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エッセー, ケアンズで輝く人インタビュー

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夢に生きてもいい、不可能はない。

2007年09月24日

身障者として世界初の
エベレスト北ルート登頂に成功。
ガンと闘う人に
熱いメッセージを送る。

 

ポール・ホッケーさん
登山家

 

 

ケアンズで輝く人ーポール.ホッケー

Profile

Paul Hockey ぽーる・ほっけー

1963年4月5日キャンベラ近郊の町、セス生まれ、11歳からケアン ズに暮らす。
骨ガンのため、生後3週間で右腕を付け根から切断。
空手、カンフー、韓国合気道の3つの武道で黒帯を獲得。シドニーで空手師範として3年間道 場を運営した後日本へ渡り、結婚して再びケアンズへ。
ツアーガイドとして働きながら、アンデス山脈の最高峰、アコンカグア山の登頂に成功。2004年、長 年の夢であったエベレストを目指すも、頂上まであと248mの地点で酸素不足のため下山を余儀なくされた。今年3月、再びエベレストに挑む。信条は NEVER GIVE UP !彼の登山活動や講演は多くの身障者の人たちを励ましている。
今後も小児ガン研究所への寄付を目標に本の執筆、講演を予定。
www.paulhockey.com

※リビング・イン・ケアンズ 1995年3月号掲載

 

 

 

この3月の終わり、‘片腕しかない人身障者としては世界初’という大いなるゴールを抱いて、ポールさんはエベレスト登頂に再挑戦する。

 

 

 

「自分勝手な奴だ、と言う人もいる。そうかもしれない。だけど、夢に生きてもいい、不可能なことはない、そういうことを人々に伝えたいと思ってる」

 

 

けれども、彼のエベレスト登山の夢は、自分のものだけではない。その証拠に、彼の活動や講演を通して、多くの身障者の子供たちやその母親からメールが寄せられている。

 

 

自分はなんて不幸なんだ、なぜ障害を持って生まれて来たのか。と、生きる自信のなかった子が、ポールさんの登山の話を聞いて生きる希望の光を見るのだ。

 

 

「最近も、1歳で両足を失った子のお母さんから手紙をもらったよ。僕の記事を読んで、『この子はまだ自分の人生を生きられる。それも挑戦に満ちた人生を生 きられる、と気づきました』としたためてあった。こんなことがとても励みになっている。この子には、エベレストの山頂の石をプレゼントするって約束したん だ」

 

 

 

ポールさんの、自分の人生に対する真摯な在り方が多くの人々を動かす。

「NEVER GIVE UP, NEVER GIVE UP, NEVER GIVE UP!」

 

 

 

 

「チャレンジしがいがあるからやる」 世界で誰も達成していないことに挑戦。

1953年、史上初めてエベレストの登頂に成功し、歴史の一ページに名を刻んだ、エドムンド・ヒラリー卿の綴った本。この本を読んだ少年時代から、心の どこかで彼がヒーローであり続けたという。そして何年もあと、偶然、ヒラリー卿のインタビューをラジオで耳にし、彼の話す内容に感動。いつしか、エベレス トに登りたいという夢が具体的に膨らんでいった。

 

 

 

「その頃は空手道場を運営していて、武道にどっぷり浸かっていた。自分の心、体、魂に挑戦するという意味で、武道と通ずるものを登山に感じたのかもしれない」

 

 

 

その後、調べてみると、チベット経由は身障者で登頂に成功した人はまだいないということがわかる。そして、このルートは南ルートより遥かに厳しいことを承知で、大きな課題を自らに課すことに決めたのだ。

 

 

「簡単そうだったらやる必要はない。チャレンジしがいがあるからやるのさ」

 

 

 

その後のポールさんの行動は早かった。
登山家として世界的に著名なニュージーランド人、ガイ・コッター氏に、「自分の夢であるエベレスト登山に挑戦したいこと。同時に自分の登山活動によっ て、ガンへの関心を高めたいこと、登山活動の後の執筆や講演を通じて、ガンの研究費をオーストラリア小児ガン研究所に寄付したいこと」を書いた手紙を送っ た。

 

 

 

コッター氏からすぐさま「協力する。ぜひお会いしたい」という返事をもらい、借金をしてニュージーランドへ。

 

 

 

ニュージーランドの山を登った時は、007がディナースーツを着て、イブニングドレスを着た女性とドリンクを片手に手招きしている、という幻想を見たという。

 

 

「僕が崖っぷちに向かって歩き出したから、登山パートナーが驚いて引き止めてくれたんで助かったよ。今、思うとこれが登山中で一番恐かった体験かな。
空気 が薄くなってくると幻想を見る人は多いし、エベレストでは寝ている間に呼吸が止まってしまう人もいるんだ」

 

 

山の厳しさを物語るエピソードである。
2003年は、コッター氏の率いるアドベンチャー・コンサルタンツのメンバーと共に、エベレスト登山に向けたテストとして、6960mと南半球で一番高いアンデス山脈アコンカグア山に挑んだ。

 

 

 

体力的に問題がなくても、高山病に関しては実際に登ってみなければわからない。結果は良好で、帰国後、自信を携え、エベレストが一歩近づいていた。

 

 

登山には多くの資金も必要だ。35kgのバックパックを背負い、足首に重りをつけて山道を歩くという地道なトレーニングとツアーガイドの仕事を続けながら、寄付を募る活動も行う。

 

 

 

死んだら終わり。 山はいつでもここにある、と気持ちを切り替えて。

 

そして、いよいよその日。

「本当に来たんだ…。エベレストの最初の一歩を踏み出した時は、そんな感慨があった」とポールさん。

 

 

 

山を登っている時は、とにかく一歩一歩に集中するだけ。登り始めは音楽を聞きながら。家族のことを考えながら。

 

 

 

途中にはいくつかベースキャンプが設置されているが、キャンプ1の後は、音楽を聞くのも止めた。雪崩が起きたり、ローブが壊れたり、山では何が起こるかわからないからだ。

氷点下30度の中、一歩一歩雪を踏みしめるのみ、なのである。寒く乾燥したエベレストでは1日に8リットルの水を飲まなければならない。

 

 

 

「たとえ6時間登山のしっぱなしで疲れて、喉が乾いていなくても、氷を砕いて水にして飲む。そんな風に自分を制することができないといけない」

標高7500メートルからは酸素ボンベも必要だ。一呼吸一呼吸が大きな意味を持つ。

 

 

 

自分を制する、自分に打ち勝つ、次の段階を目指す、と、空手を通じて学んだことは、全てエベレストという巨大な大自然と向き合うにふさわしい哲学であった。

そして、理念だけでなく、一瞬に焦点を当てて素早く決断を下す、という実際面でも武道が役立っていた。

 

 

 

エベレストの標高8100m付近での登山風景。

 

 

あと248メートルで8848メートルの頂上というその時、ポールさんの様子をベースから見守っていたキャンプリーダーが言った。

「酸素が足りない。今すぐ引き返せ。たとえ頂上へ行けても帰ってくるだけの酸素が足りない」

 

 

 

「…30秒くらい考えた。頂上はすぐそこに見えた。長い間夢に見た頂上が。でも、同時に3人の子供たちの姿が脳裏に浮かんで。タフな決断だったけれど、僕は生きて帰らなければならない、と思った」

 

 

 

写真を撮りたかったらあと30分くらいはそこにいても大丈夫だ、と言われた時は「ふざけんな。写真を撮るために登ったんじゃない」とかなり感情的に返してしまったという。

 

 

 

平地の250メートルと山頂では感覚がまるで異なる。たった数百メートルのこの距離を登るのに4時間、そしてその地点へ帰ってくるのに更に2時間はかかる。リーダーは、登山の速度から酸素の残度を計算したのだ。

 

 

 

8600メートルを登り、体力も知力も極限状態にある。

 

 

(左)エベレスト登山では、ひとつの簡単なミスが命取りになる。旗は危険区域の始まりを示す。(右)エベレストの標高8600m地点にて。この後、持っていた酸素ボンベでは酸素の量が足りず引き返す事に。

 

 

 

「雪の中から突き出た足、ナイロンにくるまった体、登山中はいくつもの死体を見た。実際、これ以上行くなと止めた女性はアドバイスを無視して二度と帰って これなかった。今回の旅でも知ってるだけで7人が亡くなってる。死んだら終わりだ。山はいつでもここにある、と気持ちを切り替えるしかなかった…」

 

 

雪焼けが痛々しい。この登山で体重が15kg減った。

 

無事下山した時は、もう二度とエベレストには来ない、と思ったという。

 

 

 

「でも不思議とね、シャワーを浴びたら、また挑戦するっていう気持ちになった。次はもう1本多めにタンクを背負うさ」

 

 

 

ポールさんの好きな日本語の一つに「七転び八起き」がある。今まで何度「無理だ」とう言葉を投げかけられたことだろう。片腕じゃ車の運転は無理。片腕 じゃ武道で黒帯を取るなんて無理…その彼は現在もマニュアルのジープを駆り、一時は武道で生計を立てていた。

 

 

 

「ネガティブな人の言うことを聞くな。人生は短い。エンジョイしたい。そして諦めずに夢に生きたい。ポジティブであれば、誰でも何でもできる。そう信じているから」

 

 

 

 

自分の腕、最愛の母を奪った ガンで苦しむ子供を助けるための再挑戦<

ポールさんは2005年3月、果たせなかった夢を果たすべくエベレストに再び挑む。今回は半年前にガンで亡くなった母、ドロシーさんと共に。

 

 

 

「またエベレストに登るの?」と聞くドロシーさんにポールさんは答えたのだ。

 

「行くよ。今度は頂上を目指すんだ」
「じゃあお母さんも一緒に行くわ」

 

 

…お母様が亡くなったのはその会話が交わされた数日後だった。
自らの腕を奪い、母の命を奪ったガンで苦しむ子供たちを少しでも助けられるよう、エベレストという立ちはだかる大きな挑戦を受ける日が今、刻々と迫る。

 

インタビュー後記
自分が背負っているものがわかっていて、突き進んでいる、そういう印象を受けたのだけれど、「いい人なんかじゃないから誤解しないでね」と言ったりして、あくまでも気取らない方でした(冗談もかなり面白い)。
そして、人間って自分の意志でこんなに変われるものなんだ、ということに気づかせてくれました。この号が出る数週間後に旅立つポールさんに励ましのお便りを送りたい方や資金をサポートしたい方は、ぜひ
paulhockey@hotmail.com までメールを!Keiko

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ケアンズ唯一の日本人ジョッキー

2007年05月10日

ためていたパワーを一気に爆発させて勝つ

ケアンズ唯一の日本人ジョッキー 
賀谷祥平

 

Kaya

 

Profile
賀谷祥平(かや・しょうへい)
28歳 広島出身。2003年8月COFFS HARBOUR(コフスハーバー)競馬場カップーデーにてデビュー、同11月MOREE(モーリー)競馬場で初勝利。
これまで58の競馬場で騎乗。3シーズンで778戦79勝(5/17現在)。NSW州ARMIDALE(アーミデール)、TAMWORTH (タムワース)、MUSWELLBROOK (マスウェルブルック)、QLD州GOLD COAST (ゴールドコースト)、INNISFAIL(イニスフェイル)、VIC州EUROA(ユーロア)を経て、現在、オーストラリア、ケアンズ在住

 

野球やサッカーに限らず、日本人スポーツ選手が海外で活躍する姿はまさに感動!
今回はケアンズで活躍する唯一の日本人ジョッキー、賀谷祥平さんをご紹介します。

 

馬が好きだったんです、乗る方ではなくて買う方が…

なぜジョッキーに?の質問の答が上のコメント。
賀谷さんは東京の大学を卒業後,就職せずにオーストラリアに来た。
日本にいる時にオーストラリアにある競馬学校へ入れば、ジョッキーになれることを知ったからだ。

その動機は明快。「日本でレースを見ていてなりたくなっただけ。」子供が野球選手に憧れるように純粋に、迷うことなく道を選んだ。

 

当時はゴールドコーストからメルボルンにかけていくつかの競馬学校があり、大きいところでは毎年20〜30人の新入生がいたが、賀谷さんが選んだのはNSW州のアーミデールにあった小さな競馬学校。生徒は賀谷さん一人だけだった。

朝から馬房(馬がいる部屋)の掃除、馬の手入れ、騎乗の練習、たまに座学と朝から夕方までみっちり、休みなし。マンツーマンの特訓が続く。

半年間学校に通い(ちなみに日本のJRAの競馬学校、騎手コースは3年制。)、その後1年半各地の学校や厩舎をまわる修行と模擬レースを繰り返す。

 

