指名が来ればケアンズ、アサートン、イニスフェイル、タウンズビルまで各地で開かれるレースに出る。
今までに約800レースに出場し、騎乗した馬は500頭以上!当然相性の良い馬もいれば悪い馬も。

一番良かった馬は?と聞くと、「それがケアンズの馬で,5戦戦ってなんと4回優勝しました!」

勝つために心がけているのは「ポジティブでいくこと」。
「弱い馬でもひょっとしたら勝てるかもとか、不利な枠(外側スタートの方が内側に入りにくいので概して不利)でもいいように考えるようにしてます。あとはやはり体重キープでしょうか。そしてレースではためていたパワーを最後に一気に爆発させて勝つんです。」

 

毎朝5時から馬の調教の手伝い、これは毎日約3時間、レースコースで馬に乗る。
近くで見たことがある人はご存知の通り、競走馬はかなり大きい。走るスピードが時速60〜70kmにも達する馬をコントロールしながら乗ることを考えると、使う体力は相当なもの。

実際の調教は、競馬場の調教トラックを2周、週に1,2度レース時と同じ速いスピードで最後の400〜600mを疾走。
その他の日はゆっくりのペースでトラックを2周。

 

陸上選手で例えれば、ストレッチや軽い運動だけの日と、本番さながらの全力疾走で流す日を組み入れてバランスをとっているのだ。馬もジョッキーも日曜日は定休でゆっくり休養。レース当日は調教後移動して午後からのレースのため競馬場に向かう。多い日は1日で4〜5レースに出走するそうだ。

 

「もっともっと日本人の方にも見に来て欲しい」

オーストラリアでは競馬は3大人気スポーツの一つ。競馬場も日本と違い、コースと観客席が近いのが一番の特徴。

 

観客も家族連れの姿が多い。これはレースの合間に様々なアトラクションや発表会があり、子供達も楽しめるようになっているためだ。
毎回何かテーマが決まっているのも特徴。

 

中でも、今年は9月7・8日に行われる”ケアンズ・アマチュア”は、ローカルが着飾って出かける一大イベントだ。外国での競馬観戦は住んでいる人だけでなく観光で遊びに来た人にも新鮮なはず。みんなで感動しに行こう!

 

編集後記
インタビューの数週間後(6/16)に行われたレースで見事1着を勝ち取っていました。普段の非常に淡々とした自然体からは想像できない、本番で爆発する勝負師の集中力はさすがです! Kazu
タグ: エッセー, ケアンズで輝く人インタビュー

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自分が楽しいから書く。 http://www.livingincairns.com.au/%e3%82%a8%e3%83%83%e3%82%bb%e3%83%bc/%e8%87%aa%e5%88%86%e3%81%8c%e6%a5%bd%e3%81%97%e3%81%84%e3%81%8b%e3%82%89%e6%9b%b8%e3%81%8f%e3%80%82/ http://www.livingincairns.com.au/%e3%82%a8%e3%83%83%e3%82%bb%e3%83%bc/%e8%87%aa%e5%88%86%e3%81%8c%e6%a5%bd%e3%81%97%e3%81%84%e3%81%8b%e3%82%89%e6%9b%b8%e3%81%8f%e3%80%82/#comments Wed, 04 Aug 2010 23:59:48 +0000 Keiko Murphy http://www.livingincairns.com.au/?p=7794 詩人で書道家。書を通して人を癒す

 

轟木 太郎 さん

ケアンズで輝く人

Profile

轟木 太郎 とどろき・たろう
1979年生まれ、大阪出身。福詩家 ソーシャルワーカーから路上詩人へ転身。3年前より書き始めた独特の詩で、カンボジアの子供たちから、
障害を抱えた日本の若者まで、
多くの人々を元気づける。詩を書くときには大きなヘッドフォンを付け、一気に書くのが特徴。

今回はジャパンフェスティバルの
一環で来豪。
14日のエスプラネードでの
イベントを皮切りに、ケアンズ市内に福詩ブームを起こしている。


自由な雰囲気あふれるHPは
http://my.peps.jp/fukushika

 

「まず自分が楽しくなければ!」 路上で詩を書くことも、モンゴルで木を植えることも 全ての行動がそこから生まれる。 何とも言えない優しいオーラをだしている 轟木太郎さん。 

 

一瞬浮かんだキーワードから、 イメージを広げて書く

07年5月14日、ジャパンフェスティバルのイベント会場で 何人もの人が順番を待って並んでいるブースがあった。 何だろう?と横からのぞくと太郎さんがいた。
写真の作品通り、太郎さんは詩人で書道家。 お客さんの名前を聞いてから、 「ここを見て」 と自分の眉間を一瞬見つめさせる。

おもむろに書き始める詩は、眉間を見つめさせた一瞬に、 湧いてきたキーワードから広がるイメージで、 サラサラッと書いてしまう。

1万人いれば1万通り、 同じ人に2度書いても同じ詩にはならない。
ふっと湧いてくる言葉はその時、その場所でしか 浮かんでこない。 それは考えて出てくる言葉ではなく、 まさに浮かんでくる言葉。 詩の意味は、太郎さんが直感的に感じたもので、 解説はできないとのこと。 書いてもらった人は皆さんそれぞれ自分で考えてみて。

もちろん自分の中にない言葉は浮かんでこない。 言葉の源はいろいろな本からだそう。 哲学書から小説まで何でも読むが、 小説はノンフィクションばかり。 ちなみに今までで一番印象に残っている本は?と聞くと、 高橋歩氏の「毎日が冒険」。以前引きこもりだった時に この本を読んで「何かやってやろう」という気になったとか。

 

何よりも書いている瞬間が楽しい、 さらに見てくれる人がいることで楽しさ倍増

書きはじめのきっかけは高齢者施設。

ソーシャルワーカーだった太郎さんは、 生きることを放棄した末期ガン患者に出会う。

なんとか元気を出してもらおうと、1枚の詩を贈った。 家族と口をきくことも、食事をとることも、 ついには起き上がることさえ拒否した患者さんが、 太郎さんの詩で変わった。

しばらくして亡くなるまで、 起き上がって詩の言葉に手を合わせるようになったのだそう。

それ以来、時間があれば路上で人々に詩を書き始めた。 ある日、ショックから言葉を失った人に詩を書いた。 書かれた詩を見てぽろぽろ泣き出したその人は、 詩を受け取り、何も言わず帰っていった。

数ヶ月後、eメールが届いた。 「あのときは"ありがとう”が言えず、ごめんなさい。 あれからその一言が、どうしても言いたくて、 一生懸命練習しました。 やっと言えるようになったので、 会いに行ってもいいですか?」

「自分の詩が何かのきっかけになってくれるのは嬉しい、 でも、まず自分が楽しいから書いている」 と言い切る。

 

どんどん広がる太郎ワールド

たった1日のイベントが反響を呼び、 ケアンズ市内でも太郎さんの詩をシャッターや壁にアートした 壁画プロジェクトも着々と進行中。
スペンスストリート沿いの「パーティサファイア」さん、 オーキッドプラザ2階のラーメン「横綱」さんでは 店頭や店内で壁画アートを発見。

自身のHP上でも、 「交通費さえ出してくれればどこでも参上」 とは言え、 「まさかケアンズで書くとは思わなかった。」 と嬉しい驚き。

さらに、11月7日に画集が全国一斉販売されるそう。 「外に出ない引きこもりの人は路上にも、イベントにも 来ないけど、本にすれば誰かが贈ってくれるでしょ?」

ケアンズで輝く人「パーティーサファイア」さん(上)の壁画。

 

感動的な話ありがとうございました。 とにかく自然体というのが羨ましかったです。 11月にまたケアンズに来た時には、 ぜひ一緒にイベント開催させて下さい!  Kazu
タグ: エッセー, ケアンズで輝く人インタビュー

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命をつなぐ緊急応急手当の知識を普及 http://www.livingincairns.com.au/%e3%82%a8%e3%83%83%e3%82%bb%e3%83%bc/kazuo-ito-2/ http://www.livingincairns.com.au/%e3%82%a8%e3%83%83%e3%82%bb%e3%83%bc/kazuo-ito-2/#comments Wed, 13 May 2009 03:21:16 +0000 Keiko Murphy http://www.livingincairns.com.au/%e3%82%a8%e3%83%83%e3%82%bb%e3%83%bc/kazuo-ito-2/ 緊急時の救命活動知識を普及し
“命をつなぐ”大切さを説く。

 

伊東和雄さん
マスターワークス代表

 

ケアンズで輝く人〜伊東和雄さん

Profile

伊東和雄 いとう・かずお
東京出身。1989年、ケアンズでダイブショップの立ち上げに携わった後帰国。ファーストエイドの必要性を痛感し、独学で学びながら、教材作成から講習までを一貫して行うマスターワークス社を設立。自動車産業、保育士研修、ダイビング業界などを対象に事業を展開。SUPER GTレース安全運営やF1レース観客救護運営ほか、早稲田大学スポーツ科学部の非常勤講師として教鞭をとるなど幅広く活動する。

 

 「突然目の前で誰かが倒れたら、あなたはどうしますか?

 

そんな現場に立ち会ったとき、最善を尽くすための救命スキルを1人でも多くの方に身につけてほしいんです」。 

 

ダイブインストラクターとして、"緊急時に命を守る応急手当" の大切さを身を持って知った伊東氏は、知識伝導のため全国を奔走する。

 

「今、自分がしなければならないのはこれだ!」とファーストエイド普及に向け、起業

2年ぶりのケアンズ。彼は、ダイビング業者の前で、学会で仕入れたばかりという国際蘇生連絡協議会の最新情報を講義した。

 

「心肺蘇生はしっかりと、絶え間なく圧迫し続けて、脳に酸素を送り続けることがとても大切。筋肉などと違って中枢神経である脳組織は低酸素に弱いからです。」など、生存率向上に貢献するスキルについて熱く語る。

 

2時間近いレクチャーの後、誰もが人の命の重さを痛感し、ファーストエイドは人ごとではない、という思いを持ったはずだ。

 

 

伊東氏が一寸を惜しんで普及を続ける「命をつなぐ」というテーマが示されたのは、ここケアンズだった。1989年、知人に依頼されてダイビングショップの立ち上げに携わり、自ら海に出る中で、海上では医者任せでなく、自分の命は自分で守るという認識と行動に触れたのだ。

 

ところが、契約を終えて帰国した日本は、まだ当たり前のことが当たり前に行われていない時代。
「ダイビングの指導は楽しかったけれど、自分じゃなくてもできる。今自分がしなければならないのはこれだ!」と応急手当(ファーストエイド)を普及させる事業を興す。

 

1990年当時、幼稚園や企業に営業へ行くと「間に合ってます。何かあったら連絡します」といった反応がほとんど。「命に関わることなのに、医者じゃなくていいの?」と言われたり、「一般人にやらせるな」とまで言う医師もいた。

 

「弁護士のアドバイスを得て、違法ではないという理論はあったのですが、反論はしませんでした。日本の文化そのものを変えることはできない。ならば理解してもらえない人にエネルギーを使わずに理解してくれる人を探して行こう、と思ったんです」何より自分がしていることは正しいと信じていた。

 

営業活動を続けながら、各国で行われる学会に頻繁に赴き、専門書を買いあさり、英語に苦労しつつも膨大な資金と時間を費やして、独学でファーストエイドの知識を深めていく。

 

ケアンズで輝く人〜伊東さん日本とマレーシアで行われているSUPER GTレースにおいて、安全運営を担当。写真は冨士スピードウェイにて待機のドクターヘリ。

 

 

経営に風穴を開けたのは、以前勤めていたブリヂストンの広報課長の理解だった。「当時は自動車事故で14,000人の方が亡くなっていた。データを見せて、"タイヤのシェア50%を占める御社は、この数字をどうやって償いますか?僕にモータースポーツの現場でファーストエイドの講習をさせて下さい。"と半ば脅しで懇願したんです(笑)」

 

もちろん広報課長を動かしたのは、氏の「人命を救いたい」という真摯な願いに違いない。この後、本田技研、トヨタ、ニッサン、ダンロップといった錚々たる企業がスポンサーに。17年を経た現在も、サーキットの職員に向けた講習やスポンサー企業の社員研修を続けている。

 

現在、車業界は大変な状況にあるが、ある企業から「この講習のスポンサーシップは最後まで守り抜きます」と言ってもらえたという。どれだけ重みのある活動をしてきたかを物語るコメントだ。

 

 

限られた時間の中で
自分がするべき役割を常に考えて

一刻を争う緊急の現場にあって、医療資格を持っていないことが引っかかった時期もあった。が、応急手当は、医師の手にかかるまで命をつなぐ行為。その場で最善を尽くす「命のリレー」の第一ランナーなのだ、とポジショニングしてふっきれた。

 

現在は、AED(自動体外式除細動器)用アラームケース開発、保育士研修センターやモータースポーツ業界での講習をはじめ、SUPER GTレース安全運営、F1レース観客救護運営、さらには早稲田大学スポーツ科学部で非常勤講師として教鞭をとるなど、まさに八面六臂の活躍ぶり。 

 

ケアンズで輝く人〜伊東さん自動車関連各社の支援により、2500円で参加できる一般向けて行き講習会も開催。心肺蘇生やAEDなどを実習し、修了すると認定証をもらえる。

 

 

 

 

 

「子どもの事故と応急手当」「緊急時の応急手当と事故防止」など、一般の人でも知識を得ることができる本やDVDも出している。

 

「その場、その時間でできることは限られています。社会の大きな流れの中で自分がどういう役割をすれば貢献できるのか、と考えて活動しているんです」

 

早稲田大学から話が来たときも、教職を持っていない自分が?とは思ったが、「多くの人に伝えるチャンス、遠慮していたら世の中にマイナスだ」とばかり快諾したとか。「受講者1人1人が伝道者、という気持ちですね。日本の社会を担う学生さんたちが、大切な人の命を守る役割を認識してもらえたら、その意義はとても大きいと思います」

 

 

 

 

「命をつなぐ」大切な知識を1人でも多くの人に伝えたい

起業した頃に比べて、世の中が変わってきたなと感じるという伊東氏。ファーストエイドの重要性は少しづつ、けれど確実に浸透し始めている。

 

「20年間、普及活動をしてきて思うのは、事態が魔法のように突然良くなることはありえない。センセーショナルなことを狙うより、自分の役割を知ってそれをやり続けたい、ということ。ただし1人の力で及ぶ限度は知れているので、本当の信念を伝え、共感してくれる後継者に活動を続けてもらう基盤を作ることも仕事だと思っています」

 

「危険だとわかっていても、スポーツとして、人生のメリハリとしてやってみたい、という想いを持つ活動ってあると思うんです。ケアンズでの自然の中でのアクティビティもそう。そんな時は、危険を承知して準備をすればいい。」ファーストエイドの知識は、人生の幅を広げる上でも重要なのだ。

 

「難しい、あるいは専門的なことは何もありません。誰もが身につけられることばかりです。ご自身と取り巻く全ての人々の幸せのために、ぜひ応急手当の知識を役立ててください」

 

 

ケアンズで輝く人〜伊東さんのウェブサイト伊東さんが代表を努めるマスターワークス社のウェブサイト

ファーストエイド講習のお知らせや、教材の購入も可能。

 

 


 

社会の役に立つ仕事を信念を持って続けている方からは、内なるエネルギーと泉のように沸き上がる智慧を感じます。「聖職者でも何でもないんだけど」とおっしゃいますが、伊東さんの言葉は、節々に人の命を助けたいという想いがあふれていて、知識を伝える姿はまるで聖なる教えの伝道者★ 子どもを産んでから、ファーストエイドの講習を受けようと思いつつ12年近く過ぎてしまった私も、伊東さんにお会いして本気になりました。ケアンズで普及をお手伝いする方向で進んでます。Keiko
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海の環境保護のために闘うEco Warrior http://www.livingincairns.com.au/%e3%82%a8%e3%83%83%e3%82%bb%e3%83%bc/john-rumney/ http://www.livingincairns.com.au/%e3%82%a8%e3%83%83%e3%82%bb%e3%83%bc/john-rumney/#comments Mon, 09 Mar 2009 23:30:30 +0000 Keiko Murphy http://www.livingincairns.com.au/%e3%82%a8%e3%83%83%e3%82%bb%e3%83%bc/john-rumney/ 自分の一部。人生を変えてしまった
圧倒的な存在…
多くの命を育む
グレートバリアリーフを守りたい。

 

ジョン・ラムニーさん
環境保護活動家

 

ケアンズで輝く人〜ジョン・ラムニーさん

Profile

John Rumney じょん・らむにー
アメリカ出身。1974年、冒険を求めてオーストラリアに移住。グレートバリアリーフでの漁師生活を経て、海の保護活動を開始。海洋学の研究とツーリズムを融合したトリップを運営し、その収益を研究資金や環境保護活動に還元する。www.marineencounters.com.au/index.htm

 

  「人が少ない。壮大な大自然が残っている。ヘビがたくさんいる(笑)。それがオーストラリアに対する僕のイメージだった」と語るのは、ミスター・アドベンチャーGBRの異名をとるジョン・ラムニー氏。

 

 

ワニまで部屋で飼っていたという、根っから動物を愛する少年だった彼は、オーストラリアへの憧れが膨らみ、アメリカを飛び出す。

 

 

1974年から3年間キャンプをしながら各地を巡り、求めていた秘境にたどり着く。それがグレートバリアリーフだった。
当時は、船上に泊まりながらダイビングをする小さなボートと、グリーン島へ行くフェリーがあったのみ。そのフェリー代も$2.70の時代だった。

 

 

ジョンは自分で船を造り4年間を洋上で暮らす。漁師として生計をたてながら、空いている時間は妻のリンダさんと海中探検を重ねる日々。圧倒的な自然の姿に魅了された。

 

 

 

愛して止まない海に変化が見られるようになったのは、80年代の初めの頃だと言う。
その頃、政府の機関から調査依頼があり、ボートで海洋学者たちと寝食を共にした。彼等の海に対する情熱に心を動かされ、「自分も海の破壊を食い止めるため何かをしたい。でも、調査を続けるには費用と機会が欠けている」と気づく。…この体験が、今後の人生をかけるライフワークへとつながっていくのだった。

 

 

その後アメリカを訪れたジョンは、海洋学関連団体をいくつか訪ね、自分と一緒にグレートバリアリーフで様々な研究を行ってはどうかと打診する。  
このアイディアは賛同を得たが、資金の問題にぶつかった。そう簡単にものごとは進まない。だが、自分の考え方はWin Winだと信じて疑わなかった。

 

 

 

打開策を見いだせないまま迎えた90年代半ば。ある生魚捕獲調査トリップに同乗した時のことだ。ボートには一般の観光客も乗っていて、ダイビングを楽しんでいた。その1人が「海上で学者の話を聞きながら様々な魚について学べる、こんな素晴らしい体験をしたことがない!」と感動し、調査元の水族館に20万USドルを寄付したのだ。

 

 

「自然とつながる体験をした人は、環境に興味を持って自発的に行動を起こすのでは?」とひらめく。そして、ダイブチャーターボートやVIP用の豪華船で、「海洋学の研究とツーリズムを融合」するというコンセプトを取り入れ、手応えを得ていった。

 

▲毎年グレートバリアリーフを訪れるミンククジラ。間近で見た多くの人に感動を与え、泣き出す人もいるほどだと言う。海洋学者によるクジラの様々な話を聞きながら、じっくりと出逢いを味わうツアーも催行。

 

 

時期を同じくして、アンディ・ダンスタンという海洋学者との出会いがあり、同じ目的に向かって意見交換をするように。
ポートダグラスを拠点とするローアイルス・プリザベーション・ソサイエティという環境保護団体を仲間とともに立ち上げたのもこの頃だ。(クリントン前米大統領に、リーフと環境のスピーチを捧げたのも、会長だった彼のアイディア)

 

 
▲ドキュメンタリー番組も各国で放映されており、今まで多くのクルーにグレートバリアリーフの素晴らしさを紹介してきた。

 

 

 

2人は次第に、ツアーで得た収益を環境保護に回すには、常に出航できる研究設備を備えた船が必要だと感じ始める。彼等には「お金を生むこと」よりも「違いを生むこと」が大切だという共通認識があった。
ジョンは、安定した豪華船のスキッパーの職を捨て、アンダーシーという船を買い取り、全てを賭けることを決意。後にアンディも、それまでの職を離れてこの船に全てを捧げた。

 



▲間近に海の生物を観察し、彼等の生態について海洋学者の説明が聞ける、今までになかったトリップが大反響。

 

 

その後、運営上の様々な変化が襲ったが、「多くの学者たちがデータを持ち寄り、お互いに情報交換しながらエコシステムの理解に努める」という大きな目標はまったくぶれていない。

トリップでの成果をもとに、漁業、政府の機関、WWF、政治家と様々な団体に問題を提起し、時には歩みを揃えながら、サステイナブルな環境づくりを目指して精力的に活動を続けている。
実際、ジョンの働きかけで、グリートバリアリーフでの漁業認定ゾーンが設けられたり、少しづつ行政も動き出した。

 

▲生態に謎の多いサメ。傷づけないように尻尾を捕まえ、体内にチップを入れて定期的に回遊場所などを計測する。こうした研究費を捻出するために行う「サメと泳ぐダイブ」トリップは大きな反響を呼んでいる。

 

収益は環境保護や研究に回すため「いつでも貧乏だよ」と笑うジョン。
「グレートバリアリーフに遊びに来ただけの自分が大きなテーマに気づかされ、そこからクリエーションが始まった。リーフの保護に関してほんの少しは変化をもたらせたと思う。10年以上かかってるけどね。自分のことはEco Warrior(環境のために闘う戦士)だと思ってる」

 

 

そう語る彼の瞳は、冒険好きな少年そのままの輝きを放つ。
仕事と思ったら続かない。彼を突き動かしたのは、海、そして生き物への強い畏敬の念に他ならないだろう。

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ケアンズの大自然の素晴らしさを多くの人に伝えたい http://www.livingincairns.com.au/%e3%82%a8%e3%83%83%e3%82%bb%e3%83%bc/yu-ohta/ http://www.livingincairns.com.au/%e3%82%a8%e3%83%83%e3%82%bb%e3%83%bc/yu-ohta/#comments Mon, 27 Oct 2008 06:52:05 +0000 Keiko Murphy http://www.livingincairns.com.au/%e3%82%a8%e3%83%83%e3%82%bb%e3%83%bc/yu-ohta/ ケアンズの大自然の素晴らしさを
1人でも多くの人に伝えたい。

 

太田 祐さん
バードウォッチング講師・ガイド

 

ケアンズで輝く人〜太田裕さん

Profile

太田祐 おおた・ゆう
1979年8月22日 名古屋生まれ。2000年3月に大学を休学してワーキングホリデーで渡豪。現在は株式会社ワイバード(日本唯一のバードウォッチング専門の旅行会社)専属講師。CAIRNS BIRDING(ケアンズ野鳥の会)、FNQ WILDLIFE RESCUE(野生動物保護&リハビリ団体)、BIRDS AUSTRALIA(オーストラリア鳥学会)所属。”ジェイさんの楽しい日本語ツアー”でもガイドとして活動

 

 

 「ケアンズの自然の魅力〜いかに恵まれた土地を与えられているかを、多くの方に気づいてもらいたい。」そんな熱い想いを持つ、バードウォッチング専門ガイド、太田さんにお会いした。

 

「ケアンズから日帰り圏内で
約400種類の鳥を見られます」

静かな佇まい。ケアンズの大自然の一部になりながら、樹々や動物たちを見詰める姿が目に浮かぶ。

 

 

 「釣りや山歩きなど、年齢や環境とともに興味の対象は変わったけれど、小さい時から自然は大好きでしたね。母の影響で日本でもバードウォッチングはしていました」という太田さん。
大学生の時、NHKで小人ペンギンのドキュメンタリーを見て、人が住んでいる場所にペンギンがいるなんて!と惹かれたのがオーストラリアに来たきっかけ。

 

何となくやってきたケアンズだったが、周りにたくさんの鳥がいるので自然と夢中に。 
わからない鳥がいたら、写真を撮り、図鑑で調べることを繰り返した。

 

「2年くらい前は、1年のうちに300日以上は森の中にいたと思います。今も休みの日は家にはいません。ドライブに出ます」
6kgのフィールドスコープや、自分の持ち物の中で一番高い(!)というカメラをかついで鳥を探す。