一番苦労したことは競走馬の力が強くて最初は全く抑えられなかったこと。またジョッキー独特の競走馬の乗り方の修得で、中腰で乗って全身、特に足腰を使うので筋肉痛で足がガクガクに。これは今でも疲れるとか(笑)。

 

当時他の学校には、賀谷さんのように日本からジョッキーの勉強にきている人もいた。現在でもオーストラリア国内でレースに出場している日本人ジョッキーはNSW、QLD合わせて7〜8人程いる。
ジョッキーになるための制限はないが、プロになったあかつきには、勝てなかったらそれまで…という厳しい勝負の世界に生きることになる。ジョッキーは自分からレースにエントリーするのではなく、調教師から指名されて、初めて騎乗できるため、勝てない騎手には指名は来ないのだ。

 

ためていたパワーを最後に一気に爆発させて勝つんです

NSWでレースに出ていた賀谷さんがケアンズに来たのは昨年6月。知り合いの調教師を通じてだった。
彼が副業でやっていた配管の仕事で、サイクロン後の復興工事のためイニスフェイルに来た際、他の調教師に賀谷さんの話をしたところ、指名が来たのだ。

 

ケアンズに来る前5年間のほとんどは日本人のいない町での活動。もちろん日本食もなければ、シドニーやブリスベンに出るのにも5〜600キロあり、なかなか都市へ行く機会もなかった。そろそろ日本語でのコミュニケーションも恋しくなってきていた頃だったとか。

 

ケアンズはお好きですか?と聞くと、「暖かいし、海はあるし、日本人はいるしオーストラリアの町では一番好きです。初めてこっちに移ってきた時は信号もあり、ビルもあり大都会に見えてうれしかったです(笑)。」

 

ケアンズとは言っても、普段仕事の中で接するのは圧倒的にオージー。まわりのオーストラリア人との関わり方で心がけていることはと尋ねると「性格のせいもありますが黙ってないで、言いたいことは言わせてもらうぞ、ってスタンスではいます。」と、自らをコントロールし、勝負の世界で生きる彼らしい発言が返ってきた。

 

レースは毎日ある訳ではなく、指名が来ればケアンズ、アサートン、イニスフェイル、タウンズビルまで各地で開かれるレースに出る。
今までに約800レースに出場し、騎乗した馬は500頭以上!当然相性の良い馬もいれば悪い馬も。

一番良かった馬は?と聞くと、「それがケアンズの馬で,5戦戦ってなんと4回優勝しました!」

勝つために心がけているのは「ポジティブでいくこと」。
「弱い馬でもひょっとしたら勝てるかもとか、不利な枠(外側スタートの方が内側に入りにくいので概して不利)でもいいように考えるようにしてます。あとはやはり体重キープでしょうか。そしてレースではためていたパワーを最後に一気に爆発させて勝つんです。」

 

毎朝5時から馬の調教の手伝い、これは毎日約3時間、レースコースで馬に乗る。
近くで見たことがある人はご存知の通り、競走馬はかなり大きい。走るスピードが時速60〜70kmにも達する馬をコントロールしながら乗ることを考えると、使う体力は相当なもの。

実際の調教は、競馬場の調教トラックを2周、週に1,2度レース時と同じ速いスピードで最後の400〜600mを疾走。
その他の日はゆっくりのペースでトラックを2周。

 

陸上選手で例えれば、ストレッチや軽い運動だけの日と、本番さながらの全力疾走で流す日を組み入れてバランスをとっているのだ。馬もジョッキーも日曜日は定休でゆっくり休養。レース当日は調教後移動して午後からのレースのため競馬場に向かう。多い日は1日で4〜5レースに出走するそうだ。

 

「もっともっと日本人の方にも見に来て欲しい」

オーストラリアでは競馬は3大人気スポーツの一つ。競馬場も日本と違い、コースと観客席が近いのが一番の特徴。

 

観客も家族連れの姿が多い。これはレースの合間に様々なアトラクションや発表会があり、子供達も楽しめるようになっているためだ。
毎回何かテーマが決まっているのも特徴。

 

中でも、今年は9月7・8日に行われる”ケアンズ・アマチュア”は、ローカルが着飾って出かける一大イベントだ。外国での競馬観戦は住んでいる人だけでなく観光で遊びに来た人にも新鮮なはず。みんなで感動しに行こう!

 

編集後記
インタビューの数週間後(6/16)に行われたレースで見事1着を勝ち取っていました。普段の非常に淡々とした自然体からは想像できない、本番で爆発する勝負師の集中力はさすがです! Kazu

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自分が楽しいから書く。

2010年08月05日

詩人で書道家。書を通して人を癒す

 

轟木 太郎 さん

ケアンズで輝く人

Profile

轟木 太郎 とどろき・たろう
1979年生まれ、大阪出身。福詩家 ソーシャルワーカーから路上詩人へ転身。3年前より書き始めた独特の詩で、カンボジアの子供たちから、
障害を抱えた日本の若者まで、
多くの人々を元気づける。詩を書くときには大きなヘッドフォンを付け、一気に書くのが特徴。

今回はジャパンフェスティバルの
一環で来豪。
14日のエスプラネードでの
イベントを皮切りに、ケアンズ市内に福詩ブームを起こしている。


自由な雰囲気あふれるHPは
http://my.peps.jp/fukushika

 

「まず自分が楽しくなければ!」 路上で詩を書くことも、モンゴルで木を植えることも 全ての行動がそこから生まれる。 何とも言えない優しいオーラをだしている 轟木太郎さん。 

 

一瞬浮かんだキーワードから、 イメージを広げて書く

07年5月14日、ジャパンフェスティバルのイベント会場で 何人もの人が順番を待って並んでいるブースがあった。 何だろう?と横からのぞくと太郎さんがいた。
写真の作品通り、太郎さんは詩人で書道家。 お客さんの名前を聞いてから、 「ここを見て」 と自分の眉間を一瞬見つめさせる。

おもむろに書き始める詩は、眉間を見つめさせた一瞬に、 湧いてきたキーワードから広がるイメージで、 サラサラッと書いてしまう。

1万人いれば1万通り、 同じ人に2度書いても同じ詩にはならない。
ふっと湧いてくる言葉はその時、その場所でしか 浮かんでこない。 それは考えて出てくる言葉ではなく、 まさに浮かんでくる言葉。 詩の意味は、太郎さんが直感的に感じたもので、 解説はできないとのこと。 書いてもらった人は皆さんそれぞれ自分で考えてみて。

もちろん自分の中にない言葉は浮かんでこない。 言葉の源はいろいろな本からだそう。 哲学書から小説まで何でも読むが、 小説はノンフィクションばかり。 ちなみに今までで一番印象に残っている本は?と聞くと、 高橋歩氏の「毎日が冒険」。以前引きこもりだった時に この本を読んで「何かやってやろう」という気になったとか。

 

何よりも書いている瞬間が楽しい、 さらに見てくれる人がいることで楽しさ倍増

書きはじめのきっかけは高齢者施設。

ソーシャルワーカーだった太郎さんは、 生きることを放棄した末期ガン患者に出会う。

なんとか元気を出してもらおうと、1枚の詩を贈った。 家族と口をきくことも、食事をとることも、 ついには起き上がることさえ拒否した患者さんが、 太郎さんの詩で変わった。

しばらくして亡くなるまで、 起き上がって詩の言葉に手を合わせるようになったのだそう。

それ以来、時間があれば路上で人々に詩を書き始めた。 ある日、ショックから言葉を失った人に詩を書いた。 書かれた詩を見てぽろぽろ泣き出したその人は、 詩を受け取り、何も言わず帰っていった。

数ヶ月後、eメールが届いた。 「あのときは"ありがとう”が言えず、ごめんなさい。 あれからその一言が、どうしても言いたくて、 一生懸命練習しました。 やっと言えるようになったので、 会いに行ってもいいですか?」

「自分の詩が何かのきっかけになってくれるのは嬉しい、 でも、まず自分が楽しいから書いている」 と言い切る。

 

どんどん広がる太郎ワールド

たった1日のイベントが反響を呼び、 ケアンズ市内でも太郎さんの詩をシャッターや壁にアートした 壁画プロジェクトも着々と進行中。
スペンスストリート沿いの「パーティサファイア」さん、 オーキッドプラザ2階のラーメン「横綱」さんでは 店頭や店内で壁画アートを発見。

自身のHP上でも、 「交通費さえ出してくれればどこでも参上」 とは言え、 「まさかケアンズで書くとは思わなかった。」 と嬉しい驚き。

さらに、11月7日に画集が全国一斉販売されるそう。 「外に出ない引きこもりの人は路上にも、イベントにも 来ないけど、本にすれば誰かが贈ってくれるでしょ?」

ケアンズで輝く人「パーティーサファイア」さん(上)の壁画。

 

感動的な話ありがとうございました。 とにかく自然体というのが羨ましかったです。 11月にまたケアンズに来た時には、 ぜひ一緒にイベント開催させて下さい!  Kazu

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命をつなぐ緊急応急手当の知識を普及

2009年05月13日

緊急時の救命活動知識を普及し
“命をつなぐ”大切さを説く。

 

伊東和雄さん
マスターワークス代表

 

ケアンズで輝く人〜伊東和雄さん

Profile

伊東和雄 いとう・かずお
東京出身。1989年、ケアンズでダイブショップの立ち上げに携わった後帰国。ファーストエイドの必要性を痛感し、独学で学びながら、教材作成から講習までを一貫して行うマスターワークス社を設立。自動車産業、保育士研修、ダイビング業界などを対象に事業を展開。SUPER GTレース安全運営やF1レース観客救護運営ほか、早稲田大学スポーツ科学部の非常勤講師として教鞭をとるなど幅広く活動する。

 

 「突然目の前で誰かが倒れたら、あなたはどうしますか?

 

そんな現場に立ち会ったとき、最善を尽くすための救命スキルを1人でも多くの方に身につけてほしいんです」。 

 

ダイブインストラクターとして、"緊急時に命を守る応急手当" の大切さを身を持って知った伊東氏は、知識伝導のため全国を奔走する。

 

「今、自分がしなければならないのはこれだ!」とファーストエイド普及に向け、起業

2年ぶりのケアンズ。彼は、ダイビング業者の前で、学会で仕入れたばかりという国際蘇生連絡協議会の最新情報を講義した。

 

「心肺蘇生はしっかりと、絶え間なく圧迫し続けて、脳に酸素を送り続けることがとても大切。筋肉などと違って中枢神経である脳組織は低酸素に弱いからです。」など、生存率向上に貢献するスキルについて熱く語る。

 

2時間近いレクチャーの後、誰もが人の命の重さを痛感し、ファーストエイドは人ごとではない、という思いを持ったはずだ。

 

 

伊東氏が一寸を惜しんで普及を続ける「命をつなぐ」というテーマが示されたのは、ここケアンズだった。1989年、知人に依頼されてダイビングショップの立ち上げに携わり、自ら海に出る中で、海上では医者任せでなく、自分の命は自分で守るという認識と行動に触れたのだ。

 

ところが、契約を終えて帰国した日本は、まだ当たり前のことが当たり前に行われていない時代。
「ダイビングの指導は楽しかったけれど、自分じゃなくてもできる。今自分がしなければならないのはこれだ!」と応急手当(ファーストエイド)を普及させる事業を興す。

 

1990年当時、幼稚園や企業に営業へ行くと「間に合ってます。何かあったら連絡します」といった反応がほとんど。「命に関わることなのに、医者じゃなくていいの?」と言われたり、「一般人にやらせるな」とまで言う医師もいた。

 

「弁護士のアドバイスを得て、違法ではないという理論はあったのですが、反論はしませんでした。日本の文化そのものを変えることはできない。ならば理解してもらえない人にエネルギーを使わずに理解してくれる人を探して行こう、と思ったんです」何より自分がしていることは正しいと信じていた。

 

営業活動を続けながら、各国で行われる学会に頻繁に赴き、専門書を買いあさり、英語に苦労しつつも膨大な資金と時間を費やして、独学でファーストエイドの知識を深めていく。

 

ケアンズで輝く人〜伊東さん日本とマレーシアで行われているSUPER GTレースにおいて、安全運営を担当。写真は冨士スピードウェイにて待機のドクターヘリ。

 

 

経営に風穴を開けたのは、以前勤めていたブリヂストンの広報課長の理解だった。「当時は自動車事故で14,000人の方が亡くなっていた。データを見せて、"タイヤのシェア50%を占める御社は、この数字をどうやって償いますか?僕にモータースポーツの現場でファーストエイドの講習をさせて下さい。"と半ば脅しで懇願したんです(笑)」

 

もちろん広報課長を動かしたのは、氏の「人命を救いたい」という真摯な願いに違いない。この後、本田技研、トヨタ、ニッサン、ダンロップといった錚々たる企業がスポンサーに。17年を経た現在も、サーキットの職員に向けた講習やスポンサー企業の社員研修を続けている。

 

現在、車業界は大変な状況にあるが、ある企業から「この講習のスポンサーシップは最後まで守り抜きます」と言ってもらえたという。どれだけ重みのある活動をしてきたかを物語るコメントだ。

 

 

限られた時間の中で
自分がするべき役割を常に考えて

一刻を争う緊急の現場にあって、医療資格を持っていないことが引っかかった時期もあった。が、応急手当は、医師の手にかかるまで命をつなぐ行為。その場で最善を尽くす「命のリレー」の第一ランナーなのだ、とポジショニングしてふっきれた。

 

現在は、AED(自動体外式除細動器)用アラームケース開発、保育士研修センターやモータースポーツ業界での講習をはじめ、SUPER GTレース安全運営、F1レース観客救護運営、さらには早稲田大学スポーツ科学部で非常勤講師として教鞭をとるなど、まさに八面六臂の活躍ぶり。 

 

ケアンズで輝く人〜伊東さん自動車関連各社の支援により、2500円で参加できる一般向けて行き講習会も開催。心肺蘇生やAEDなどを実習し、修了すると認定証をもらえる。

 

 

 

 

 

「子どもの事故と応急手当」「緊急時の応急手当と事故防止」など、一般の人でも知識を得ることができる本やDVDも出している。

 

「その場、その時間でできることは限られています。社会の大きな流れの中で自分がどういう役割をすれば貢献できるのか、と考えて活動しているんです」

 

早稲田大学から話が来たときも、教職を持っていない自分が?とは思ったが、「多くの人に伝えるチャンス、遠慮していたら世の中にマイナスだ」とばかり快諾したとか。「受講者1人1人が伝道者、という気持ちですね。日本の社会を担う学生さんたちが、大切な人の命を守る役割を認識してもらえたら、その意義はとても大きいと思います」

 

 

 

 

「命をつなぐ」大切な知識を1人でも多くの人に伝えたい

起業した頃に比べて、世の中が変わってきたなと感じるという伊東氏。ファーストエイドの重要性は少しづつ、けれど確実に浸透し始めている。

 

「20年間、普及活動をしてきて思うのは、事態が魔法のように突然良くなることはありえない。センセーショナルなことを狙うより、自分の役割を知ってそれをやり続けたい、ということ。ただし1人の力で及ぶ限度は知れているので、本当の信念を伝え、共感してくれる後継者に活動を続けてもらう基盤を作ることも仕事だと思っています」

 

「危険だとわかっていても、スポーツとして、人生のメリハリとしてやってみたい、という想いを持つ活動ってあると思うんです。ケアンズでの自然の中でのアクティビティもそう。そんな時は、危険を承知して準備をすればいい。」ファーストエイドの知識は、人生の幅を広げる上でも重要なのだ。

 

「難しい、あるいは専門的なことは何もありません。誰もが身につけられることばかりです。ご自身と取り巻く全ての人々の幸せのために、ぜひ応急手当の知識を役立ててください」

 

 

ケアンズで輝く人〜伊東さんのウェブサイト伊東さんが代表を努めるマスターワークス社のウェブサイト

ファーストエイド講習のお知らせや、教材の購入も可能。

 

 


 

社会の役に立つ仕事を信念を持って続けている方からは、内なるエネルギーと泉のように沸き上がる智慧を感じます。「聖職者でも何でもないんだけど」とおっしゃいますが、伊東さんの言葉は、節々に人の命を助けたいという想いがあふれていて、知識を伝える姿はまるで聖なる教えの伝道者★ 子どもを産んでから、ファーストエイドの講習を受けようと思いつつ12年近く過ぎてしまった私も、伊東さんにお会いして本気になりました。ケアンズで普及をお手伝いする方向で進んでます。Keiko

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之定異聞 Vol.92

2009年05月11日

首にはロープが付いていた。

日本人、それも軍人のようだ。

 

垂れ下がったままの死体を下側から見上げるように写し、大きく引き伸ばしてある。

 

ヒデエ写真だぜ、と思った。

 

パービス氏は何かの写真を私に見せたかったに違いない。

 

ところがこの死体の写真が偶然に、私の目に飛び込んで来た。

氏は眉一つ動かさず、さりげなく古びたアルバムのページを閉じた。

 

日本人の私には、見せたくない写真であることがそれでも感じられた。

 

 

ジャパニーズのカタナが出たンだけど、見たいかエ、という電話は、チャンネル10のインタビュアー、グレイム。

 

10年近く働いた木曜島の真珠会社を思い切って退職し、ケインズに下って空手道場を開いたのが34年前。

道場を軌道に乗せるのに2年以上かかった頃、あるテレビ番組に出演。その時グレイムと知り合った。

 

大東亜戦争の末期、インドネシア領バリ島の日本軍が降伏したとき、その調印式はデンパサールで行われた。

豪軍側の責任者が空軍幕憭長のパービス氏。

 

その彼が何と、ケインズのEdgeHillに住んでいた。

降伏の証しとして日本軍司令が差し出した彼の佩刀をパービス氏が保存していたのだ。

 

たまたま他の番組で彼を取材したグレイムがその刀を発見。

私に連絡してきた、という訳だ。

 

30余年前のケインズ。人口6万。

信号機わずかに2基。

ビール1カートン9ドル。

クリフトンビーチの最初の分譲地の値段、1区画2千ドル。

そんな時代だった。

 

戦後30年、日本人に対する偏見もまだ根強く残っていたものだ。

パービス氏は60代半ば。

 

私に見せるために用意していたのだろう。

厚く古びたアルバムが出してあった。

 

氏自体、日本人の死体の写真等忘れていたに違いない。

さもないとあらかじめその写真のページを隠しておいたはずだ。

 

今思うと、あの死体の写真は日本軍兵士、それも将校だ。

 

敗戦で自らの命を断ったのか、捕虜として絞首刑になったのか、今となっては判りようもない。

 

その夜、パービス氏の軍刀をジックリと調べてみた。

と言っても当時の私、日本刀に関する知識は皆無だった。

軍刀はパービス氏の好意で借用出来たのだ。

 

柄にある目釘を抜くと柄はゾロリと外れ、錆びた中心が出る。

刀工は満足のゆく作品に仕上がると、中心に自身の銘を切る。

なるほど、銘が見える。

 

サテ、なんと読むのだろう。濃州開住魚 作、と読めるけれど、意味が判らない。

ウ冠の中が之の時に切ってある文字は、定のくずしだろうか。

 

私がラッキーだったのは、私の身近に日本でもトップレベルの刀剣鑑定家がいたことだ。

私の妻の妹の亭主。

当時、刀剣と歴史、という雑誌の編集長だった。

 

そのころはファックス等という便利なものはなかった。

 

美濃の関に住む古刀期(1600年以前の作)の兼定ではないか、という義弟からの返事が届いたのは、しばらくたってからである。

なる程、濃州は美濃の略。

開と見たのは、関。

 

兼の字を極端にくずすと、魚という字に近くなる。

ウ冠の中を之の字に切るのは、兼定二代目の特徴で、俗に、之定、として知られる名刀だと言う。

 

だからこそ偽物も多いがネ、と付け加えてあった。

新選組の土方歳三が探し求めた刀が、この之定である。

 

確かに現存する彼の佩刀は兼定だが、これは四代目兼定が仙台に移住して鍛刀し、君主から和泉守兼定という刀工名を拝領した後の一振り。

歳三はそのことを知っていたのだろうか。

 

次にまた義弟からの便り。

コリャ魂消た。

 

義弟が厚生省の知人に無理を言って調べてもらい、日本軍降伏時のバリ島司令官の名前が判明。

 

その司令官が何と、大阪で小児科の開業医として存命だった。

 

そこまで判明したらする事は一つ。

 

パービス氏に事情を説明し、その刀を譲り受けて持ち主に返してやろう、と思った。

氏の返事は簡潔明瞭だった。

 

日本人には売らぬ。

 

その言葉、私の魂にまでカチンと響いた。

ヨシ、ソンなら豪州中にある日本刀を集めてヤる、と思った。

 

豪州にある日本刀は大半が大東亜戦争の戦場からの戦利品。

他は戦後日本へ進駐した者達がミヤゲとして持ち帰った物だ。

 

日本刀は日本の歴史に密着して千年。

日本が世界に誇る事が出来る最古の歴史的文化遺産だ。

 

専門的には関ヶ原の戦いの1600年以前の作を古刀、幕末への序章となる文化文政期の1804年までを新刀、1868年の明治維新までが新々刀、明治以降現在までを現代刀、と分類する。

 

道場の門弟達に依頼する、古物屋、アンティーク店を探す。新聞に広告を出す。

それだけでも何とか薄皮をはぐように、ポロリ、ポロリと戦場の臭いがするような刀が出てくる。

 

一振りごとに日本の義弟に詳細を送り、鑑定を依頼した。

 

日本刀の知識が皆無の私でも、少しずつ塵が積もるように刀を見る目が肥えてきた。

と同時に私の日本歴史に対する理解度の貧しさも身につまされてきた。

特に現代史、大東亜戦争は当時からわずか30余年前の出来事なのに、学校では臭い物に蓋式の教育で、日本は侵略国家であるという自虐史観でウヤムヤにされただけだった。

刀はニューギニア、ラバウル、ソロモン、ブーゲンビル、ボルネオ等々様々な戦場から集められていた。

その戦史も知らねばならなかった。

 

日本史と大東亜戦史は、刀という文化遺産を理解する上での必須条件になった。

そして当然の結果、戦前までの日本の歴史と価値観が180度変えられた、戦後の東京裁判に付き当たる。

 

 

判かり易く言えば、喧嘩両成敗が徳川幕府の条理であったように、国を上げての戦争には、その国なりの言い分がある。

 

それでもお互いに殺し合いをやっているのだ。

米軍も豪州軍も十分に戦争犯罪として裁かれるべき残虐な行為を日本軍に又日本一般市民に行っている。

 

それらも何も一切を引っくるめて日本が悪かったからだ、と判決を定め、日本を侵略国家と決めつけて戦勝国の汚点をも日本に背負わせたのが東京裁判だった。

 

加えてこの裁判は国際機関が承認した正式の裁判ではなかった。

勝てば官軍なのだ。

 

日清日露戦争から大東亜戦争までの現代史を正確にひもとくと、誰もが現在の左翼主義歴史教育と全く反対の、この結論に辿り着く。

 

私にとって全く当たり前の常識的論理だと思った自衛隊田母神幕憭長の論文。

そんな文に日本は大騒ぎ。

 

おまけに政府は田母神氏を罷免し、彼の年金さえも取り上げた、と聞いた。

アホか、と言うより暗澹たる気持になる。

 

東京裁判の一方的判決をソックリそのまま受け継いだ日本の左翼教育。

国家破壊教育論者のように私には見える。

 

又アンザックDAYがやってきた。政府の人気取りタダ金に慣れすぎて、全く本気で働こうとしない人間の多い豪州。

 

労働党とユニオン、グリーニーの癒着は、中小企業経営者に様々な難問を提起しないかと心配である。

 

そんな豪州でも第一次大戦中に豪州が出兵したトルコのガリポリの慰霊祭に集った豪州人、なんと7500人。

豪州各地では国のために死んだ兵士達の慰霊行事が盛んに行われている。

 

自国を侵略国と決めつけ、国のために死んだ若者たちを顧みようともしない私の母国日本。

この日は唯一、豪州という国がうらやましい。

 

 

パービス夫人から之定を譲るという連絡があったのは10年程も前。

最初にこの刀を見てから20年の歳月が流れていた。

 

早速連絡を付け、刀を再び見せてもらったら、なんと一目で偽銘の之定と鑑定出来た。

 

私の目も良くなっていた訳だ。その事実を正直に夫人に説明し、それでもかなりの金額を申し出たが、夫人からの連絡は戻ってこなかった。

 

もしかしたら夫人は、私が値段を落とすために偽銘の話をした、と取ったのではないか。

この偽銘之定は私の心にしこりを残す一振りになった。

 