 

ケアンズで輝く人〜太田さん

「砂漠や寒い場所など、様々な環境を持つオーストラリア全体で800種類近い鳥がいると言われていますが、ケアンズの日帰り圏内では、その半分近い400種類を見ることができるんです。ものすごい濃さですよね」
日本とは違う鳥が多く、例えば日本では絶滅危惧種と呼ばれるミサゴが市内のヨットハーバーのポールにたくさん止まっていたり。5日間あれば200種類は見つけられるという。「日本だったらそれだけの鳥を見るのに5年くらい、かかるかもしれません」

 

 

時間、季節、更に風向きなどで見られる鳥も変わってしまう。再現性の低いバードウォチングのガイドとしては、どんな時間に光がここから射して、どんな鳥がやって来る…といった、鳥における自分なりの地図を持っている必要がある。
「たくさんの種類を見たい方、いい写真を撮りたい方、とお客さんの要望も様々なので、自分の中で全部の情報をつなげておくには、しょっちゅう色んな場所を訪れておく必要があるんです。

 

 

でも熱病のようなものかな(笑)。この自然の楽園に住んでいる事が誇りだし、趣味でもあり、仕事でもあり、生き甲斐でもあります。」

 

 

「自分の活動が、動物達の愛らしさや環境問題を知るきっかけになれれば」

太田さんは、空いている時間には、野生動物レスキューというボランティア活動も行っている。

 

 

市民の人から連絡が入ると、傷ついた動物を取りに行って応急処置をしたり、看病したり。「もらってきた卵から雛がかえったり、動物とのドラマにはしょっちゅう感動してます」

 

 

夜中だろうが、休日だろうが容赦なくかかってくる電話に快く応じるのは全てボランティアのスタッフ。
「皆、好きで集まっているんですね。それだけ生き物を意識する機会が多いのでしょう。でも黙っていてもこれだけ多くの人が動いているのはすごいことです。日本で同じような活動を行っているボランティア団体の方も、ケアンズの人々の意識の高さを羨んでいました」

 

 

他に、大学の動物の研究の手伝いに出かけることも。先日は、絶滅したと思われていたモモンガ種が見つかったという逸話を聞いて捕獲。レーダーをつけて分布などを追跡調査した。夕方に400kmも離れたタウンズビルに向かう運転も苦にならず。

 

 

また、最近は同じく大学の研究の手伝いで、キュランダへ向かうハイウェイで、動物の交通事故を減らすために、テスト用のフェンスを何種類も作って脱出させてみるという実験をしたとか。

 

 

ケアンズで輝く人〜太田さん

 

「文明生活の中にいながら自然やかわいい動物達を大事にして行きたいという、極論すれば矛盾した事をしています。
聖人でも運動家でも何でもないので、せめて自分の目に留まる範囲の傷ついた動物達を助け、自分の活動が動物達の愛らしさや、環境問題を知ってもらうきっかけになれればこれ以上の事はありません。
これだけ、仕事として趣味として楽しませてくれる自然へのせめてもの恩返しです。」

 

 

 

 

「生き物の不思議を知ったら新しい楽しみが増えるはず」

ケアンズは本当に特別な場所、と言う太田さん。
「動物が好きで、マダガスカルやアマゾンへ行こうと思う人が多いようですが、準備も費用も覚悟も必要ですよね。でも、ケアンズもそれらの土地に決して劣らないレベルです。苦労しなくても近くに奥の深い自然がある、本当に珍しい環境を持った町だと思います」

 

 

ケアンズで輝く人〜太田さんのウェブサイト太田さんが運営するウェブサイト"ケアンズEye! "。

自然や野生動物の美しい写真と情報満載。

エコツーリズムという言葉が市民権を得た今だからこそ、ケアンズの大自然の魅力を打ち出して行きたいという夢が彼にはある。
「いかに恵まれた土地かということを1人でも多くの人に気づいてもらいたい。例えばエスプラネードを歩いているだけでも、色々な動物に出会えます。薄いガイドブックでも持って、これは◯○だと楽しんでみては?」

 

 

中には、1万キロ離れたシベリアから、はるばるケアンズまで飛んでくる渡り鳥もいるとか。
「人間の体では考えられない。GPSもなしにそれだけの距離を飛んでくるんですから。まさに神業です。経験のない若い渡り鳥は力尽きて途中で落ちてしまったり…。
無事到着して、でも涙が出るくらい羽がボロボロになった鳥をエスプラネードで見かけたりすると、よく来たね〜としばらく話しかけてしまいます。
どんな旅を終えて来たんだろうと想像するだけでワクワクします。

 

 

本当に彼等は混じりっけなし、ですね。無駄がない。人間と違ってちょっと油断したら死が待ってますから。」
そんな動物たちの真剣に生きる姿を知るにつけ、地球は人間だけに与えられたものでないということ、なるべくお互い迷惑にならないようにしなければ、と思うのだそうだ。
「せっかくこんなに良い条件の所に滞在しているのだから、周りの自然や動物に目を向けてほしいですね。アリでも何でもいい。生き物の不思議を知ったら新しい楽しみが増えるはず。
一人一人が、恵まれた環境にいるのだという意識を今より少しでも高めれば、それは大きなうねりとなって節々へ届いていくはずです」

  
 
 

「知らなかった〜」の連続でした。身近にありすぎて、興味も感謝も薄れがちだった自然や動物への見方が一気に変わるほどの衝撃!私たちって、スペシャルな場所に住まわせてもらっているんですね。そう思うと、自然とどうやったらこの環境を保護していけるんだろうという方へも意識が及んで…。太田さんの知識、存在はすごく貴重だと、今まで隠れキャラ(?)だった彼にお願いしてインタビューに応じていただいたのでした。次号からは、ケアンズの自然の神秘を紹介していただくコラムも開始。乞うご期待です! Keiko
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ヒルトン・ケアンズ総支配人 http://www.livingincairns.com.au/%e3%82%a8%e3%83%83%e3%82%bb%e3%83%bc/guy-hutchinson/ http://www.livingincairns.com.au/%e3%82%a8%e3%83%83%e3%82%bb%e3%83%bc/guy-hutchinson/#comments Tue, 23 Sep 2008 04:08:18 +0000 Keiko Murphy http://www.livingincairns.com.au/%e3%82%a8%e3%83%83%e3%82%bb%e3%83%bc/guy-hutchinson/ 変革を続ける、ケアンズ
ヒルトンホテルのパワー源

 

ガイ・ハッチンソンさん
ヒルトン・ケアンズ総支配人

 

ケアンズで輝く人ーガイ・

Profile

Guy Hutchinson がい・はっちんそん
1968年2月23日ベネズエラ生まれ。南アフリカで就学後、ロンドンでホテルマネージメントプログラムを終了。フォートホテルを経て、ヒルトンインターナショナル社へ。アムステルダムでビジネスデベロップメント、デュバイでのマネージャー職を経て、2002年から3年間ヒルトン東京ベイでオペレーションディレクターを勤める。売上1.3億USドルと、ヒルトングループの中でも屈指のホテルに育て上げた仕掛人の1人。2005年より、ヒルトンケアンズ総支配人として数々のプロジェクトを成功に導いている。

 

この8年間で3大陸4ヶ国で仕事に取り組んで来たハッチンソン氏。

 

軟らかな物腰と、様々な文化を柔軟に受け入れながら対応するスマートさ、そして「1日たった1つでも変化を起こす」という前向きなエネルギーが溶け合い、「真の国際人」と言う言葉を思わせる方だ。

「毎日必ず1つでも前に進むよう努力しています」

ヒルトンという国際企業のホテルマンとして、各国で遂げて来た彼の足跡は大きい。
例えば、2005年までの3年間就任したヒルトン東京ベイでは、東京ディズニーリゾートのオフィシャルホテルとして既に高かったブランド力に頼ることなく、ユニークな発想で新風を次々と吹き込んだ。「3年間ミッキーマウスづくしさ(笑)。ホテルに住んではいたけど、自分の部屋はミッキー禁止(笑)」

 

 

取り組んだプロジェクトはこんな具合だ。ホテル上部のスカイバーだったエリアに45部屋を増設。(このうちの1つである、子どもが喜ぶ仕掛けがいっぱいのファミリールームは、ベスト・ニュールーム・コンセプトという国際的な賞を獲得した)

 

 

また、当時はまだまだコンサバだったホテルのレストランシーンに、レボリューションを起こした「スクエア」を700万USドルかけて新設。ニューヨークのトップデザイナーに依頼したという店内は、アジア、地中海、バーとテーマが分かれ、各セクションが川やガラスの滝など水の流れで区切られた開放感あふれるインテリアとなっている。スタイリッシュな空間と、半オープンキッチンで、各国のシェフが目の前で料理をしてくれるビュッフェ、というユニークなコンセプトが大きな話題を呼んだ。

 

 

 

 

1日に2000人の人が訪れる人気レストランに育てるために、話し方や立ち振る舞いを学ぶよう、ウェイトレスを東京のトップクラスのモデルスクールで2週間の研修を受けさせるといった徹底ぶり。更に、マジシャンを呼んで子ども達の前でパフォーマンスをしてもらったり。

 

 

デュランデュランのサイモン氏に、スクエア用のコンピレーションアルバムをプロデュースしてもらったり。

 

 

レストラン=食事という従来の考えを快く打ち破ってきたその理由は、「ホテルのレストランシーンを変えたかったから」。

 

 

常に、新しい喜びをお客様に提供したいというホスピタリティ精神は、月に1度、各界の著名人とコラボレーションしたイベントを行うなど、留まることを知らない。
今までにないものを作り出す創造性の源は、「たくさん旅行をして見聞を広めてるからかもしれない」と分析する。

 

 

ただし、アイディアを出すのは楽しい部分。「ビジネスとして結果を出したかったら、ファイナンスに焦点を当てなければ」ときっぱり。
どの職場においても、何ができるのか、何が求められているのかを常日頃から考え、毎日何か1つでも変化させている。

 

 

「そこにあったものをこっちに動かす、大きな工事をする・・・内容の差はあれ、毎日必ず前に進むように努力しています」

 

 

 

「待ってるだけではいけない。常に新しさを打ち出すべき」

ヒルトンケアンズに着任したのは2005年。めまぐるしく物事が移ろう東京から、南国リゾートケアンズへ。
「非常に大きな可能性を秘めているデスティネーション」と言う印象を持ったそうだ。この町の核を成している人々は、予想以上に強く質の高いビジネスマインドを持っていることにも驚いたとか。

 

 

現在、低迷していると言われるケアンズの日本人観光業に関してもポジティブだ。
「我々のホテルのゲストの45%は依然として日本からのお客様。数が減ったとしても、本当に重要なマーケットだと認識していますね」
年に一度は自ら日本へ赴き、セールスコールを行っている。日本で初めての国際ホテルはヒルトンだったこともあり、ヒルトンはブランド力が非常に強く、強固なネットワークがあるのだそうだ。

 

 

ただし、ハッチンソン氏の考えは、自社のみに留まるものではない。
「ケアンズそのものをデスティネーションとして訴求することが大切だと考えています。
こういう時期だからこそ、力を合わせる必要がある。お客様の方がどんどん変化するんです。
だから、魅力的でフレッシュなプロダクトを打ち出さないと難しいでしょうね。
常に新しさを求めなければなりません。観光地によっては、年に16ものパンフレットを出していたりしますから。」

 

 

ハワイのリピート日本人観光客は約85%と言われる一方、ケアンズはたったの15%。具体的な数字や例を挙げながら、
「歩みを止めてはいけない。アグレッシブにマーケティングしていくことだと思います。待っているだけでは駄目」と繰り返す。
常に新しいことにチャレンジし続けているハッチンソン氏の口から出る言葉だけに重味がある。

 

「心をオープンにして人生の偶然を楽しみたい」

ハッチンソン氏の就任以来、ヒルトンケアンズは、まず目に見える形でずいぶんと変わった。
ロビー、バー、フロントデスクが全面的に改装され、更にエグゼクティブスイートや、スパスイートと言った部屋が追加され、今はメルボルンのトップデザイナーに依頼した新会議室のデザインを終えたばかりとか。

 

 

加えて、ウェディング用チャペルがあと2週間で完成、と言う忙しさだ。全面ガラス張り、バリの教会を参考にしたというこのチャペルは、水に囲まれた小オペラハウスのような佇まい。海に面したガーデンにあり、絶好のロケーションと言えるだろう。