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人間も自然の一部なり人間も自然の一部なりVol.91

2009年03月10日

力まかせにむしり取ったような傷口から、青白い腸が垂れ下がり、亀の動きと共に、ブヨブヨと揺れた。

大きな海亀だった。

 

私の体重の3倍もありそうだ。

 

特大の団扇よりも大きい後鱗は、甲羅と一緒に噛み裂かれ、赤黒く変色した血肉に、団子のようになった砂がこびり付いていた。

私がスッポリと入る青黒い甲羅にも、鋭いのみで引っ掻いたような跡が何本も見える。

 

 

惨劇の主が残した歯跡だった。
ケープヨーク半島突端、豪州北端の町、木曜島。そこから船で5時間。

 

PNGとの中間点に、トーレス海峡で2番目に大きな島、モアがある。

 

セントポール、クビンの針で突いたような島民の村落を除いて、無人。

その島の一画に、私が働いていた南洋真珠養殖木曜島工場の分場が設置されていた。

 
分場前の海峡を隔てて、島民の村落のあるバドー島がある。

養殖場の労働力は彼等島民で、毎朝小舟でやって来た。

 

養殖場は彼等にとって唯一の現金収入の道で、我々日本人は彼等に一目置かれていた。

 
その朝、いつも早目にやって来る彼等の様子が、何やらおかしい。

いやに騒々しい。彼等は前日に海亀を捕獲していた。

 

ジュゴンと並び、彼等の大切な蛋白源だ。

 

多分、その亀をカプマウリ(石焼料理)にでもする相談をしているのだろう、と思っていた。
前夜は潮が高かった。波打ち際から作業場まで、わずかに10メートル。

 

その間の砂の上に、何か重く長い物をこねるように引きずったおぞましい跡が、クッキリと残されていた。

「コリャ3メートル以上、あるべ」島民がつぶやいた。

 

海亀をアタックした惨劇の主。

ワニだ。

 
日本人宿舎の私の使用していた部屋から現場までは、目と鼻の先。

私がもし目を覚ましていたら、ワニが甲羅を噛み砕く音が、聞こえたに違いない。
自然の中で距離をおいてワニを見物するのは楽しいものだ。

 

しかし人間様の住居にまで侵入して来るようになったら、コリャ少々ヤバイ。

 

私はサメとワニの危険度を3メートル、と考えている。小さい個体なら一緒に遊んでもやろうが、これを超すあたりから、私はいい餌になってしまう。

 

ヨシ、こ奴を掴まえて、尻の1つもぶっ叩いてやれ、と思った。

 
宿舎の両側は延々と続くマングローブ沿いの泥地である。よくワニが甲羅干しをする。
ワニは遠くから見ると、白っぽい流木に見えた。その頃、かなりの大きさのワニが、宿舎の近辺に上っていた。ア奴に違いない。

 
陸上から近寄るのは、マングローブの森に遮られ、不可能に近い。舟を使うと近付く前に逃げられる。

それならば、50メートル程手前まで微速前進。そこからエンジンを全開。

 

一挙に近付き、舳先から射つ。
鎧で被われたようなワニの頭部。無表情なくぼんだ目。そのすぐ後部。

豆腐のように軟らかい箇所が一カ所だけある。

そこを狙う。

ゴルゴ13じゃあるまいし、万が一にも命中する事はない、と判っていながらも、一度だけ試みた。

 

ライフルはセミオート。小口径ながら10連発。
スコープの中にワニの頭部が見えた。50メートル。

エンジンを吹かせ!!銃を構えたまま、叫んだ。

 

エンジン音が鳴った。

体がグンと反った。

ワニが動いた。

 

射った。

 

ワニの近くに着弾の泥が散っているのが見える。ワニは優雅に滑る。

スポンと水中に入ったら、鼻だけ又、スッと浮いた。

 

近くだった。

鼻を射った。すぐ横にボゴッと水が湧いたら、ワニはユックリと姿を消した。

 

全弾を射った。

手応え、なし。

ワニは翌日、場所を変えて甲羅を干していた。

 
「釣ったらよかんべ」 島民が言う。

 

サメ釣り用の大きな鉤を使用し、海面に突き出す上部なマングローブの枝から餌を垂らすだけだべ、と事も無げだ。どうやらその餌の高さがポイントになるようだ。

 
「餌、水の中つかる、良くないべ、水面からチョット高いとこ、吊るヨ。

 

ワニ、カイカイ(食べること)にくる。

ジャンプするヨ。そんでパタイ(死ぬるという表現)ヨ」餌は、と聞くと、「腐った肉がいいべヨ」。

ワニは用心深い。

 

そんなに簡単に釣れる訳はないべ、と思ったが、とにかく腐った肉の餌が手に入るまで待った。
その日が、来た。夜の満潮時の潮の高さを調べた。マングローブの木を選んだ。

 

大きなサメ鉤の道系に10番線を使用し、それにロープを結びつけた。

 

いかにも原始的な道具を木の枝から垂らした。
その翌日。夜明けを待って見に行った。ところが…掛かっていた!!潮が下がって、半ば宙吊りになっていたけれど、掛かっていた。

 

まだピンピンと生きていた。

 

それにしてもワニは2メートル程の小ワニで、私が狙ったあの大きなワニではなかった。
小ワニでもアタックする。食い付かれるとただではすまぬ。

釣り上げるのに夢中で、釣れた後の事を考えていなかった。

 

鉤を外すのが何とも大変だった。

 

ワニ釣りはそれで懲りた。
この後しばらくして、ワニは保護動物として捕獲禁止になった。

 

豪州の自然保護政策はこの時点から、徐々にエスカレートする事になる。

40年前の事だ。

 
「私しゃ、怖かったヨ」マーリーンが肩をゾクゾクと震わせながら、私に言ったものだ。

 

彼女の家はケインズから南に100キロ、イニスフェイルの郊外にある。今年は雨がひどかった。あちこちが洪水になった。
その夜彼女の地域は、チョットした洪水騒ぎになった。

仕事から戻ると一面の水。

 

車を高台に残し、かなりの距離を太股まで暗い水の中に入り、歩かねばならなかった。
家の近所にクリークがある。そのクリークも水の下になっているはずだ。

 

クリークは海の入江に開いている。

入江には…ワニがいる。

もしそのワニの一部がクリークに棲み付いていたら…。

 

暗闇の中、そこに考えが及んだ時、「胸がドキドキして、動けなくなりましたヨ」

 
私も何度か、ワニがいると判っている水中に入る羽目になった事がある。

 

いつ足をやられるかと、本当に怖かった。
ワニが保護されて40年。

ワニは静かにあらゆる海浜、クリーク、河川へとその棲息分布を広げている。

 

小さい内はいい。

それらが全部3メートル以上になる時を考えると、空恐ろしい思いがする。

 

事故はこれから増える。
捕鯨問題が又、表面化している。

 

日本側は何等法律、条約的に違反を犯してはいない。

日本政府の腰の弱さはもう誰もが認めている事実だけれど、操業中の日本船に汚物を投げ入れ、不法侵入した輩が英雄視される豪州側の感情丸出しの反対論。

 
こんな時だからこそ日本の捕鯨文化史を踏まえて、毅然とした態度に出れないのか。

今の世の中、こんな事を言う人間の方がバカなのだそうだが、言いたい事が言えなければ、年を取ってまでこの世に生き残るスジが通らない。
 

 

日本での夏休みの宿題の昆虫採集。

学校はガキの頃から自然破壊を教えるのか、と講義した団体があったそうだ。

 

人間と自然との関係、人間の倫理というものが、まったく判っていないズレ人間だ。

 
何が何でも動物を殺すな、という事が本当の自然保護ではない。世の中平和になりすぎて、人間が少々ズレた感覚で妙に優しくなり、何事にも神経過敏になりつつある。

 
保護とは自然界とのバランスを考慮し、動物のみならず人間への思いやりも含めて、成立するものだ。

 

人間も自然の一部という事を、人間自身がしっかり認識しなくてはならぬ。

 

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ケインズのお父さんVol.90

2009年01月10日

ウワー、ハンサム!! 私の道場に新しく入門した青年を見た当時の日本人女性群。

手を打ち頬を染めて、囁き合ったものだ。

 

年の頃、24、5か。
3ヶ月程ケインズに滞在するので、その間稽古を見てもらいたい、という日本人青年。

 

スラリとした体付き。

私への受け答えも礼儀正しく、爽やかな印象を受けたが、と同時に、線のやや細い、繊細な感じの性格のようにも思えた。

 
稽古は熱心だった。

 

初心者という触れ込みだったが、動きの中に癖がある。

空手には様々な流派があるが、大きく分けて、伝統的空手とそれから派生したコンタクト系のニューウェーブ的空手になる。

 

伝統空手も流派により癖は異なるが、その動きではない。

コンタクト系の何かを噛ったナ、と思ったが、黙っていた。

 

どちらにしろ全くの素人より指導しやすい。

体の動きのスジは良かった。

 

あの時からもう7、8年経ったろうか。

 
その青年、別に働いている様子でもなかった。

「何をしにこの町にやって来たンだエ」ある時、聞いてみた。

 

答が振るっていた。

日本では出来ない色々の経験をして、人間性の幅を広げたい…とか。

 

この年代の若者らしからぬ答だと思った。
「日本で何をしていたンだエ」と聞くと、「俳優です」
そして彼が出演した映画の題名を何本か、サラサラと述べた。

 

日本の現状にあまり縁のない私には、まったく馴染みのないタイトルばかりだったが、何本かの主演作もあるそうだ。

出演しました、と言うところ、出させて頂きました、と言うあたり、青年の性格の一端が読み取れた。

 

空手の稽古は、映画のアクションシーンに使える体の動きを勉強する為、らしい。
私はこの年になるまで、その時代の社会の動きとか話題、流行等にまったく無頓着な人生を送ってきた。

 

興味がないのだ。
朝稽古は10時からだから、朝はユックリと起床する。午後は5時から稽古。それまでは私の自由時間。

 

こんな生活を33年間、続けてきた。
時間が止まっているかのように静かでノンビリしていたケインズの町。

 

ある日突然、日本人が大挙して押しかけ、開発業者が入って土地の値上がりが始まった。

 

コンピューターが必要不可欠な文明として定着し、携帯電話なるものが当たり前のように普及し、今頃は持っていない人間の方が珍しくなった。

 
生活は派手に何とも便利になってきたけれど、その反面、人々は止まっていたかのようにゆるやかに流れていたケインズの時間を見失うようになった。時間や機械は人間が創ったものなのに、知らぬ間に、人々は人間の創った物に支配される生活になってきた。

 
贅沢になった物質への憧れは、人々の出費を促し、以前のように亭主だけの収入では食えなくなり、共稼ぎが増えた。

 

生活のリズムが変わってくると、それは人々の精神面へのストレスとして蓄積されてくる。

 

これに拍車をかけるのが、必要以上の人権への主張と保護政策。権利を与えるという事は、その背後にしっかりした責任観念、義務感があってこそ、生きてくる。

その観念なくしてのママゴトのような権利の主張は、無責任なモラルの低下を助長するだけだ。

 
こんな時代の推移の中にあって、私は相変わらず33年間培った私の時間の観念の中で生きている。

 

ただ年をとるにつれ、忙しくなってきた。

自分の仕事ではない。

全部、他人の頼み事の為だ。

 
コンピューターは、私の頭には複雑過ぎる。

 

メイルの受け渡しと、MYOBのアカウントにしか使用出来ない。

 

日本語のメイルはまだうまく送れないが、別に不自由していないので、下手な英文で用は済む。
携帯は費用を毎月支払っているものの、使ったことがまずない。

持つのは面倒臭いし、オフィスにいるのならともかく、他所で何かをしている時に、他人の声に邪魔されるのは嫌だ。

 

それを便利と考えるかどうかは、時間というものに対する価値観の相違だが、マアー私のヘソはかなり曲がっているのかも知れない。
青年は3ヶ月後、後髪を引かれるように、私の道場を去った。

 

彼から、良い仕事をもらった、と喜びのメイルが入ったのは、それからしばらく経ってからの事だ。

 

トム・クルーズ(私は知らなかった)の THE LAST SAMURAI という映画の、日本人武士団の1人として採用された、と言う。

ロケはNZ。

ロケ地からロケの様子や彼の甲冑姿の写真等を送って来た。

 