 

 

 

ハードに手を加える一方で、オーストラリアトップデザイナー6人によるファッションショーの開催、ジュエリーフェアといったイベントも積極的に行い続けている。

 

 

「ホテルは色々な人が集う場所。だからローカルコミュニティへの貢献も考えて、今後も様々な催しを行って行きたい」と言う。日々の努力が実ってか、アジアに60あるヒルトンホテルのうち、ゲストの満足度アンケートでは、ヒルトンケアンズは5位に輝いている。

 

毎日ホテルを隈無くチェックし、改善を考え実行。

「忙しいのが好き。予定がないと、秘書に言ってダイアリーを埋めちゃうくらい。(笑)。色んな帽子をかぶれる(ホテル内のあらゆる職を指している)この仕事が大好きですね」

 

 

心からビジネスを楽しむハッチンソン氏に今後の目標を尋ねると、「人生はあまり1つのゴールにこだわらない方がいい。僕は今にとても満足しているけれど、心をオープンにして、人生が運んでくる偶然も楽しみたいんだ。」

 

 

数年に1度国を変え、広い文化体験を積んできた、彼らしいしなやかさがこの答えにも映されていた。

 

 

滞在中のINXSと仲良くなって一緒に釣りに行き、釣れた魚をレストランで料理してもらった話(ケアンズの誰もスターに気づかなかったとか)、日本の天皇がロンドンにご宿泊前、貸し切った12部屋の間取り図を2週間前に送った話(間取り図に収納プランが書き込まれ、信じられないくらいオーガナイズされていた!)、ブルネイ国王に、ミッキーバスを2台売ってくれ、と言われた話など裏話も楽しくて。本当にホテルはドラマのある場所なんだろうな。ビジネスマンとしても勉強になったインタビューでした。Keiko
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住職の道を選んだPADI初代日本校長 http://www.livingincairns.com.au/%e3%82%a8%e3%83%83%e3%82%bb%e3%83%bc/isshin-yoshida/ http://www.livingincairns.com.au/%e3%82%a8%e3%83%83%e3%82%bb%e3%83%bc/isshin-yoshida/#comments Wed, 17 Sep 2008 01:26:26 +0000 Keiko Murphy http://www.livingincairns.com.au/%e3%82%a8%e3%83%83%e3%82%bb%e3%83%bc/%e3%83%98%e3%83%b3%e3%83%97%e3%82%92%e9%80%9a%e3%81%98%e3%81%9f%e7%92%b0%e5%a2%83%e6%b4%bb%e5%8b%95/ 恒久平和への祈りを
小笠原の新寺より捧げる、
PADIカレッジの初代日本校長。

 

吉田一心さん
小笠原・行行寺住職

 

ケアンズで輝く人ー吉田一心

Profile

吉田一心 よしだ・いっしん
1944年11月29日 中国チンタオ生まれ。大学卒業後、日本赤十字社神奈川県支部勤務、救急法と水上安全法の普及を務める。1977年NAUIインストラクター、’82年PADIインストラクターに。’87年PADIカレッジジャパン設立と共に校長に就任し、約1000人のインストラクターを養成。’93年浄土宗僧侶になり、三重県鈴鹿市の南龍寺住職として8年勤め、’03年小笠原村へ。新寺建立の資金集めのため、4年間全国行脚。 ‘07年、新寺、行行寺開山。現在、同寺住職。

 

40代半ばにして僧侶になることを志し、不思議な縁に導かれ、小笠原諸島の父島に新寺を建立、現在は住職として勤める吉田一心さん。

もともと、海、そしてビジネスの世界に身を置いていた氏が、仏教という異なる世界を生きるまでに、どのようないきさつがあったのだろうか。

 

生きるとは、そして死とは 救いを求めて、ビジネスの世界から仏教の道へ。

 
小学校4年生までは北海道、その後ずっと神奈川県の藤沢に住んでいた吉田さんにとって、海は常に身近な存在だった。大学1年の時から江ノ島西浜のライフガード、卒業後は、日本赤十字社で海での救助活動を続ける。

 

 

その後、世界的なネットワークを誇るダイビングスクール、PADIの日本校長に就任し、単身赴任で仕事に没頭。新規コースの開発など、インストラクターのために様々な業務に取り組んだ。だが、売上を計算する頭の片隅には、海で命を落とした人達の苦悶に満ちた顔が離れなかったという。

 

 

「ライフガード時代から見てきた人間の死は、苦しく、恐ろしいものでした。」自分もあのようにもがき苦しみ死んで行くのかと思うと、死が恐ろしくなる。生きるとは何か、死ぬとは…。救いを求めるべく、仏教本を手元に置いた。

 

 

「当時は無我夢中で働いていましたが、40を過ぎると、”死”はどこかの誰かのものではなく、自分自身のものとして思うようになります。このまま人生が終わっていいのか…そんな思いを持っていました。」

 

 

6年後、2つの組織に分かれていたPADIが1つに統合されることに。
「ここは肉体的にも精神的にも人生の転機」と、バブル全盛期、46歳のときダイビング業界を離れる。

 

 

「僧侶になろう、と決心したのは、故郷の北海道に帰ったとき。無性に帰りたくなり、訪ね、その夜決めました」

 

 

小笠原の戦地跡を訪れ、 僧侶としての夢が固まる。

 

この決断がダイビング業界に波紋を呼んだのは言うまでもない。

が、吉田さんの決心は固かった。佛教大学の通信課程で学び、実践の修養を積んで、3年後に僧侶の資格を得、跡継ぎのいなかった三重県鈴鹿の寺で住職になる。

 

 

更なる転機が訪れたのは、5年余りが過ぎた頃。

小笠原の父島に住むダイビング仲間からの、「亡くなった叔父の葬儀を執り行ってもらえないか」という1本の電話がきっかけだった。

 

 

かつて島には寺が2つあったが、1944年の空襲で焼失、戦後も再建されていなかったのだ。電話の5ヶ月後、硫黄島で法要をすることが決まり、吉田さんは小笠原を訪ねた。
法要が行われた硫黄島は、戦争末期、日本兵20,129名、米兵6,821名が戦死する死闘が展開された場所である。法要の後、多くの命が失われた地下壕を歩いた吉田さんに、平和への希求という、強い思いがわき上がる。

 

 

「島で戦没者の慰霊を続けたい。鈴鹿の寺は跡継ぎがいる、娘2人も独立している…身軽な自分が行かず誰が行くのか…」
小笠原に新寺を造るという夢の基礎がこの時から固まっていった。

 

 

ケアンズで輝く人ー吉田一心さん

80余名が参列した落慶法要にて、父島の方々との記念写真。吉田さんの向かって右には村長さんご夫妻の姿も。

 

 

 

努力の末、小笠原唯一の寺を建立。 平和のために祈る。

新寺を建立するには、当然ながら費用がかかる。堺市、正明寺の副住職の方など仲間が支援活動を始め、全国1,110の浄土宗寺院から建設資金を募ってくれた。

吉田さん自身も、北海道から沖縄まで学校や福祉施設で、時には街頭に立つなど200回にもわたる法話会を行って全国行脚をし、浄財を募った。

4年間で、土地の購入とお寺を造る資金が溜まったというバイタリティはすごい。

 

 

「お釈迦様と法然上人の仏教思想を広めたい、小笠原村の人の役に立ちたい、自分で決めたことだからやり遂げる、などいろいろな想いを持って活動を行いました。
でも、寄進者が増えた途中からは”夢の共有”へと変化しました。私だけの想いではもうないのです。全国の多くの方々と夢を共有し、スクラムを組んでの仕事です。辞めよう、などと思ったことは一度もありませんでした」

 

 

お金集めは計画通り順調に進んだが、予想に反して土地が決まらない、という苦しみに直面するも、ついに戦後62年目の夏に、建設着工。

 

 

ケアンズで

内地からいらした方々を乗せたおがさわら丸が父間を離れたところ。ドルフィンテール号船上よりの見送り。「また来いよー!」、「また来るよー」。この後、海に飛び込み海中から最後のお見送りとなったそう。

 

 

 

 「寺の掲示板には”歩めば到る”と掲げています。新寺建立発願以来の想いです。歩まねば、目的地には到達できません。微速でも努力をし、歩めば到達できます。目的(地)を持ち、歩む(努める)ことが人間として重要ではないのでしょうか」

 

 

天井画は京都ゆかりの中国人画家が担当。モチーフは龍だが、吉田さんの希望で小笠原の抜けるような空と海をイメージして青を主体に。墨色の線描をほどこし、戦没者への鎮魂の想いも込めたという。

 

こうして行行寺(ぎょうぎょうじ)が完成し、住職に就任した現在は、「長く寺院がなかった島の人達に仏とのご縁を結ぶ助けを、そして戦没者への回向と恒久平和を祈りたい」と語る。

 

 

政府は硫黄島へ遺骨収集団を60回以上派遣しているが、いまも、12,000体の遺骨は眠ったままだ。

 

 

「絶対に平和でなくてはいけません。それは”母と子が手をつないで歩ける世の中”です。今、世界中でそれをできない所が何カ所もあります。どちらが勝っても負けても、共に多くの死者が出るのが戦争です。理由をつけて戦争をしてはいけません。

 

 

今は、硫黄島の玉砕兵士と共に、硫黄島で命を落としたアメリカ兵にも回向を捧げる日々を送っています。」

 

 

まばゆいばかりの海原を見渡す山腹の寺で、吉田さんの祈りは続く。

 

 

 編集後記
なぜ小笠原の方のインタビューが?と不思議に思われた方もいるかもしれません。(実際にお会いせずに原稿を書くという初体験に苦労しました…)実は、ダイビングつながりでケアンズと縁のある吉田さんが、11月12日と13日にケアンズで講演会と法話会をして下さるんです!(詳しくはP.31イベントページに)。ビジネスの世界、海、仏教、全てがバラバラなようでいてつながる人生の不思議をしみじみと感じます。「求め」て、「歩む」ことが大切なんですね。  講演会が楽しみです。Keiko
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心に従って自らが変化になればいい http://www.livingincairns.com.au/%e3%82%a8%e3%83%83%e3%82%bb%e3%83%bc/diana-russo/ http://www.livingincairns.com.au/%e3%82%a8%e3%83%83%e3%82%bb%e3%83%bc/diana-russo/#comments Tue, 23 Sep 2008 03:21:35 +0000 Keiko Murphy http://www.livingincairns.com.au/%e3%82%a8%e3%83%83%e3%82%bb%e3%83%bc/diana-russo/ 人,コミュニティ,自然と
つながり、地球が
永らえる環境を
作っていきたい。

 

ダイアナ・ルッソさん
ヘンプ・ホライズンズ

ケアンズで輝く人ーダイアナ・ルッソ

Profile

Diana Russo だいあな・るっそ
6月8日アデレード生まれ。戌年。広告会社の営業で訪れたケアンズに惹かれて移り住む。子育てをしながら学んだヘンプの環境的な素晴らしさを多くの人と分かち合うべく、オーガニックヘンプのアパレル会社、エコソルーションズのオーストラリア販売代理店Hemp Horizonsを主催。キュランダオリジナルマーケットに4人の女性でユニットを組むアースコネクションという店を出店し、ヘンプ商品の普及に努める。
www.earthconnectionskuranda.com

 

 

内側から輝く生き生きとした美しさ。それは、周りへの愛と自分自身の満たされた心を持つ人が得られるものなのだと、気づかせてくれる女性。サステイナブル(持続可能な)地球と生き方を求めて、様々なアクティビティを展開するダイアナさんをキュランダに訪ねた。

 

「講義で聞いて頭にひっかかっていた1つのフレーズに導かれて」

最近再開したキュランダ・オリジナルマーケットの終わりに、小さなお店を出している4人の女性がいる。ミュージシャン、アーティスト、オーガニックヘンプ(麻)を使う服飾デザイナーの3人、そしてヘンプ製品の普及に努めるダイアナさんだ。

 

 キュランダ・マーケット内でアースコネクションズというお店を共同経営する大切な仲間、ミュージシャンのレイチェルさん、服飾デザイナーのリアさんと。写真左端に写っているのは、リアさんが作ったオーガニック・ヘンプのドレス。

 

 