良かったナア、と私も我が事のように喜んでいたのも束の間。

彼はロケ地で風土病にかかり、ひどい下痢と微熱が続いてロケにも出れず、日本に送還されたそうだ。

この時から、彼の連絡が途絶えた。

 

 
その時、古いビデオを見ていた。

数年前になる。

私の家には沢山のビデオがある。

一度見たものは処分してしまうけれど、特に面白かった分は保存し、忘れかけた頃に取り出して何回も見る。

 
「コリャ、いつ頃のビデオだエ」妻が時々聞く。

2000年以降の物だと知ると、「ソリャまだ新しいネ」 まアこんな感覚だ。

我が家では、古い新しいはまったく関係がない。

 

2、30年前の物は、ザラにある。

 

その時は、藤田まことの、はぐれ刑事、を見ていた。

このドラマ、日本のホームドラマに共通する生ぬるい愛情主義に流れ過ぎる時もあるけれど、藤田まことの人間臭い持ち味が気に入っている。その時突然、あの青年が飛び出してきた。

 

ラーメン屋の青年を演じて、藤田まこととからみあう。なる程、こんな仕事をしていたのか、とその時思った。
私はこのまったく偶然の巡り会いを、連載している豪州の日本語新聞に書いた。

 

ところがその青年からメイルが入った。

私の事を書いてくれて有り難う。

アルバイトをしながら、演技の勉強をしている、とあった。

 

何処で新聞を読んだのだろう。空手を続けたかったが道場が遠く、近所にあった合気道の道場に入門したそうだ。
「松本道場の稽古着をまだ使っています」道衣姿の写真が添付してあった。

 

嬉しくてすぐに返事を送ると、打てば響くように返事が来た。

そしてなぜか、それが青年からの最後の便りになった。

 

 
もうクリスマスか、と思った。

今年は何やらバタバタし通しで、アッという間に年末がやって来た。

 

生活のリズムが狂ったのか、年を取り過ぎたのか。

この調子じゃあ、死ぬのもすぐだぜ、と思う。

年月の経過を速く感じだしたら、今やっている事、これからやりたい事、やり残している事、等々、後から悔やむことのないように、しっかりと毎日を生きなさい、という警鐘なのだろう。

 
その夜は久し振りにノンビリと、一杯やりながらビデオを見ていた。

数年降りの、はぐれ刑事。

何度か見ていたので、ストーリーに覚えがある。

 

ソーダ、これはあの青年の出演作の分だ、と思っていたら、少しも年をとらないあの青年の顔が大写しになった。

彼からは数年前の便りを最後に、まったく何の連絡もなかった。

気になっていた。

 
セーブしてあった古いメイルを探すと、アッタ、アッタ。

丁度クリスマスだ。

 

メイルを送って見ようと思った。

 

そのメイルは返送されてきた。

どうやら使われていないようだ。

 

彼のメイルには携帯のメイルも書いてあった。

それに送信してみた。

 

今度は、通ったようだ。

それでも2、3日待っても、青年からの返信は届かなかった。

 
日本で名が売れて、私の事等、気に留めなくなったのだろうか。

イヤ、そうではあるまい。

 

あの青年、まったく芸能人らしくない真摯な面があった。演技に行き詰まりを感じ、もしかしたら道を変えたのだろうか。
人間にはいくら能力があっても、その時々の運、不運というものがある。

 

 

継続は力なり、という言葉がある。

私財を成し、有名になる事だけが成功、ではあるまい。自分の好きな事、やりたい事をコツコツと続け、努力する事。

 

努力に終着点はない。志半ばで倒れても、そういう人生を送れる人間は、人間としての成功者だ。

 

この辺りに、生きる、という言葉への人間の尊厳が存在するように思う。
あの青年、今でも演技の勉強をやっていて欲しい。年齢を重ねても、年相応の演技があるはずだ。そうであって欲しい。

何度も読み返した彼からの最後のメイル。

 

末尾には、・ケインズのお父さんへ・と書いてある。

 

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憧れ Vol.89

2008年11月10日

「それだけは、ダメ!!見つかったら、どうするのヨ」

私のする事にあまり文句を言わない妻が、その時は真剣に反対した。

 

そうだヨナァ、まァ無理もないか、とガキのように考えた。

 

物が物、なのだ。

 
ガ島(ソロモンのガダルカナル島)は第二次戦中の激戦地。

 

日本海軍が、フィージー、サモア攻略の足掛かりとして、この島に飛行場を建設、ところが、ミッドウェー海戦の敗北で無用になったが、反日抗戦にその利点を見いだした米軍との間に、凄まじい争奪戦が展開される羽目になった。

 

 

輸送能力が極めて弱少化していた海軍が、なぜ多大の犠牲を強いてまで無謀な作戦の下、この島に固執したのか。

 

私には名将と謳われた連合艦隊司令長官、山本五十六大将の意図がサッパリ判らない。 

 
私が日米の兵士達の血で洗ったガ島のホニアラ・ヘンダーソン飛行場に最初に下りたのが、三十数年前。

 

ガ島から太平洋の真ん中、世界最小の独立国、ナウル共和国に飛ぶと、そこから何と、まったく客のいない、鹿児島への直行便が運行されていた。週1便。

 
これは余談。

ナウル出発の朝。飛行場に行くと、誰もいなかった。

 

出発の時間が近くなっても無人。

聞く人間がいない。

その内たった一機しかない我々の便が、ユラリと動き出した。

私は慌てた。

何で私たちを残して飛び立つのかと、折からやって来た一人の職員に食いついた。

 
「心配ないべ。実はナァ、イミグレイション、オフィサーが夕べから釣りに出かけてノー、まだ帰ってないヨ。

チョット、捜しに行っただけだべ」

 
エッ、と私は彼の顔を見て、妻と顔を見合わせた。

ボーイング727が、たった一人の男を捜しに飛んで行った。

 

コリャスゴイ事だ。

 

こんな目茶苦茶な国が世界に存在していたのかと、何とも嬉しく、楽しくなったものだ。
戦後30年のガ島。島民達の平和な生活は戻って来ているように見えたが、戦禍の跡は、アチコチに残っていた。

 
知りあいになった男の家を訪ねた時だった。

 

入口に向うガーデンの中に、卵形の物が数個、ころがっていた。

何と、手榴弾だ。

 

完全な形が残っていたが、爆発する信管は抜いてあるに違いない。

どう言ってもらったのか、とにかく一個の手榴弾、ホテルに持ち帰った。

 

サテ、どこに隠そうか…と。妻に内緒でスーツケースの中に突っ込んでおけば良かったのに、物が物だけに、コレ持って行くゾョ。

 

妻に見せた。
彼女、怖がった。

 

爆発はしないゾ、と言っても、完全な手榴弾なのだ。

 

母親に怒られたガキのように、シブシブその家に戻しに行った。

 

ガ島を思うと、いつもこの手榴弾を思い出す。

まだあの家の庭にコロがっているのだろうか。
二度目にホニアラを訪ねたのは、もう15年も前。

 

私の道場の弟子が、専門学校の講師として二年間、滞在していたからだ。

 

その時はケインズから、ソロモン航空の直行便が運行されていた。
「マラリヤの予防して来ましたか」
弟子が聞く。

彼と彼の家族も全員、赴任以来マラリヤにやられたそうだ。

 

ガ島では毎年五百人余りがマラリヤで死亡するという。

 
彼には何人かの政府の要人を紹介してもらった。

日本流に言えば、大臣なのだが、そこら近辺の肉屋やパン屋の親父と変わりがない。

 

 

豪州の委任統治国だったソロモン。

 

こんな国が独立する自体、どだい無理な話ではないか、と思ったものだ。

 
弟子の教え子の村からジャングルに踏み込むと、その村の連中だけが知っている戦時中の米軍陣地の跡があるという。

 

まだ未使用の砲弾がそのまま残っているらしい。

行きたいか、と問うので、一つ返事をした。

 

しかしジャングルの中には、マラリヤを持つ蚊が、到る所にいるそうだ。

 

私達は何の予防もして来なかった。

 
すぐに街中の薬屋に行った。

それは貧相な戦争博物館のすぐ近くにある。

 

この街としては一番ハイカラな店だった。

 

ところが即効性の予防薬はなく、一定時間服用してないと、効果がないそうだ。

それならば、蚊に食われないようにすれば良い。

妻は長袖長ズボン。

 

私は虫には結構強いし長袖が無かったので半袖に長ズボン。
ジャングルの中は獣道のような人の通った跡がある。

とてもじゃないが私達だけで行ける道ではない。

 

部落の男が案内に立ってくれた。
途中、上陸用舟艇や弾丸の跡だらけのジープが、放置されていた。

 

一時間も歩いたら、何やら密集していた木々が少しまばらになり、足元に爆発してアメのようにヒン曲がった砲弾が目に付いた。

 

そしたら何と、アルアル。

30センチ程の砲弾がゴロゴロしているではないか。

 

土の中から弾頭を突き出しているのも見える。
「お前様の立っている下にも、沢山埋まってるだヨ」そんな事してもまったく何の役にも立たぬのに、思わず爪先立ちになった。

 

あまり歩き回るなヨ。妻に注意した。

 

爆発はしてないのに、時々弾頭の真ちゅう部のない砲弾がある。

 

どうしたのだろう。見ていると、「オラ達が外すだヨ」
観光船が入港した時に立つマーケットで、売るのだそうだ。

 

爆発しないのかエ、と聞くと、「時々するヨ」当たり前の事を聞くナ、という顔をした。

死を意味する凄まじい返事だった。

これには、まいった。

 

爪先立ちした私が、何やら小心なアホに思えてきた。
注意はしていたが砲弾の周辺で、何匹かの蚊に刺されていた。

 

もしその蚊がマラリヤを持っていたら、10日前後で何等かの症状が出るそうだ。

 
「オイ、何ともないかエ」「インヤ、何もないゾ」、毎朝の挨拶のようになった。
10日たち、二、三週間たっても、私達に何の異状も出てこなかった。

 

ヤレヤレ、どうやらマラリヤの蚊に嫌われたらしい、と思った。
ガ島の海岸線のガタ道を走ると、ヤシの林の中に点在する小さな部落に出会う。

 

現金収入がないから、自給自足。

皆、貧しい。

恐らくマラリヤで死亡する大多数は、子供だろう。

 

この彼達、なぜか底抜けに明るい。

私達の車が通ると、子供達は走り出し、大人達は窓にかじり付くように手を振り、笑顔を送ってくれる。

面映ゆくなる程だ。

 
文明とか物質の豊かさにドッップリと漬かってしまっている私達は、人間の心まで曲がりかけているのだろう。

 

そんな無邪気な村人達の歓迎に出会うと、なぜ、どうして我々に、と考えてしまう。

 
子供の頃、遠くを走る汽車によく手を振った。

今頃、そんな事をするガキはいないだろう。

 

この村人達は子供の憧れを、そのまま体に残して大人になったように見えた。

 

貧しく何も無い生活と毎日は、そういう育ち方を彼等の人生に与えたのかも知れない。
私は時々旅に出るけれど、先進国にはまったく興味がない。

 

ニューギニア等の未開地とかベトナム等の後進国がいい。

危ない目には会うけれど、都会の人間特有の取り繕ったところがない。

 
 
私の子供の頃、私の宝物はビー玉にメンコ。

懸命に集めていた。

中学では空気銃が欲しかった。

高校では空手以外に居合を習ったので、本物の刀を夢に見た。

 

その憧れはそのまま大人になっても続いたようで、ケインズに住み着いて以来33年。

少しづつ余裕のある時に入手した。

 

刀や軍用銃と一緒に、日本帝国陸海軍の遺品も出てきた。

砲弾に人骨まで様々な品々がある。

別に目的があって集めた訳ではない。

 

子供の頃から好きだったのだ。

これらは大人になってからの私のビー玉なのだろう。

 
30年以上も集めていると、部屋の一つや二つは一杯になる。

 

銃には法規に沿った管理をしなければならない。
しかしナァ、と最近考える。

 

このまま持ってはいたいけれど、私が死んだら妻が困る物ばかりだ。

 

ガレージセールにするゾ、という妻の気持ちも判る。

ぼつぼつ身辺の整理を考えねばならぬ年になってきたのかナァ。

 

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信念 Vol.88

2008年09月10日

足が縺れた、ように見えたと思ったら、フワリ。

子供の体が横様に、ユックリと黒いボールの上に崩れ落ちた。

 

何をやっているのか、訝るような動きだった。
その日は準備運動に、メディシンボールを使用した。

 

ボールをジグザグに床に並べ、空手のステップを使って、出来るだけ速く通り抜けてゆく。

 