お店はそれぞれの個性が生かされた、緩やかな時間の流れるハッピーワールド。自分たちのクリエイティビティに共感してくれるお客さんと、楽しそうな会話がはずむ。
人、コミュニティ、そして自然とコネクトし、地球の保護活動を広めたいという想いで名付けられた"アースコネクションズ"というお店は、まだ開始して数ヶ月目だが、既に様々な"つながり"が広がって来ていることを感じると言う。

 

ケアンズで輝く人ーダイアナ・ルッソ 

「私は、もともとは広告会社の営業をしていました。人と話すのが好きだったし、営業しながらオーストラリア中を巡れるのが魅力で。でもケアンズに来た時に、この土地が大好きになってしまって一大決心。退職して$20だけを持ってやってきたの!」
その後赤ちゃんを授かり、1983年によりナチュラルなライフスタイルを求めてキュランダへ移った。

 

 

「子どもが3人でき、専業主婦をエンジョイした」とは言うものの、キュランダハイスクールのPTAをしたり、キュランダ初の保育園の立ち上げに携わったり、シアターグループを結成したり、アンフィシアター(野外劇場)の活動に積極的に関わったり。主婦としてできるコミュニティ活動に精を出す。

 

 

そして、スミスフィールドにキャンパスができたのと下のお子さんが小学校へ上がったのを機に、「地球を守るにはどうしたらよいか学びたい」と、大学へ。
授業中に見た、billion dollar cropというDVDに流れた最後の言葉…"What is criminal is that we are not growing it"という1文が頭にひっかかった。

 

「ヘンプの大切さに気づき、できるところから関わってみました」

石油と森林に替わる可能性を秘めた農作物として、また、様々な生活習慣病を改善する新しい健康食品として世界中で注目されているヘンプ。ヨーロッパ諸国やカナダでは、第二次大戦後から約50年間栽培禁止になっていたが、90年代に入って多くの国が栽培を再開。
食べ物はもちろん、建材、布など(ベンツは車種によっては車体にヘンプ素材を使用!)何と25,000種類もの商品がヘンプから作られるというから驚きだ。しかも、ヘンプは農薬や化学肥料を多く必要しないため環境に優しく、短期間で育つ。
調べれば調べるほど、その環境的な素晴らしさに気づき、ヘンプに関する何かをしたい!と心が疼いた。

 

 ケアンズで輝く人ーダイアナ・ルッソ

「でも子どももいたし、お金もない。ヘンプの畑を買うには資本がいるし…。当時オーストラリアにヘンプはなかったし、どうやって関われるんだろうと長い間模索しました」。マリーバ市長にヘンプの素晴らしさを伝えるDVDを送り、ヘンプファームを誘致する要請をしたこともあると言う。(現在もオーストラリアにおけるヘンプ栽培/取引の規制は非常に厳しい)

 

粘り強く自分なりに出来ることを考えるうち、国外のヘンプ会社〜エコルーションに出会い、オーストラリアのディストリビューター(販売代理店)になりたいと申し出たのが2002年のことだった。

 

 

 

同時期、ある機関のスポンサーシップを得て、キュランダの人々が作るオリジナルヘンプバッグをマーケットで販売するコミュニティ活動も。
「小さく記事で取り上げられて、6万個も注文が入ったこともあるのよ(笑)。みんなで手作業で作っているんだから無理って断ってしまったけど、人々が興味を持ってくれたことが嬉しかった」

 

その後、バッグだけでは飽き足らず、服やアクセサリー作りにも幅を広げ、地元のファッションパレードに参加したこともあるそう。「好評だったから、盛り上がっちゃってメルボルンカップのファッションパレードにも出たのよ」と笑う。
2年後、キュランダ・ヘンプバッグのプロジェクトは終わったが、ダイアナさんのヘンプ普及活動は現在のお店を通して続いていく。

 

 

「心に従って、自らが変化になればいい」

「これからは、個々の人間も企業もサステナビリティを意識しなくてはいけないと思う。
今は、"地球を尊重したい" という情熱を持った人々やコミュニティとつながる場を持てていることが幸せ」と言うダイアナさん。自らも極力電気を使わない昔ながらの生活を森の中で営んでいる。

 

 

 

取引先エコルーション社の、ルーマニアにあるヘンプアパレル製造所を訪ねた時の感想をこう語ってくれた。
「野菜を自給自足して、笑顔のあるシンプルな、でも特別な暮らし。西欧型のライフスタイルに疑問を持つ私は、彼らは何て素敵なんだろうと思った。
私がルーマニアの工場と取引するのは、彼らの環境哲学が素晴らしいことと、人件費も正統に払われて、上質でオーガニックなヘンプを作っているから。それに、ルーマニアはヘンプの栽培を中止しなかった数少ない国の一つだからヘンプの伝統も息づいているの」

 

 

彼女の言うサステナビリティは、環境も人も伝統も…地上にある全てが永らえる道なのだ。

 

 

 

「完璧な人間はいないけど、心に引っかかることがあったら、小さな変化を自ら興していけばいいと思う。私は自分が信じることに向かって、常に行動を興したいと思っているわ」
やわらかな光の中で微笑む彼女の周りで、今後もっともっと素敵なコラボレーションが起こっていきそうだ。

  

お孫さんまでいるとは思えない若々しさ!心がオープンなダイさんの、エネルギッシュで温かいオーラに包まれて会話は留まることを知らず…。年齢も国籍も超えて、全ての出会いを全身で喜んでいるような彼女を本当に美しいと思いました。08.08.08(8月8〜10日)に、キュランダマーケットの30周年を記念して、ダイさんがオーガナイズするフェスティバルがマーケット内で行われるので、ぜひ足を運んでみて下さい。ヘンプブースも出店するそうですよ★  Keiko
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ホテルの経営は、人生そのもの。 http://www.livingincairns.com.au/%e3%82%a8%e3%83%83%e3%82%bb%e3%83%bc/%e3%83%9b%e3%83%86%e3%83%ab%e3%81%ae%e7%b5%8c%e5%96%b6%e3%81%af%e3%80%81%e4%ba%ba%e7%94%9f%e3%81%9d%e3%81%ae%e3%82%82%e3%81%ae%e3%80%82/ http://www.livingincairns.com.au/%e3%82%a8%e3%83%83%e3%82%bb%e3%83%bc/%e3%83%9b%e3%83%86%e3%83%ab%e3%81%ae%e7%b5%8c%e5%96%b6%e3%81%af%e3%80%81%e4%ba%ba%e7%94%9f%e3%81%9d%e3%81%ae%e3%82%82%e3%81%ae%e3%80%82/#comments Tue, 08 Jul 2008 05:54:04 +0000 Keiko Murphy http://www.livingincairns.com.au/%e3%82%a8%e3%83%83%e3%82%bb%e3%83%bc/%e3%83%9b%e3%83%86%e3%83%ab%e3%81%ae%e7%b5%8c%e5%96%b6%e3%81%af%e3%80%81%e4%ba%ba%e7%94%9f%e3%81%9d%e3%81%ae%e3%82%82%e3%81%ae%e3%80%82/ ホテルの経営は、人生そのもの。 だからハートが入っている。

 

Paul Kamsler Jr.
パシフィック・インターナショナルホテル
総支配人

 

ケアンズで輝く人ーポール・カムズラー・ジュニア

Profile

Paul Kamsler Jr. ぽーる・かむずらー・じゅにあ
ケアンズ生まれ。シドニーの寄宿学校で教育を受けた後、両親のビジネスを手伝うため帰省。カムズラーファミリーとして、ケアンズ初の国際級ホテルを1982年に創設。当地の観光業の重要な役割を担い続ける。地域へ様々な貢献した一家としても著名で、数々の賞を受賞。’08年6月に、ケアンズ初のブラジル風バーベキューレストランをホテル内にオープン予定。老舗ながら、常にケアンズに新風を吹き込んでいる。

土地の名士。ケアンズに長く住む人なら知らない人はいない、カムズラー一家。多くの人の尊敬を受けるこの一家を代表して語ってくれた、ポール氏のビジョンは…。

 

「1978年。一家で訪れたハワイのビーチで、ケアンズにホテルを 建てる夢が始まった」

ケアンズシティの中心、そして海岸通りという最高のロケーションにあるパシフィック・インターナショナルホテルが、家族経営のホテルと聞いて驚く方がいるかもしれない。  

 

「家族で経営するホテルというのは、ヨーロッパではよくあるけどね。ヒルトンなども最初は家族経営だったけれど、アメリカでグローバリゼーションの波が押し寄せて来てから、ほとんどがよく似たブランドホテルになってしまった。

 

 

でも、ゲストは、温かみや個性のあるスモールホテルを望む時代になってきていると思う」と語るポール・カムズラーJr.さん。  

 

パシフィック・インターナショナルホテルが長く愛され続けているのは、支配人であるカムズラー一家の思想が隅々まで行き届いているからに違いない。  

 

「ホテルが自分たちのホーム。だから、ゲストの皆さんは我が家に遊びに来てくれた大切なお客様。  
そうだね、ホテル経営というのは僕らにとって、仕事じゃないんだ。"a way of life"〜人生そのもの。だから経営にハートが入っているんだよ」  

 

 

ケアンズで輝く人ーポール・カムズラージュニア

 

実は、パシフィック・インターナショナルホテルはケアンズ初の国際級ホテル。
それまで高層ビルなど1つもない、のんびりとした田舎町ケアンズでは11階建てホテルの出現は大きな出来事だった。  

 

当時は「カムズラーは熱病にかかったんじゃないか」と言った批判の声がうずまく。  
が、一家には「観光が今後ケアンズの大きな産業になる。大型ホテルが必要とされる時代が必ず来る」と言う確固たる信念があった。  
折しも、時を同じくしてケアンズに国際空港が開港。パシフィック・インターナショナルホテルは、町の発展に大きな役割を果たすようになっていく。

 

 

「そもそもは、両親が1950年にケアンズにホリデーに来て気に入って、小さなモーテルを運営し始めたのが始まり。  
1978年に家族旅行でハワイに行った時、ケアンズもここと似ているじゃないか。ケアンズには観光地としての可能性がある。ホテルを建てよう、と言う夢が始まったんだ」  

 

そして土地探し。1875年に、初めてヨーロッパ人が船から降り立った土地、と言う歴史的な場所〜現在ホテルが立つ場所〜に決めた。
1980年に着工、1982年にホテルはオープンし、一家の夢が現実のものとなった。

 

 

「一番大切なのはスタッフ。 そしてゲストに温かく、
きめ細かなもてなしをすること」

 

唯一の国際ホテルとあって、オープン後は国内外の様々なセレブが滞在したと言う。  

 

ウィーン生まれで、在ケアンズ・ウィーン領事も勤めたお父上、ポール・カムズラーSnr.のヨーロッパ的な趣向も手伝ってか、作家など文化人にも好まれた。
同氏は、85才の今も、ホテルで指揮を取る。  
(ちなみに、木曜島の真珠養殖産業、そして何とクロコダイルハンターをしていたというユニークな経歴を持ち、"特筆すべき貢献をした人"と言う賞を受賞するなど、コミュニティから尊敬を受けている人物。)

 

 

ケアンズで輝く人ーカムズラー一家真ん中がお父様のポール・カムズラーSnrさん、右が弟のマークさん。創設以来、一家で経営している事を誇りにしている。

 

 

オープン以降26年経った今、周りにはホテルが多く立ち並び、ケアンズの様相も様変わりしたが、パシフィック・インターナショナルホテルの哲学は変わっていない。  

 

「一番大切なのはスタッフ。そしてもちろん、ゲストがお金を払うに値する温かく、きめ細かなもてなしをすること」

 

ただし、老舗という看板に甘えず、常に前を見据える。石焼ステーキも、釜焼きピッツアも、ケアンズで初めて導入したのは当ホテルのレストランだった。

 

「同じことをするレストランが増えたから」と、今は、これもまたケアンズで初のコンセプト、ブラジル風バーベキューレストランを開業準備中だ。

 

「大変競争が激しいケアンズのレストラン業界で、他と同じことをしていても成功しない。上質なビーフ、そしてエキサイティングという、人々が好きな2つのキーワードを満たすコンセプトを探して行き着いたのが、ブラジリアンスタイルだった」。  

 

大型の串焼きを、シェフがテーブルでサーブしてくれると言うエンターテイメント性の高いシアタースタイルのレストラン。  

 