体が切れないとモタモタし、結構難しい動きなのだ。
もう3年も前になるか。その年の州大会は二月末。

 

新年の休みを返上し、出場する子供達の特別稽古を開始したところだった。
子供はすぐに起き上がり、何も無かったようにステップを続けた。

 

私も気に留めなかった。

その内稽古をしながら時々体を捻り、何やら気になる動きをする。

背部に痛みがあるようだ。

 

一応大事をとって子供を稽古から外し、見学させる事にした。

時々様子をみていると、痛みがひどくなっているようだ。

 

もしかしたら脇腹の急所でも打ったのかも知れない。

それにしてもあの倒れ方で、そんなダメージがあるのだろうか。

 

半信半疑だった。
飛び上がった。

二の句が出なかった。

子供の母親からの電話だった。

 

何と、片側の腎臓が半分に裂けていた。

信じられない事故だった。

 

50年以上空手をやって、色々な事故を見てきたが、こんな事故に出会った事がない。

 
あんなにフワリと倒れただけなのに、拍子というものは恐ろしい結果を連れてくる。
いい性格の子供だったが気が弱い。

 

私が少し強めに突き込んでやると、よく涙ぐんでいた。

それでも少しずつ上達し、州大会に出場出来るまでになっていた。

 

これからが楽しみな子供だった。
大会に出場する子供達が、成果を上げるのを見るのは指導者として嬉しい。

 

しかし空手の稽古には、それよりも大切な物がある。

 

稽古を通じて物事の善悪を教え、これからの長い人生に胸を張って立ち向かってゆける気概を育ててやる事だ。

試合に勝たせるだけの空手指導は、意味がない。

 
精神的にも強くなりかけていたその子供が、稽古を止めるとは思わなかった。

ところが、そのままになった。

 

何の連絡もなく、その子供は道場に戻って来なかった。

毎年かなりの人数が、私の道場を通り過ぎてゆく。

 

日本人は少ない。時に入門してくると、同胞意識があるので、どうしても面倒を見てしまう。

今時の若い人達にはそんな意識は無く、特徴もないので、むしろ無国籍人種のように感じるが、言語は日本語をしゃべる。

 

男より女の方が、まだやる気があるように思える。

 
子供の場合は、これから豪州人の社会で、ある種のハンディを背負って生きてゆかねばならぬ。

 

小さい時にシッカリした性格形成への躾、と思い少し厳しくすると、すぐに止めてしまう。

若いお母さん方には、私のそんな気持は、まったく伝わらないようだ。

 
豪州人との間の子供は、日本人の引っ込み思案と豪州人のだらしのない甘さが重なって、どうやってこんなガキに育てたンだろう、と他人事ながら心配になるような凄いのもいる。

 

道場、という所は、こんなのも全部ひっくるめて面倒を見る所だ。

 

どうしようもない子供達が、稽古を通して少しづつ成長し、一人の人間として長い人生を生き抜いてゆく糧を少しでも身に付けてくれたら、私は何か彼等に残してやれた事になる。

気を使って指導し、道場で親しくしていても、今時の日本人達、一言も言わずに消えるように止めて行く。

 

稽古を止めるのは仕方ない。

シンドイ稽古を続ける意志力を持っている人間の方が少ないのだから。

 
私は道場を止めるのを怒っているのではない。

縁あって共に汗を流し、交わった仲間である。キチンと止めてもらいたい。

 

これが出来ない大人は、自己の利しか考えず、他人への配慮のない人で、これはどうしようもない。
子供の場合、子供自身の口から、ハッキリと止めるという意志を私に言わせてもらいたい。

 

止める、という事は、如何なる理由があれ、稽古から逃げる事だ。

その最後の区切りをシッカリつけないと、子供の柔軟な心の中に、後ろめたさを伴うマイナスのイメージを生えつけてしまう。

 

これは潜在意識として一生子供の心の奥底に残る。これは、負、の意識だ。

私に子供の口から言わせる事により、プラスのイメージに変える。この小さなけじめが何よりも大切だと思う。
人間はこの小さなけじめの繰り返しで成長する。これが心の躾になる。

 

将来、信用の出来る人間として成長し、自己の生き様を通せる人は、心の躾の豊かな人だ。

 

子供の時、両親の甘さでこの芽を摘み取り、子供を駄目にしてしまうボロ親の何と多い事。

この罪はそのまま、将来我が身に戻ってくる。その時に悟っても、もう遅いのだ。

「部屋、これからでもキャンセル出来ますか」、と若い夫婦者。日本人。どうしたエ、と聞くと、泊まらないで帰る事にした、と言う。

どこか悪いのかエ、と又聞くと「イエ、子供が、泊まるのはイヤだと言うものですから…。」

 

私は一瞬、エッと思った。
道場では定期的に道場生の親睦のために、イベントを計画する。

その時は郊外で会食。

 

飲むのでモーテルに一泊して翌朝は自由行動、という予定だった。
日本人の親達はいつ頃から、西も東も判らない子供に振り回される程、親というプライドと自主性を失ったのだろう。

 
子供というものは、自分の意のままに物事が通ると、親を親と思わず、我がまま一方で自己中心、他人への配慮等まったく意に介しないような大人になる。

 

昨今日本で大流行の親に反抗し、中には殺したりする子供達は、皆この延長線上にある。

 

事の善悪をしっかり躾するのは、当然の親の義務ではないか。
この若い夫婦者は、以来道場に顔を出さなくなった。
 

 
そのガキ、目に敵意がある。ブスッとして物も言わぬ。

コリャ骨がありそうだ、と思った。

 

道場生の親が韓国人専門の民宿をやっている。

新しい客だ、と道場に連れて来た。

 

10才位かナ。

そのガキ、開口一番「お前、日本人か」私に問うた。
「そのようじゃノー」応じてやると、「お前、竹島知ってるか」ヤレ、コリャ面白い。

 

10才位の子供の言う事ではない。

日本人の子供なら、竹島が何処にあるのかも知らないだろう。

 

大人でも知らない人間は、無国籍集団に入った方がいい。
竹島は明治38年に出雲に編入され、米国等もその認定をしている。

 

ところが戦後、韓国は李承晩ラインを設定し、勝手に竹島を自国の領土に取り込んでしまう。

それから半世紀。まだもめている。

 

日本人の優柔不断の外交と我関せず、という国民性がこの一件にハッキリと出ている。
「コリャ、かなわンなぁ」と思った。こんな子供にさえ、間違ったイデオロギーを信じ込ませる洗脳教育。

 

仮装敵国は常に日本。

エエ加減で目を覚ませ、と歯痒い程人の良い日本が掲げる日中友好の旗。

 

台頭する中国の全土に設立された266ヶ所の愛国教育施設。

その中の208施設は、反日教育だ。

 

対する日本は平和ボケの中に伝統と個性を失い、無国籍国民集団となりつつある。かなう訳がない。

円の時代は終わり、元の時代になってしまうのか。

 

他人事と思うなヨ。

シッカリしろヨ、日本人。

「センセ、ボク、空手やめたい」

 
子供が私に言う。

母親は日本人。

 

手のかかる子供だったが、子供らしく素直なところがある。

 

「ダメだ」そう言うと、ベソをかいた。
「お前ナァ、私にチャンと言えるのは、エライ。

そンだけ勇気があるンなら、それを稽古にお使い。

 

そしたらモットうまくなるゾ」子供は次の稽古日に来ていなかった。

 

心配したが、その後又やって来た。

これは母親がエラかった。

 
つい最近、道場内での支部対抗試合があった。

 

その子供も出場準備をしていたが、道場に来ると泣いて入って来ない。

皆が手を焼いた。

 
「コラ、ここまで来てビービー言うもンじゃないゼヨ。

男の子はナァ、お母さんを困らすもンじゃないゾ。

サァ、頑張って来い!」手を取ると、泣きながら試合場に立った。

 

その子、ヘタながらメダルを取った。
それから顔付きが変わった。

 

この子、たった1日で大きく成長した。

 

我が子が本当に可愛かったら、時には尻の一つもひっぱたく親の信念、欲しいものヨ。

 

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終戦記念日に寄せてカナングラの古本Vol.87

2008年07月10日

「コリャ一体、何でしょうネ」 

 

日本語だと思うンですけど、と言いながら、綴じ込みも擦り切れ、黄色く変色したブ厚い本をソッとテーブルの上に置いた。

 

豪州陸軍マクナマラ中尉。

 

久し振りに娘と二人でケインズにやって来た。
NSWの海岸の町、バリーナから内陸に入ると、リスモーに至る。

ここから山越えしてクィーンズランド州に入り、マウントタンバリンに向かう山道は、豪州の懐の深い自然そのもので、私は何度も通ったものだ。

 

タンバリン山からは、眼下にゴールドコーストの町並と青い海が、吹き上げてくる風の中に見える。

この山中の町に娘が家を購入し、移り住んだのは、もう一年も前になる。

 
カナングラはタンバリン山麓の小さな田舎町。

この町から丘を越えた外れに、豪州陸軍の広大な訓練施設がある。

 

ニューギニアで日本軍と戦った部隊もベトナム戦も、全員この地で訓練を受けて出征して行った。

 

マクナマラ中尉はそこの教官。彼の案内でこの施設を見学した事がある。

ジャングル戦の訓練には持って来いの地景で、700人の兵士を収容する。

 

日本の忍者の鍛練場そのもののような面白い設備もあった。
中尉が積み上げられた雑多な物品の中に、古びた本を見つけたのは、つい最近の事だと言う。

 

当番兵に聞くと、焼却場に運ぶ前らしい。

どうやら日本語のように見える。

 

訳の判らない本だったんだけれど、だから余計に私に見せようと思ったそうだ。
確かに日本語だ。

国土行政区画総覧、とある。

 

何でこんな本が豪州陸軍の訓練場にあるのだろう。

発行日は、昭和26年5月5日。

ハハァ、なる程ナ、と思った。

 

この年は日本はまだ占領軍の統制下にあった。

独立は翌年の4月28日。

となると、日本の行政は1年後の独立を目指し、確実に準備計画中であったに違いない。 

 

 
綴じ込みがゆるく、ページがバラバラになりそうなその本を開いてみた。

 

第二巻。

という事は、少なくとも第一巻以外にも、まだ何巻かあるのかも知れない。

 

第二巻には幸い中国、四国地方が入っており、私の出身の愛媛県を捜してみた。

 

アルアル、市ごとに詳しい町名、公共機関の所在等々、ビッシリと区画整理されている。

 

今はもう消えてしまった私のガキの頃の懐かしい町名、学校名も見える。 
戦後、占領下の日本では、中国、四国方面の占領軍は、豪州軍が多かったはずだ。

 

軍港だった呉、広島、錦帯橋の岩国、愛媛の松山もその例に漏れない。

区画行政草案が完成した段階で、必ず占領軍がそれを閲覧したものと思われ、印刷の終了した本が、豪州軍に提出されたとしても不思議ではない。

 

その時の本の一部に違いない。

 
中尉が目に止めなかったら、もう少しで灰になるところだった。

以降日本語の本が見つかったら、全部取っておけ。

 

中尉の命令だそうだ。

又何か、出て来るかも知れない。

 

日本も安全ではなくなった、というニュースのタイトル。

私はテレビはあまり見ない。

道場から戻ると、我が家の夕食は9時を回る。

 

TBSのワールドニュースが丁度この時間帯なので、これだけは毎晩見る事にしている。

ただ人を殺して見たかった、という理由で、7人もの通行人を次々と刺殺したバカがいた。

 

少年犯罪の激増。

親も負けていない。我が子を平気で殺す。

 

韓国や中国にはいい様にあしらわれても、私腹を肥やすのに熱心な政治家達。

返り見られない老世代…云々。

一体このモラルと節操の無さ、狂気は何処から来ているのだろう。

 

 
母親は日本人だ、という子供を、男が道場に入門させに来た。

 

2年程も前。まったく躾のない、だらしのないガキだった。

まァ昨今こんな子供はまったく普通で、躾の良い普通の子供が来ると、まるで天才のように思えるから、子供の質というより、親の質の低下には目が余る。

 

子供を育てるノウハウの情報はあふれているけれど、情報に振り回され、親にしっかりとした主体性がないと、宇宙人が忘れていったような妙なガキに育つ。

 
この子供、服装もだらしがない。

近寄ると臭い。

 

日本人の若い母親は、躾はまったく駄目だが、服装だけは何とか小ざっぱりした物を着せる。

 

この母親、子供を残して新しい男とでも、逃げたナ、と思った。
ケインズにも最近中国人と韓国人が急増している。

 

以前は彼等と日本人の見分けがついたけど、最近の若者達、言葉を聞かないと判断出来かねる。

 

全部が全部ではあるまいけれど、すぐに男を捜して一緒になるのは、日本人。

極端にダラシのない服装、態度をするのも、日本人。

 

フレンドリーにチョット親切に、片言の日本語は愛嬌の一つ。

これでジャパニーズは簡単ヨ、という男達がいる。

どれも大した男共ではない。

 

そんな男達と子供でも出来たら、気心の判ってくる数年後、別れるのは目に見えている。

空手道場で豪州の男共を40年以上、見て来た。

 

日本人と一緒になった男達が長く続くかどうか、一目見れば判る。

その内ケインズには、日本人シングルマザーの会、というのができるのではないか。

男にしろ女にしろ、この節操の無さ、安易さには驚かされる。

私自身、自国の日本の様々な文化、歴史等をよく知らないので大きな顔は出来ないが、自国の良さを何一つ知ろうとせず、外地に来て英語を勉強さえすれば、何とか国際感覚が身に付いてくる、と考える日本人の多い事。

 

この短慮さ、国際感覚の無さ。呆れる。

 

 

日本人の精神的価値観が180度、大きく変わった原因は、戦後、もう少し突っ込むと、極東軍事裁判後の7年間に渡る連合軍の日本支配期間中にある、と私は考える。米英、欧州諸国はアジアへの覇権を狙っていた。

それには日本が邪魔になる。

 

あんな小国、一思いに潰してしまえ、と計画したものの、先に手を出すと国際世論が恐い。

そンなら、日本から仕掛けさせればどうだ。

こんな所は大国アメリカの何ともズルイ、又恐いお国柄だ。

 

日本は資源を外地に依存している。簡単だ。その資源を止めてしまえ。

日本は打って出ざるを得ない状態になる。

これがABCD包囲網。

日本にとって資源の凍結は、国内に一千万人以上の失業者を出す大恐慌を起こす。

 

日本側の交渉は全て失敗。

米は真珠湾から空母を外し、日本の仕掛けを待った。

 

奇襲される真珠湾攻撃は、米の撮影グループ、モーパックにより、最初から記録されている。

米は待っていた、という事だ。

 
米の世論はそんなにまでしても、と戦争突入に反対だった。

 

ところが、米国の思惑通りの真珠湾攻撃に日本は踏みきり、被害者の立場となった米国内の世論は一挙に戦争賛成になる。

米側の日本を潰す大義名分はこれで成った。

 

 
大国米の唯一の誤算は、簡単に潰せると思っていた小国日本。

玉砕に次ぐ玉砕の後は、特攻隊まで出して徹底抗戦を図る。

 

この民族の精神性は大きな脅威となったはずで、だからこそこの事実が、日本への増悪として極東裁判に現れてくる。

 
裁判長の豪州人ウィップは、日本人被告の証言を全て無視。

唯一人インド代表のパール博士が、日本の戦争は自衛の為、と確証を示して正論を提出したが、これも無視。

 

判決は日本の一方的侵略行為と見なされ、東条英機ら七人は死刑。

 

戦争で負ける、という事は、こういう事なのだ。

 
以後7年間の占領政策は、日本の精神文化の抹消のため、関連づけられる歴史、音楽、芸能等全て禁止。

国民には侵略国としての罪悪感を植えつけてしまう。昭和27年の独立時には、公職のポストは米国のやり方に100%賛同する左翼分子を送り、独立後も米国の意のまま動く国への地固めをする。

 
これら左翼系職員の方針と、裁判により侵略国と決めつけられた罪悪感。占領下7年の間に抹消された歴史と文化。

 

これが現在の日本の風潮を生み出した根底にある。
 

 

連合軍総司令官のマッカーサーは、7年の日本支配の間で、彼の日本に対する見方が変ってくる。

だからこそ日本嫌いのトルーマン大統領の気にさわり、日本独立の1年前、罷免されてしまう。

 

彼が米国に戻り、最高機関である上院の軍事外交委員会で報告した言葉は、英語大好きの日本人全員が知っておくべき事実だ。彼の結論である。
「THEIR PURPOSE THEREFORE IN GOING WAR WAS LARGELY DICTATED BY SECURITY」
(日本の戦争は自衛の為、やむなく行われたものである)

 
塗り替えられた真実を知る事は、日本民族としての誇りを取り戻すことにつながる。

 

 

来月は終戦記念日。

マクナマラ中尉の見つけた古本から、こんな事を考えた。

 

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国時刀異聞 Vol.86

2008年05月10日

間合いが遠い。

構えも高い。

蹴りで来るナ、と思った。

 

わざと顔面を空 け、スーッと間合いをつめた。

男が動いた。ビンと蹴りが顔に来た。

ソレを待っていた。

 

右手で受け、手首で引っ掛けるように引き込むと、男 の体が簡単に崩れ、背中を見せるように私の方に倒れこんで来た。

その 肩をポン、と叩いてやった。

 

男は数歩よろめいて踏みとどまり、私の顔 を見てニタリと笑った。
私が空手道場を開いた33年前。

 

4人の男のグループが一度に入門し た。

ボブ、バリー、バーンに保険屋のニック。

 

切れ者の獣医のボブは、 その後コミティーを組織し、道場を盛り立ててくれた。

現在も私の飲み 友達である。

ある稽古日、彼等が一人の空手の有段者を同行して来た。
ニューギニアから戻ってきたという彼等の友人。

 

年の頃30才前後。

空 手は癖の強い雑な動きをしたが、勘はいい。

磨くと光る玉だと思った。

以来私の道場が気に入り、ボブ達といつも稽古にやってきた。

 
その日、ボブが眉間にシワを寄せて入って来た。

 

彼がこんな表情をする 時は、何かある。

案の定、センセイ…。

 

近寄ってきた。
「ベバンが昨日、交通事故に遭いましてネ」幸い、命には別状はない。

 

大きなカーブを切りそこねた対向車と接触。車は横倒しになって大破。

足をやられた。「当分空手なんかできないでしょうネ」
ベバンは道場に溶け込み、稽古が楽しくてたまらない、という矢先の事 故だった。

 
数日してベバンは道場に顔を出した。杖を突いていたが、ビッコを引きながらも、何とか自分で歩いている。

 

足に傷らしい傷もなく、大怪我をしたと思い込んでいた私には、むしろ拍子抜けの感じを受けた。

 

その彼をまるで世話女房のようにこまめに世話をする小柄な女性、マリリン。

可愛い娘で、豪州人の女性にしては珍しい程、よく気の付く性格だと 思った。

 
「しばらく道場に顔を出しませんので、お別れに来ました。」
事故から少し経っていた。ベバンが額から垂れる黒い髪をかき上げながら、そう言った。

 

表情が暗かった。

事故の賠償金請求の裁判では、空手道場に出入りしているのが判ると健康だと疑われ、判決結果が悪くなるそうだ。

 

ソンナものかエ、と思いながら、杖を突き、マリリンに支えられながら道場を去っていく彼等を見送った。

 

この時からベバンは消息を 絶った。風の便りに、イニスフェル近辺にいる、と聞いたことがある。

 

 
ベバンの友人だったバリー。

その夜は宿直だった。

 

定期的にエンジン ルームのテェックをする。

一回目、異常なし。

二度目のテェックのとき、床上1メートル位に、まるで霞のように広がる黄色状の気体を見た。

 

アンモニアガスが漏れている。
今はケインズの郊外のようになったエドモントン。

30年前は町の入り口に大きなケインズ屠殺場があった。

 

バリーはエンヂニア。
ガスは地面まで下りてはいなかった。正面にガス管のノズルが見える。

 

バリーは地面に腹這いになった。ガスを吸い込まないよう、必死に這った。

ノズルに取り付き、中腰になって両手でハンドルを回した途端、轟音と共に目の前が真っ赤になった。

 

 
「気が付いたらこの様でサァー。

もう体中、痛くて痛くて、何度もその 窓から飛び降りようと思いましたゼ。」
バリーの病室は病院の三階。

 

そんな患者のためか、窓には鉄格子が入れてあった。

バリーの声が元気そうだったので、もしかしたら助かるかも知れぬ。

 

一縷の望みをかけた。バリーは三日後に死んだ。

 
彼の葬儀には道場生全員、稽古着姿で参列した。

 

私は教会の入り口に立 ち、門弟達を所定の場所に誘導していた。

式の時間が迫り、教会の前には誰一人いなくなった。

 

 

その時、一台の車が土埃りを上げて乗りつけて来た。

ドアがガタンと開き、黒っぽいマントのような物を着た男が下り立った。

杖を突いていた。ベバン!!
体を左右に振り、カタカタと歩いて私に近寄ると、足を揃えて立ち深々と礼をした。

 

目が暗く、生活の荒みが感じられた。

彼は何も言わず、私も目で彼を教会の方に誘なった。
式の終わった後、ベバンを探したが、もう彼の姿は何処にも見当たらなかった。

 

これが私のベバンを見た最後になった。

 

 
「日本の刀を手に入れたのじゃが、ワシには無用の物じゃ。

アンタの事は聞いておった。

こリャー、アンタが持っておいた方がエエ」しゃがれた、たどたどしい英語だった。

 

男はジョセフと名乗った。

ドイツ人。

夜遅い電話だった。

 
ジョセフィン、フォール。

イニスフェルの手前の村、ミリウィニを通過した後、山の手に向かってハイウェイを逸れる道がある。

 

 

サトウキビ畑の中を20分。

ジョセフの家がポツンと建っていた。
私はこの頃、興味を持って日本刀を収集していたが、当時は鑑定出来る目がなかった。

 

そんな私が鑑ても、ジョセフの刀、ヒドイ状態だった。
特に物打ちから先の錆がひどく、研磨出来るとは思えなかった。

 

ただ鞘に残っていた微かな塗料から、その塗り方の質がいいので、第二次世界大戦中の日本帝国陸軍、将官クラスの佩刀だと思った。

 

剥き出しの朽ちかけた中心に、国時と二字銘。普通将官クラスならまずまずの刀が使用してあるはずだ。

 
「何処で手に入れたエ」ジョセフに問うと、彼は私を窓まで招き、そこから目の下に見えるサトウキビ畑の中の一軒家を指差した。

 

「アソコにナァ、四、五人の男らがいつの間にやら入り込んでナー。

飲んで騒ぐ、大声は出す、文句を言うと脅してくる。

モウ村の鼻摘まみモノじゃったヨ。

多分ドラッグの売買でもしてたんじゃろ。

マリワナも育ててたらしいノー。

 

ボス格の男がアンタと同じ、カラテのブラックベルトちゅうンで、村の連中も怖がっとったヨ。ソウソウ、あの男、いつも 杖を持ってたナ。」

私の頭の中で、パチンと弾けるものがあった。 

 

 
「頭にきた村人の誰かが、ポリ公の手入れがある。とでも流したンじゃろ。

野郎共、アッという間にいなくなったヨ。あの男の名前、なんと 言ったかナァ。エート…」

 

「ベバン!!」私は斬りつけるようにその名前を投げた。

 

私はしきりに、逃げた男達の残していったその刀は、空手を通して日本刀にも興味を持ったベバンの持ち物だと思った。

 

ジョセフが再び空き家になった一軒家の物置から捜し出してきたのだ。

 
それにしてもベバン。

彼はこの国時刀を忘れていったのだろうか、捨てていったのだろうか。
刀を一振り研ぎ上げ、柄と鞘を新調して拵をつけると、安くても25万円の費用がかかる。

 

それだけの金を支払っても、錆の研ぎ落とせない刀は、価値はない。捨て金になる。

しかし、なんとも不思議な巡り合わせで私の手元にやって来た国時刀。

 

金の問題ではない。研いでやろう、と思った。
バリーの葬儀でベバンを見て以来、又二年程の日が流れた。

ある稽古日、ボブが眉間にシワをよせてやって来た。

 

なんだかイヤに怒っているようだ。
「聞きましたか、センセイ。あのベバンの野郎、裁判に勝って相当の金をせしめたようですぜ。

ところがあ奴、支払いのチェックが届いた途端、杖を放り投げてスタスタ歩いたそうですヨ。

あのビッコ、保証金を稼ぐための芝居だったんですナァ。

あれだけ世話になったマリリンに一文も渡さず、姿を消したそうですヨ。あの野郎…。」

 