横には、地元の食材をできる限り使ったスペイン風小皿料理と、独創性あふれるカクテルを出すバーが設えられる予定だ。現代的なインテリアの中に、当地の歴史的な写真を飾ったりと、あくまで「ローカル」にこだわるところが、パシフィック・インターナショナルらしい。

 

 

「人生はチャレンジ。 困難に乗り越えた時、強くなれる」

豪ドルが強い為替、株式市場の暴落、グローバル、クレジットクライシス、燃料費の高騰など、現在多くの困難に立ち向かっているケアンズ。  
これらの要素が相まって、観光客の数自体が減り、更に、訪れた人々も以前よりお金を使わなくなった。

 

 

誰も目を向けなかった時代に、観光地としてのケアンズの可能性を確信し、ビジョンを持って進み続けたカムズラー一家は、今の停滞気味のケアンズの観光業界にどのような考えを持っているのだろうか。  

 

 

ケアンズの変遷を見守ってきたパシフィックインターナショナルホテルケアンズ初の国際級ホテル、パシフィック・インターナショナルホテルは、海沿いの最高のロケーション。この26年間、ケアンズの様々な変遷を見守って来た。

 

 

 

「僕らがホテルを建ててからこれまでも、ライバルの出現はもとより、SARSや不景気など、多くの大変な時期があった。
でも、これらの出来事が僕らを一層強くしてくれたと思う。  

人生って、チャレンジすることではないかな。今、事業にとってはタフな時だけれど、この時期を乗り越えた後に、ケアンズは一層強く、そしてより多くの人が訪れる町になっていると思う。」  

 

経営を楽しく行い、ハッピーでいたいと言うポールさん。町に根付き、ハートのあるホテルをカムズラー一家が運営していることは、”ケアンズにとってのハッピー”と言えよう。

 

 

編集後記:

インタビューのリクエストに、個人でなく一家としてフィーチャーしてほしいとの第一声。家族経営って簡単なことではないと思うのですが、26年間経った今でもその絆は強い!
「口論もよくするし、普通の家族」とおっしゃっていましたが、お互いを尊敬している様子が撮影時に自然とあふれて。
時代の一歩先を読む先見性を持ちながら、足が地についている。
ハッピーでいたい、と言い切るいい意味でのリラックス感が、生粋のケアンズっ子であることを感じさせる方でした。Keiko

 

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異次元体験の場をクリエイト

Jeff & Carol Fleming
スパ・オーナー

 

Jeff & Carol Fleming(じぇふ&きゃろる・フレミング)

ジェフさんは5月18日、キャロルさんは12月3日生まれ。共にニュージーランド出身。30年前オーストラリアに移住、ゴールドコーストでホテルを経営した後、ケアンズエリアへ。デインツリーエコロッジのスパに携わり、世界的に有名なスパに仕立てる。現在は、パームコーブのリーフハウス・スパとゴールドコーストのQ1スパを所有・経営。イギリスVogue誌や、ハーパーズ&クイーン・ロンドン誌、Conde’Nest Travellerなど名だたる媒体で、オーストラリア・サウスパシフィックNo.1スパ、世界スパトップ10、他多数の賞を受賞するなど、世界的な賞賛を浴びる。ケアンズ北にある静かなビーチに居を構え、世界各国のスパ開設コンサルタントとしても縦横無尽に活躍中。
スパの情報はこちら
Tel:4055 3633

 

世界の蒼々たる有名サロンを押さえ、ワールドスパトップ10、オーストラリア・南太平洋地区ナンバー1スパをはじめとする数々の受賞歴を誇り、国際的な賞賛を浴びるリーフハウス・スパの創業オーナー、

 

そして今やスパキャピタルとも呼ばれるパームコーブのトレンドの土台を築いた仕掛人……そんな肩書きから想像するバリバリのビジネスマンというイメージを美しく裏切ってくれる、フレミング夫妻。

 

常に二人三脚でビジネスを営んで来たお2人の周りには、スパコンサルタントとして、世界を飛び回る多忙さを微塵も感じさせない、リラックスしたハッピーな空気が流れている。

 

 

事業をしながら通った美容学校を卒業後、新たな道が次々と開ける

美に敏感な英国VOGUE誌のエディターのお目にもかなうこのスパの始まりは、いたってシンプル。
「自分の気持ちに素直に向き合った」こと。

 

「長い間、ゴールドコーストでホテルの経営をしていて、それはそれで良かったのだけど、違うことにチャレンジしたい。ヒーリング関係の仕事をしたい、と心が疼いてきて」
「目出たくキャロルはナチュラル・メディスン・カレッジで最年長の生徒になった(笑)」と、ジェフさんが続ける。

 

彼女の夢を支え、1年間1人で事業を切り盛り。本当に2人は仲が良い。
「この小さな始まりが私達の人生を変えました。卒業後は、次々と扉が開いて行くように、セラピーの仕事が舞い込んで来て…」
この変化をゴージャス・トランジットと彼女は表現した。

 

 

ケアンズで輝く人〜フレミング夫妻 メイントリートメントルームでのお2人。ビシーシャワーと呼ばれる、リズミカルなハイドロセラピーは丘のスパもこぞって導入するほどの人気。2人の美的センスが映された室内は、インテリアの細部にまで気が配られている。

 

ホリスティックとスピリチュアル。
2つの要素をパッケージ化して成功。

 

心機一転、ファーノースクイーンズランドへ居を移し、自分たちのスパを創ることに情熱を注ぐようになった2人。
ホテルの経営も、人を大切にするホスピタリティ業。マーケティングも含め、スパのビジネスも基本は同じ、と言うジェフ氏がビジネス全般を、セラピストの資格を持つキャロルさんがサロンを見ると言う、分担制は今も同じだ。

 

 

ケアンズで輝く人〜フレミング夫妻 スパ建物
南国情緒あふれるエントランス。シーベルリーフハウスの中庭、プールに面した一画はリゾート気分も満点。

 

現在のスタイルのスパを確立するまで各地のサロンを訪れたが、マッサージが気持ちいい、と言ったレベルの所ばかりで、オーストラリア的な場所がない。
自分たちが提供したいものと何かが違う、そんな葛藤の中で出会ったのが、Li’Tyaのプロダクト。
アボリジニの人々の間で古代より伝えられて来た薬草などを取り入れたものだ。

 

バラバラだったピースが1つにまとまり、ホリスティックで、スピリチュアルなセラピーをパッケージにするという新しい着眼点が、2人のスパを一躍有名にするカギとなった。

 

「人は、色や匂い、音、に惹かれるもの。うちのスパでは、施術前にトリートメント用の塩を触ってもらったり、オイルの匂いを嗅いでもらったり、お客さんに関わってもらうんだ」

 

アボリジニの人々の儀式にあやかって場を清め、神聖なスペースを創ったり、小さな特別感が重なり合って、施術が始まる前から、自然と違う次元へ誘われていく。

 

フルーツやベリーなど、オーストラリアの天然素材を使ったLi’Tyaの、スキンケア製品としての質の高さに加えて、魂を解き放してくれるような体験ができる異次元空間が人々を魅了し、噂となるのに時間はかからなかった。

 

2人がクリエイトしたのは、外見の美を追いかけるサロンではなくて、躰も魂も健やかになってほしいという願いから生まれた、五感全てに訴える、神秘的とも言える”体験”の場なのだ。

  

 

スパセラピストが財産

現在、パームコーブには7軒のスパが並んでいるが、2人に敵対意識は全くない。

「美しく、健やかになるために人々がパームコーブを訪れ、幸せな気持ちになってくれる。本当に喜ばしいことだわ」
彼等のハッピーオーラは、周りの人を包み込むのだろう。サロンのスタッフも、本当に生き生きと、誇りを持って働いている。そしてオーナーである2人とも「スパの宝は、セラピスト」ときっぱり。

Li’Tyaの専門セラピストとして、総合的な美しさと美を追求する、高いスキルを持ったスパ・セラピストになるまで、1人1人、数週間みっちりトレーニングを受ける。
サロンを立ち上げた5年前は、セラピストを集めるのにとても難儀したが、今は募集をかけなくても「働きたい」と応募が来るそうだ。

ケアンズで輝く人〜フレミング夫妻

 

2人の哲学が反映されたリーフハウス・スパは、コロニアル・プランテーションスタイルと南国の趣を融合させたインテリアが美しい。椅子、テーブル1つに至るまで、輸入後にラスティックな仕上げを地元業者に依頼するなど、手が込んでいる。

 

逆に、2人が経営するもう1つのサロン、Q1はゴールドコーストの高層タワーという場所柄、アーバンな空間に仕上げたと言う。

 

2人の元にはサロン設立に関する相談も多く、立ち上げと最初の数ヶ月の経営までに携わったり、コンセプトを練ったりといった、スパコンサルタントとしての仕事がひきもきならない。

 

地元、国内だけでなく、中国、インド、シンガポールといった他国からも引っ張りだこの状態だ。
ただ、どこへ行っても彼等のポリシーは変わらない。それは土地の文化を反映した崇高な癒しの場を創ること。
リサーチをして、断片を思いつくと、どんなスペースがふさわしいか、どんなメニューが必要なのか、全体的なビジョンがわき上がってくるそう。

 

アイディアと創造性の元は、人里離れたビーチに佇む家でのひととき。海に面した一画のオフィスで早朝から働くが、夕方5時過ぎになると、2人でワインを持ってビーチへ。

 

「そこで、今日は何を達成できたかとか、今後の課題を話し合うのよ」
今後は、店の経営は徐々にマネージャーに委ね、コンサルティング事業を伸ばすことと、あと2軒スパを創ることが目標。
2人のハッピーなエネルギーの波が様々な場所へ広がって行く日はそう遠くないだろう。

 

編集後記
いつも一緒でケンカすることはないですか?と意地悪な質問をしたところ、全くないとのこと。「お互いの力を知っているし役割が違うし、尊敬しあっているから」…。力を引き出し、高め合えるお2人。素晴らしい! 1人でも多くの人が健やかになるために、自分たちの成功を他の人と惜しげ無く分かち合うところも素敵。幸せな人は周りも幸せにするんだ、と勉強になったインタビューでした。 Keiko
タグ: エッセー, ケアンズで輝く人インタビュー

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僕のブルースで自分の持っているパワーに気づいて! http://www.livingincairns.com.au/%e3%82%a8%e3%83%83%e3%82%bb%e3%83%bc/%e3%83%96%e3%83%ab%e3%83%bc%e3%82%b9%e3%83%9f%e3%83%a5%e3%83%bc%e3%82%b8%e3%82%b7%e3%83%a3%e3%83%b3/ http://www.livingincairns.com.au/%e3%82%a8%e3%83%83%e3%82%bb%e3%83%bc/%e3%83%96%e3%83%ab%e3%83%bc%e3%82%b9%e3%83%9f%e3%83%a5%e3%83%bc%e3%82%b8%e3%82%b7%e3%83%a3%e3%83%b3/#comments Tue, 05 Feb 2008 05:02:58 +0000 Keiko Murphy http://www.livingincairns.com.au/%e3%82%a8%e3%83%83%e3%82%bb%e3%83%bc/%e3%83%96%e3%83%ab%e3%83%bc%e3%82%b9%e3%83%9f%e3%83%a5%e3%83%bc%e3%82%b8%e3%82%b7%e3%83%a3%e3%83%b3/ 聴く人が、自分のパワーに
気づくことを願って演奏を続ける

 

8Ball Aitken
ブルースミュージシャン

 

8Ball Aitken

Profile

グレッグ・エイトキン*現在は、8Ball Aitkenのステージネームで活躍中。
本文は、2004年3月時のインタビューです。

1981年6月9日生まれ。11人兄弟の長男としてマリーバの農場で育つ。農作業を手伝いながらハイスクールを卒業。ブルースに衝撃を受け、ギターやベース、ドラムなどの楽器、作曲を独学で始め、15才より地元のパブやクラブで演奏を始める。ブリスベンでのプロとしての活動を経て、04年よりケアンズに戻り、演奏活動を続ける。www.8ballaitken.com
www.myspace.com/8ballaitken

 

 

心の痛みを表現するブルースは、 僕の人生そのもの。

弱冠22才にして、自分の才能を強く信じ、進むべき道を明確に把握している青年がいる。
「音を通じて人を癒したい。自分の音楽によって、
1人1人が世の中をよくしていく力を持っていることに気づく手助けをしたい」
と言う、グレッグ・エイトキンさんだ。

 

 

物静かな彼が全てのパッションを捧げて演奏するのはブルース・ミュージック。
「小さな時から人間の孤独とか苦しみ、失望、飢え、そんなことを強く感じてきた僕にとって、
たまたま耳にしたブルースミュージックは衝撃的なものだった」と語る。

 

グレッグさんは11人兄弟の長男として生まれ、少年期をマリーバで過ごした。
小さな時から家計を助けるためにマンゴーやバナナの収穫など、
出来る限りの農作業や肉体労働をこなし、親の離婚、貧困を体験と、
決して平坦とは呼べない日々を送る。

 

そんな中で、アメリカ黒人の背負う人生の苦しみをルーツとし、
心の痛みと向き合うブルースに出会い、探していたものが見つかったような気持に。
自らが演奏を始めるまでに時間がかからなかった。

 

「どんな楽器でも基本がわかれば演奏できるようになる」と言う彼は、
リードギターの他、ドラム、ハーモニカ、ベースもこなす。
ブルースミュージシャンから教わったこともあるけれど、演奏も作曲も基本的に独学。
表面的なコピーでなくて、自分の言葉、自分のやり方を大切にしたいと言う。 

 

グレッグさんの作る曲のテーマは、世界情勢、難民、人間のこと、だましあい、
自分の体験から恋愛まで様々。それぞれに異なるメッセージを込め、
違うリズムにのせ、ブルースの伝統を尊びながらも、自分の表現を加えていく。

 

「ステージ上で、シャワーで、トイレで。ふいに心の中に
音があふれるように出てくるんだ。眠れない夜に起きあがって詩を書き始めたり。
曲はまるで天からの贈り物だね。降りてきたものにチャンネルを合わす感じで、
どんどん新しい曲が生まれる。
楽器は、自分の中のものを表現するための道具にすぎないと言う気がする」。

 

 

音楽はすごいパワーを持っている。

13才頃から演奏、作曲を始め、自分が天から与えられた“ギフト”を自覚。
15才にして既に地元のパブやクラブで歌ってきたグレッグさんは、
数年後、新境地を目指してブリスベンへと旅だつ。 

 

 

▲自主制作CD「THE DYNAMITE AITKEN BROTHERS」(Copyright 2003 The Dynamite Aitken Brothers) 貪欲にブルースの演奏活動を続け、CDもリリース。

弟さんと一緒に作った、"Dynamite Aitken Brothers"というCDは売り切れるほどの人気を博す。
JJJなどのラジオ局でオンエアされ、テレビ番組、Today Tonightでも紹介されるなど
活動に注目が集まり始めた今年、故郷ケアンズへ帰ってきた。

 

 

ブリスベン時代のグレッグさんの写真を見ると、今とはまるで別人だ。
品良く短くした髪にスーツ。
「このスタイルの方がブリスベンでは受け入れられるから。
ケアンズに戻ってきたらリラックスしているんで、服装もこの通りさ。(笑)」

 

たとえ見た目、演奏場所が変わっても彼の音楽を求める人がいることには変わらない。
現在、レギュラーでステージを持っているジョノス・ブルースバーでも、
地元の人、ふらりとやってくる観光客、と
年齢、客層を問わず人々に心地よいひとときを与えてくれている。

 

8Ball Aitkenグレッグさん愛用のギター。ブラスコーンが付いていて、強くシャープでダイナミックな音が出る。

 

 

彼のステージは、威圧感がない。まるで空気のように空間に馴染んだ佇まい。
どこか投げやりな、それでいて語りかけるような歌声と、
鮮やかな指の動きから奏でられる音が、その空間を包み込む。

 

決して押しつけがましくなく、でも確実に聴く人の心に響く、不思議なパワー。
彼のブルースを聴きながら、きっと皆思い思いの憧憬を心に描いているはずだ。

 

 

目下の夢は日本で日本のミュージシャンと共演をすること。「オーストラリアにもブッシュソングというルーツミュージックがあるけど国が若くて強い文化がない。だから、日本のように古い歴史を持っている国に強く憧れるんだ」

 

「音楽を聴いて、具合が良くない人の調子がよくなったり、
落ち込んでいたのに元気になったり、妹や弟たちが夜、
ぐっすりとした眠りについたりということは珍しいことじゃない。
音楽っていうのはそれだけパワーがあるものだと思う」

 

先日はリーフで出会った韓国人の男性に、「言葉が違ってもすごく伝わった」と
ステージの感想を言われ、ミュージシャン冥利につきたとか。

 

音を通して人に楽しい時を過ごしてもらうことが自分の仕事、
とグレッグさんは思っている。

 

人は誰でもクリエイティブだし、何らかのギフトを天から与えられている。
そしてそれは世の中を良くするもの。僕はそう信じている。

 

だから1人1人が自分の力に気づいてハッピーになる手助けをしたいと
強く願っているんだ。音楽を聴いている間は、今抱えている問題はちょっと置いて、
本当に大切なものに気づけるように」

 

「天からのギフト?まずは自分がとても惹かれることを見つけることじゃない?
それに子どもの頃本当に好きだったことを思い出したり。
絵やダンスや動物や…大人になって忘れていることがヒントになっているかもしれない」

 

自分の心に素直に。そして見つけたものに焦点を当て続け、ポジティブでいること。
自分の文化や家族を理解して表現すること。
グレッグさんのメッセージは音に乗って伝わる。

 

会話中、何度も出てきた“ギフト”という言葉。
全ては与えられている。持っている包みを開くかどうかは自分次第。
彼はそんな気持にさせてくれるミュージシャンだ。

 

 

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歌を通して環境保護を呼びかける http://www.livingincairns.com.au/%e3%82%a8%e3%83%83%e3%82%bb%e3%83%bc/%e6%ad%8c%e3%82%92%e9%80%9a%e3%81%97%e3%81%a6%e7%92%b0%e5%a2%83%e4%bf%9d%e8%ad%b7%e3%82%92%e5%91%bc%e3%81%b3%e3%81%8b%e3%81%91%e3%82%8b/ http://www.livingincairns.com.au/%e3%82%a8%e3%83%83%e3%82%bb%e3%83%bc/%e6%ad%8c%e3%82%92%e9%80%9a%e3%81%97%e3%81%a6%e7%92%b0%e5%a2%83%e4%bf%9d%e8%ad%b7%e3%82%92%e5%91%bc%e3%81%b3%e3%81%8b%e3%81%91%e3%82%8b/#comments Wed, 10 Jan 2007 06:14:22 +0000 jc-kazu http://www.livingincairns.com.au/%e3%82%a8%e3%83%83%e3%82%bb%e3%83%bc/%e6%ad%8c%e3%82%92%e9%80%9a%e3%81%97%e3%81%a6%e7%92%b0%e5%a2%83%e4%bf%9d%e8%ad%b7%e3%82%92%e5%91%bc%e3%81%b3%e3%81%8b%e3%81%91%e3%82%8b/ 歌を通して環境保護を呼びかける

Anja Light
シンガーソングライター/環境活動家


Profile

Anja Light(あんにゃ・らいと) シンガ−・ソングライター、環境活動家。スウェーデンに生まれ、オーストラリアに育つ。10代より環境・反核活動家として、オーストラリア、マレーシア、 日本などを中心に活躍。「ディープエコロジー」哲学にもとづく環境教育の実践でも知られる。1999年日本の仲間たちとNGO「ナマケモノ倶楽部」を結 成、以来その世話人をつとめる。現在はエクアドルを拠点に、夫の環境活動家マルセロ・ルーケとともに、生態系の保全と持続可能な地域づくりにとり組んでい る。2001年春長女パチャ、2003年夏長男ヤニを出産。CD「Voices for the Forest」、「PACHA MAMA」、「Slow Mother love」などをリリース。2003年春、オーストラリアでの州議会議員選挙に緑の党から出馬するなど、今後は政治活動も注目される。

 

 

 

インタビュー前記

2006年6月18日にケアンズ美術館でのキャンドルづくりをはじめとするワークショップに多くの日本人ボランティアの方に参加していただき、大変感謝しております。  
そもそもこのイベントは、私が深く賛同しているムーブメント「100万人のキャンドルナイト」を海外の方に紹介したいと思いつき、前年の中国・上海に続き、豪州・ケアンズでの実施を立案しました。

 

2001年米国ブッシュ大統領は、原発増のエネルギー政策を発表しました。これに対し米国内、そしてオーストラリアでも自主停電という形の抗議がなされ、同年6月21日、日本でも環境NGOナマケモノ倶楽部が、“暗闇カフェ”として行動を起こしました。
このナマケモノ倶楽部は、環境活動か&シンガーソングライター、アンニャ・ライトさん、スロービジネススクール校長の中村隆市氏、そして辻信一氏(明治学院大学教授)のお三方が結成したNGOです。

 

2002年には、無農薬有機栽培の普及活動で知られる「大地を守る会」(代表:原田和芳氏)のプロジェクトが立ち上がると、NPOだけでなく環境省や自治体、そして企業も呼応して、100万人のキャンドルナイトは今日の大きなムーブメントへと広がりを見せます。
「人口の光で明るくなってしまった地球の夜に、暗い帯が自転とともに移動していく。これは地球代のアートだ」…この坂本龍一氏のメッセージを聞いて、私もアートのフィールドからキャンドルナイトに参加したいと思うようになりました。

 

私がケアンズでささやかな「呼びかけ」を行ったこの夏、日本ではおよそ700万人の方が、何らかの形でキャンドルナイトに加わったそうです。
12月22 日のキャンドルナイトは、さらにその数を上回る人数が参加されているはずですので、1000万人規模のイベントになる日もそう遠くはありません。

 

私は、当日キャンドルナイトの原点、暗闇カフェで、アンニャ・ライトさんの歌声に耳を傾けていました。  
アンニャさんはスウェーデンから3歳のとき、オーストラリアのゴールドコーストに移り、現在はクイ−ンズランド州の田舎町、エヤーを拠点に世界各地で活動されています。
環境活動、アーティスト、そして母親として…  アンニャさんから貴重なお話をうかがいました。

 

 

シンガーソングライター

私は高校時代に、歌いはじめると同時に、地球環境に強い興味を抱き、既に活動家になろうと決意していました。
大学の選択時、環境科学を選ぶこともできましたが、私は演劇コースを選択しました。
環境の啓発活動において、コミュニケーションが最も大切なツールだと考たからです。その当時は、まだインターネットなども普及されておらず、大学で知り得る書籍などの情報は、古いものしかありませでした。

 

大学なかばで現場を知るためにマレーシアへ。マレーシアのサラワクの奥地でペナン族という先住民族との話し合いが難航したとき、問題をメッセージにして私が唄うと彼らの表情が一変しました。
私にとって、唄うことは、キャンペーンのためのひとつの道具(ツール)、手段なのです。オーストラリア熱帯雨林情報センターの活動をしていた当時の「歌」は、森林保護に関わっていた気がします。

 

 

2006年11月11日に行われたライフスタイルフォーラムのステージにて

家族(子供達)と暮らしはじめた頃から、音楽の幅も拡がり、スローライフやシンプルな生活でも生きていること、ユニバーサルな内容に変化しています。  
しかし核となる部分は変わっていません。環境破壊の根源は、私達の生き方や文化であり、カルチャーを変えていこうと呼びかけ続けています。それは今後も変わりません。

 

両親がスウェーデンから移住したのは、豪州の自然に魅せられたからのようです。NGOのミーティングにも一緒に行きました。また理由もなく葉っぱをちぎったりしてはいけないと、しつけられました。但し私を活動家にするつもりではなかったはずです。
母親は、芸術家(画家)でしたので、今も華やかなドレスを着たりします。母から学んだことは自分の思いをおそれず、伝える表現すること。母は、ゴールドコーストで、緑の党の初期の組織メンバーでしたし、父親も新聞に投書するなど「よくない」と思った事をきちんと行動に起こす人でした。

 

若い頃、血気盛んな私たちは、マレーシアでクレーン車に乗って伐採阻止をアピールしたことで、警察に逮捕され拘置されたことがあります。
豪州にいた母、スウェーデンの父は、共にスポークスパーソンとして弁明し、国際的なメディアに対して森林伐採の現況を語ってくれたことを、私は感謝していますし、尊敬しています。」

 

 

エヤーでの生活

 

「私は世界中旅をしていたので、初めてきた土地に住むことに、抵抗はありませんでした。  
グレートバリアリーフを子供達に見せたくて、この街に来ました。
この世界(自然)遺産は、地球温暖化の影響で海面水位が上昇しているため、将来消滅することが危惧されています。

 

砂漠の国オーストラリアにあって、エヤーは水の豊富な、子供二人と過ごすには快適な場所です。
緑の党のメンバーもいませんが、地域の方たちと違いを見出すのではなく、共通点を探すことに楽しさを感じています。
庭の種を交換するなど、ささやかなことからでもコミュニケーションが拡がります。  

田舎だから何もできないとは思いません。スローライフはどこでもできます。
例えば学校から種を持ち帰り自宅の庭で植物を育てるプロジェクトもあります。  
エクアドルでは電気のない生活に慣れていますので、自分たちでエヤーでもスローライフを楽しんでいます。 

 

 

anja3.jpg

2006年12月22日 府中カフェスロー 暗闇カフェ会場

 

地球温暖化のキャンペーンのため、映画の上映、政治的な環境活動にも力を注いでいます。
昨年の5月ナマケモノ倶楽部主催のスローツアーでは、17人の日本人と、私がお勧めするオーストラリア東部のエコロジカルなスポットを訪問しました。
クイーンズランド州では、マレーニー近郊の"クリスタル・ウォーターズ"。ニューサウスウェールズ州ではニンビン村の"ジャランバー"。そしてビーチの美しい最東端の町"バイロン・ベイ"。ここは、地元住民の反対でファーストフードのチェーン店がないのも特徴です。

 

ケアンズも、東京などの大都市と比べて、家族で暮らすには大変住みやすい環境ですよね。
次回のツアーは、ケアンズとグレートパリアリーフを入れたコースを計画したら素敵ではないかと思っています」

 

インタビュアー

横澤悦孝 氏

横澤悦孝(よこざわ・よしたか)
1964年生まれ旅行代理店→商社→NPO法人職員を経て、2005年よりエコロジー・アース・アート21で奮闘中。2006年6月、ケアンズで地元の子どもを対象に環境意識を促すイベントを開催し、共感を呼んだ。 www.japandesign.ne.jp/HTM/EEA21/に、アートと環境を軸とするレポートを執筆中。 エコロジー・アース・アート21(EEA21) : http://www.eea21.jp/

 

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ケアンズのマルチカルチャリズムの立役者 http://www.livingincairns.com.au/%e3%82%a8%e3%83%83%e3%82%bb%e3%83%bc/%e8%87%aa%e5%88%86%e3%81%ae%e4%be%a1%e5%80%a4%e8%a6%b3%e3%82%92%e5%a4%89%e3%81%88%e3%81%9f%e7%95%b0%e6%96%87%e5%8c%96%e4%bd%93%e9%a8%93%e3%82%92%e5%b8%82%e3%81%ae%e6%b4%bb%e5%8b%95%e3%82%92%e9%80%9ae/ http://www.livingincairns.com.au/%e3%82%a8%e3%83%83%e3%82%bb%e3%83%bc/%e8%87%aa%e5%88%86%e3%81%ae%e4%be%a1%e5%80%a4%e8%a6%b3%e3%82%92%e5%a4%89%e3%81%88%e3%81%9f%e7%95%b0%e6%96%87%e5%8c%96%e4%bd%93%e9%a8%93%e3%82%92%e5%b8%82%e3%81%ae%e6%b4%bb%e5%8b%95%e3%82%92%e9%80%9ae/#comments Thu, 21 Feb 2008 03:25:57 +0000 Keiko Murphy http://www.livingincairns.com.au/%e3%82%a8%e3%83%83%e3%82%bb%e3%83%bc/%e8%87%aa%e5%88%86%e3%81%ae%e4%be%a1%e5%80%a4%e8%a6%b3%e3%82%92%e5%a4%89%e3%81%88%e3%81%9f%e7%95%b0%e6%96%87%e5%8c%96%e4%bd%93%e9%a8%93%e3%82%92%e5%b8%82%e3%81%ae%e6%b4%bb%e5%8b%95%e3%8 自分の価値観を変えた異文化体験を市の活動を通して実現

Deevah Melendez
ケアンズ市・マルチカルチャー プランニング オフィサー

 

 

Profile
ディーバ・メレンデズ
プエルトリコ生まれ。1982年より約10年間ニューヨークのスポーツブランドで、ファッションデザイナーとして活躍。工場見学で訪れたインドで自分の人生を考え直し、世界旅行に出る。TAFEでスペイン語の教師、アフリカでのボランティア教師などを経て、1997年よりケアンズ市のマルチカルチャー・コミュニティアートフォフィサーに。2000年から現在までは、同市のマルチカルチャー・プランニング&デベロップメント・オフィサーとして、数々のイベントを企画、実施。社会科学の学士も持つ。

 自分の心に素直に…。言うのは簡単だけれど、成功していたキャリアを捨てて新しい世界に身を投じるのは、かなりの勇気が必要だ。
が、ここケアンズに、外国人、そして女性でありながら、自分の信念に従って、新たな渦を巻き起こした人がいる。

「良いと思うことを心から信じていれば何等かの形になるはず」

ディーバさんは、ケアンズで唯一のプエルトリコ人。彼女の最初のキャリアは、ニューヨークのファッション業界で培われた。
20代の体力を生かして、1日16時間働き尽くめ。
デザイナーとしてかなり成功していて、「30才にはもっとリッチで、有名になっていたい」という夢を描いていた。

 

そんな彼女に転機が訪れたのは、会社の工場を訪ねるために行ったインドでの体験がきっかけ。
お抱えの運転手付き、5スターホテルに泊まる状況と、現地の人の生活ぶりのギャップ…

 

「アメリカを出たことのなかった私にとっては大大ショック。物質社会にどっぷり浸かっていた今までの価値観に、大きな疑問がわいてきました。インドへ行って、初めて本当の自分が頭をもたげ始めたのです」

 

この後の行動が並ではない。人が羨む年収を捨てて、ニューヨークの会社を辞めてしまったのだ。
「周りの人は正気か?って聞いてきたわ。でも、人生はファッションだけじゃない。私は、自分の心の中の疑問に従っただけなの。恐れや疑いを持ってしまったら、自分の成長が止まってしまうんじゃないかしら。」 良いと思うことを、”心から”信じていればきっと何等かの形になる、というのが彼女の考え方。

 

その後シンプルな暮らしに憧れて、母親のいたハワイでブティックの経営を始めるも、4年後には、大型台風、母親の死によってその生活も終わりを告げ、傷心のまま旅に出る。

「母親は若くで亡くなってしまったけど、生きがいを持って人生を全うした人なのね。そんな彼女の側にいて、私は生きる目標が見つかってないなって感じていた」

 

 

そんなある日、ディーバさんの目に留ったのは、新聞の小さな広告。アフリカで英語を教えるボランティア募集というものだった。
プエルトリコの人は、遡れば、スペイン人、アフリカ人の血を受けている。以前からアフリカに興味があった彼女は、迷うことなく飛行機に乗っていた。

 

アフリカでは、貧しさ、死がいつも周りにあった。流水はないから、水がめで必要な水を運び、数週間に1回ホテルでシャワーを貸してもらうような暮らし。けれど、貧しくても、人々がお互いいたわりあう姿が日常にあふれていた。

 

「学校では、前の先生がよくムチで子ども達を打ったのだそうです。彼等はいつも怯えていました。私は罰を与える代わりにほめてあげようとしたのね。ある時、ご褒美に生徒の1人に鉛筆をあげたの。本当に喜んでいたのに、数日後は半分以下の長さになっていた。理由を聞いても恐がって言わなかったのだけれど、友達に切って分け与えていたことがわかって…。他の人とシェアする、という人生の大切なことを、この子たちから学びました」

 

個人主義の国からやってきた自分。隣の人の苦しみも判らなかった自分。将来するべきことは何だろう?次のアクションは何?と自分に真摯に問い続けながら、アフリカでの任期を終えて、再び旅に出たのだと言う。

 

「本当に好きな事を仕事にしようと心に誓いました」

長いバックパッカー生活を経て、昔出会った人との縁でケアンズに腰を落ち着けることに。
この時は、とにかく自分の人生にフォーカスしたい、と思ったそう。

 

「デザイナーとして成功して、当時の願いは叶ったわけだし、”何を願うか”は気をつけて選ばなきゃ、と思いましたね」

 

これからは、本当に好きな事を仕事にしたい。どんな仕事であっても、コミュニティ、カルチャー、アートに関係すること。
そんな明確なビジョンを持って、色々な所へ履歴書を持って訪ねる。

断られ続ける中、マイグレーション・リソースセンターのマネージャーの紹介で、グラフトンアーツ(ケアンズ市の管轄する芸術団体)へ。待てど暮らせど返答がなかったのだが、突然、プロジェクト進行係が必要という募集があり、自分が適任!と応募。見事ここでのポジションを得た。

「今が、変わる時!と思うと、その思いが自分を突き動かしてしまうのよね(笑)。常に夢を見ているし、諦めない強い意志を授けてもらって感謝しているわ」
2000年より、ケアンズ市のマルチカルチャー・プランニング&デベロップメント・オフィサーという職に就くことになる。

 

「何かを仕掛けて、小さなものを大きく育てるのが好き」

 

精力的に、様々なイベントを企画したり、内外の人を巻き込もうと懸命な努力を続けるが、マルチカルチャー、文化活動、アートなどと言うと、周りの人々の反応は”ヒッピー的な活動?”  ”自分とは無関係”、 ”必要な時だけ参加する”といったものだった。

 

「狭い考え方の人と一緒に仕事をしなければならない時は、怒りを覚えてました!長い時間を費やして、人間関係を作って行って、本当にちょっとづつ土台が変わってきたんですよ」

 

情熱を持って、市や移民のリーダー的な人々と交渉を続ける中で、多様な文化背景を持つ市民のためのサポートサービスとポリシーを作成したり、15カ国のグループからなる会議を設定して、彼等が地域に貢献できる場を作ったり、地元の高校と組んで島民やアジアからの人々が直面する問題を演劇にしたりと、多くのことを達成してきた。

 

 

ケアンズで輝く人

ピースウィークの一環で行われた、地元の子ども達のアート展にて。

最近の仕事では、ユネスコの世界平和年にちなんだケアンズでのピースウィーク 〜多様な文化、ヒューマンライツ、社会的正義、女性、先住民、差別、と言ったテーマを掲げたイベント〜 が印象深い。

 

加えて、アフリカからの避難民の子どものドキュメンタリー制作、ケアンズに暮す他民族の人たちの写真を使ったカレンダーの制作、国際発展スタディの学位の取得、社会科学の学位取得…ととにかく多忙。一貫したテーマの元で、まさに寝る間も惜しんで多岐に渡る活動を続けている。

 

「かなり保守的だった市議会も、ピースウィークを誇りにしてくれたり、最初は相手にもしてくれなかったメディアが私たちの活動を取り上げてくれたり。市がこうした活動に対してポジティブに変わって来たこと、そして0から始めて自分も貢献できたことが本当に嬉しいですね」と。

 

「自由も家も車もある。そんな国に生まれたからには責任があるように感じているんです。優しさが他の人を救うはず。今後も、他の人をサポートしながら、自分が持っているものを捧げて、人々が幸せになる機会を作っていく生き方を目指します」と爽やかな笑顔で結んでくれた。

 

インタビューを終えて
「あまり遠い先までは考えない。ここまではこうしよう、って決めてきてるから、リスみたいにジグザグに走ってきてる気がする(笑)」と言うディーバさん。思い悩むより、求めながら行動していく生き方。でも、その時は意味を成さなくても、あとでピースがはまって大きなパズルが解けていっているようで素晴らしい!一生懸命生きていれば、全ては用意されていくのかな、と思いました。”正しい願いを心から持てば実現する”、”自分を安全からはずした時に成長できる”、”人生は大きくて素晴らしい”、と素敵なメッセージをたくさんいただいて勇気が出たインタビューでした。 Keiko

 

 

タグ: エッセー, ケアンズで輝く人インタビュー

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