 
ボブの憤慨は止まらない。

聞いていて私も気分が悪くなった。

 

マリリンはその後一人で道場に戻って来たが、そのうちケインズを去った。

風の便りでブリスベンに落ち着いた、と聞いた。

 

 
研ぎあがった国時刀は、なにやらベバンに裏切られたようで、刀に罪はないのだが、その後25年間、私の武器庫で眠り続けた。

 

最近妻が肩こりを訴える。

 

彼女が若いときもそんな事があったので、真剣を使う居合いをすすめた。

 

肩こりは肩と胸筋を鍛えればいい。

薬や湿布では、一時しのぎになるだけだ。

 
彼女には適当な重さの刀に卯の花色の柄巻、黒字に赤を散らした鞘の居合刀を用意してやったが、今の彼女にはあの刀は少し重すぎる。

 

やや軽めの刀を持たせ、肩こりが消えたら、重い刀にすれば良い。

サテ、軽めの刀となると…ソウダ、国時刀があった。

ベバンの事はもうぼうぼつ時効にしよう。

 

サテサテ、あれからもう25年が過ぎたのか。
 

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空の青い日 Vol.85

2008年03月10日

 毎日でも来たいのですが、仕事が忙しくてネ。

言うだけあって稽古が楽しくてたまらないようなトム。

 

いつも早目に道場にやって来る。
彼は私が33年前、道場を開いた時の最初の弟子。

当時15才。

 

ノッペリとした感じの少年で、それでも2年程通って来た。

 

以来会った事がなかったのだが、つい数年前、ヒョッコリ道場に戻って来た。

48才。独身。

親の跡目を継いで、手広く事業をやっている。

 

言葉の端々に年に似合わぬ少年のような真面目さが顔を出すのは、私にだけ見せる一面なのだろうか。

 

それにしても余程人生をスレずに育って来たのに違いない。
その日はトム、いつもより遅く道場に稽古に来た。表情が何となく、暗い。

何かあったナ、と思ったが、丁度私は子供のクラスで忙しく、手が離せなかった。

 
生徒の動きを見ていると、彼等の体の不調がすぐに判る。

トムの息の上がりがどうも早過ぎる。体が時折前かがみになるようだ。

 

どうしたエ。と聞いたのは、もう数ヶ月も前の事だ。

下腹部のあたりが何やら普通ではないような気がする、と言う。

 

漠然として言い方だったし、本人自体ハッキリとした自覚症状がない。

マア、調子が悪い時は、ユックリとおやり、としか言えなかった。

 
その後も時折不調を訴えた。

どうやら何かありそうだ。

その矢先だった。

 

 
子供のクラスが終わった時、トムがスルッと近寄って来た。

ペコッと礼をし、他の生徒からはばかるように、口の中でモゴモゴと言葉をころがして、「センセイ、夕べ小便の時、血が出ましたヨ」

 
私は自分で大した病気に罹った事がないので、病気には常識程度の知識しかない。

 

その私でも、コリャ少しヤバイなァ、と思った。
前立腺ではないのか。

血尿となると、前立腺癌の初期、とも考えられる。

 

マサカ、とも思ったが、豪州人には普通に見られる癌とも言える。

とにかく1日も早く、検査を受けねばならない。
クイーンズランド州の専門医不足は深刻だ。

 

大病すると大変な事になる。

トムの精密検査さえも、結果が出るのにかなり掛かった。
私のアドバイスが良いのかどうか、判らない。

稽古は休むなヨ、と言っておいた。

 

1人で悶々と心配するより道場で汗を流し、体を動かして気力の充実に努めた方がいい、と思ったからだ。

 

手術を受けるにも、体力のある方が回復が早いはずだ。

トムは心配しながらも、毎日稽古にやって来た。
私の道場は今年で33年目を迎える。

過ぎてみれば長かったとも、又短かったようにも思える。

 

 

その間、小さな田舎町だったケインズに大挙して日本人が押しかけ、アッという間に日本人向けの商売が乱立した。

私には地元という基盤があったけれど、私は自分が、生きる、という事に不器用な人間である事をよく判っていた。

 

私に出来るのは、空手、であって、日本人向けの商売ではない。

私のこれまでの人生は、金銭的には成功とは程遠い道のりではあったけれど、人にへつらわず、人を利用せず、自分に正直に真っすぐに生きて来た。

 

日本人としてのプライドを通して来た。

人間として当たり前の生き方で、別に自慢出来る人生でもない。

 
私の空手も、大してウマい訳でもない。

ただ私のそんな不器用な生き方に賛同してくれる弟子達が、今までの私を支えてくれた。

 

今でも30年以上の弟子が6人、20年以上は何人も稽古している。

私の道場は飽きっぽい豪州人にしては希有な存在の人間関係が、今でも続いている。
トムは相変わらず稽古を休まなかった。

 

無理をして普通に振る舞っているものの、時折一人の時の表情にフッと暗さが見える。

 

私はその日を心待ちにしていた。

彼の検査の結果が出ているはずだ。

 
「どうだったエ」 子供のクラスを終えると、私はさりげなくトムに近寄った。

道場の誰にもトムの悩みを話してはいなかった。

トムは私に礼をし、大きな体を縮めるように口を開きかけた時、アッという間に彼の目が盛り上がり、涙が頬を滑り落ちた。

トムは慌てて道衣の袖で目を拭うと、他の生徒から隠れるように道場の隅に戻って行った。

 
「ソウカ、やはり癌だったのか」
「南へ行け。癌ではベストの医者を捜せ。

 

癌の進行状態を把握し、出来るだけ早く、手術日を決めてもらえ。

金を惜しむな。

手術日が決まったら、それまで何としても稽古を続けろ。BE POSITIVE」

 
私にはまったく当然の事しか言えなかった。

しかし私と道場の存在が、彼の精神的な支えになる事を知ってもいた。

 

手術は2月の中旬、と決定した。

癌は転移していなかった。
 

 
「センセイは私の命の恩人ですヨ」
ジョンがポロッと漏らした言葉がある。

 

私は人に恩人と言われる程、大それた人間ではない。

その意味がよく判らなかった。
ジョンの入門は10年前。

当時58才。

 

その男、まるで何かに取り付かれたかのように毎日、稽古に没入した。

 

道場の掃除や後始末等、まるで縁の下の力持ちのように陰日向なく、実によくやった。

誠実を絵にかいたような豪州人。

 

「センセ、最近チョイト調子がおかしいんじゃがノー」
まったく何の不平不満も口にしない彼が、ポツンと私に言ったものだ。

彼の稽古中の動きから、すぐに私に思い当たるものがあった。
検査を勧めた。

 

私は自分では病院嫌いで、検査等まず行かないのに、人には簡単に勧める悪癖がある。
「再発してましたヨ」
彼が検査の後、私にサラリと言った言葉だ。

 
SHOOTING THE BREEZE(チョイと立ち話)。

まったくそんな感じだった。

 

丁度トムの話と前後していた頃だった。

 

私はその時まで、ジョンが10年前、前立腺癌を切り取った事を知らなかった。

手術後体の調子がくずれ、持病の心臓の弱さと重なって落ち込んだ時、道場のメンバーから私の事を聞き、藁にもすがる気持ちで入門したのだと言う。

 

ところが稽古が面白くなり、それが又彼の生きがいになってきた。

 
「年をとってから、こんなに体の調子が良くなるとは、思いもしませんでしたヨ。この10年、稽古はホントに楽しゅうござんしたヨ」
その時初めて、ジョンがなぜ私を彼の命の恩人だ、と言った事があったのか、判ったような気がした。

 

私の不器用な生き方も、まんざら捨てたものではないナア。思ったものだ。
ジョンの癌、再発はしていたもののまったく進行の様子はないそうだ。

 

今の段階では医者も、「まだ手を出さないそうですゼ」
それで本当にいいのだろうか。

私には相変わらず、稽古を続けろ、体の状態をベストに保て、ぐらいの事しか彼に言えない。

 

ジョンは毎日、黙々と稽古に来る。
道場から戻ると、留守電が入っていた。

 
「麻酔が切れたところですヨ。手術は大成功だそうです。センセイにまず知らせなキャー、と思いましてネ」
麻酔のせいかしゃがれたトムの声だった。

 

 

ソウカ、良かったナア。

これで私も肩のつかえが取れたヨ。サテ1杯、乾杯とするか。
朝稽古に久し振りにビルが来た。

33年前の生徒だ。

 

イニスフェイルから稽古に来る。稽古を終え、道場を閉めて車に乗ろうとした私の背中にビルが声を投げた。

「センセイ、稽古は楽しいですナァ。絶対に止めませんぜ。でもセンセイが止めたら、私も止めますぜ」

 
コリャまるで脅迫状だゼ、とおかしかった。

その朝、雨が切れて数日振りの太陽が顔を出した。

朝稽古の汗は気持がいい。

アー、空が青いナァ。
 
 

 

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ナパーム弾 Vol.84

2009年01月10日

 「こりゃ、ヒデェ」息を呑んだ。

 

その男、足を投げ出すように、雑踏の路上に座り込んでいた。

足の皮膚の色が気味悪いほど青白く、その中にまるで雨上がりの水溜りのように赤い筋肉層が露出していた。

 

つい最近、足の皮をベリッと剥ぎ取り、その傷跡がようやく治りかけたかのように、生々しく見えた。

ナパームに違いない、と思った。

 
私は狭い露地が入り組んだ、サイゴンの下町を歩いていた。

アチコチの路上でローカル達が車座になり、膝をかかえるようにしゃがみ込んで、ドンブリから何かを食べていた。

 
彼等は食事時、日本人のように大声を上げたり笑ったりする不作法はしない。

自分達だけに聞こえるように、実にしめやかな会話をしながら食事をする。

 

 
以前はよく、気が向いた時に、妻と二人でフラリと旅に出た。

 

別に何処でも良く、目的もなかった。

いわゆる観光名所という誰もが行く場所には興味がない。

その土地や国のローカル達がたむろする所がいい。

連中がどんな物を食べ、暮らし振りを感じて見る。

 

買い物はする。その土地のガラクタを売っている店を捜す。

以前は結構面白い物を見つけたが、今はもうそんな面白味はなくなった。

むしろインターネットのオークションに面白い出物があったりする。

 
男の写真を撮ろうと思った。

通行人をやり過ごし、カメラをセットした。

 

 
ベトナムが百年に及ぶフランス統治からようやく独立したのが、第二次世界大戦終結後の事。

しかし独立後の政権をめぐり、コミュニスト党と人民解放軍との内乱で、国を17度線で南北に分け争う事になる。

 

北をソ連や中国が支援したら、おせっかい屋の米国が南に入って来るのは目に見えていた。
それにしても、物量と近代戦で仕掛けてくる米国に対し、モグラのように全長二百キロ以上にも及ぶ地下壕を掘り、ゲリラ戦法のみでよくあれだけの戦いが出来たものだ。

 
第二次世界大戦中は日本も世界を相手によく戦った。

日本軍は正統に評価して、世界でも優秀な軍隊だった。

しかし軍部上層が独走した。

 

無謀な作戦で優秀な人材を殺し、赤紙一枚で民間人を、まるで消耗品のように前線に送り続けた。

作戦を命令として受理し、玉砕するまで戦った将兵こそ日本軍の真髄であったのに、戦後の風潮は彼等を、無駄死、としか評価しなかった。
兵士を死に追いやった上官達の一部は、戦争が終結するといちはやく、軍の物資を横領して姿を消したという。

 

大本営の参謀以上は、全員責任を取って死ぬべきだった。

 
前線で兵と共に苦労した心ある上官は、ほとんどが死ぬか、生き残っても勝者の一方的裁判であった極東裁判で死刑になった。
私は日本の戦国大名、という連中が、どうも好きになれない。

 

勇猛果敢で英雄めいたイメージがあるけれど、日和見主義で強い者なら誰とでもくっ付き、裏切り行為は日常茶飯事。だからこそ家族を平気で人質に出したりする。

 
私の嫌いな武将の一人、小早川秀秋。

西軍にありながら事前に東軍に通じ、関が原の戦いが始まっても、陣を張った松尾山から動こうとしなかった。

形勢の良い方に寝返るつもりだったのだ。見かねた東軍が背後から威嚇射撃をあびせ、ようやく動いた。

 

これが家康側東軍の勝利の切っ掛けになった。この時代は、裏切り、を悪いとするモラルは、存在しなかったのだろうか。そんな気がする。
日本人の性格の一つとして上げられる日和見的な動きは、もしかしたら戦国時代から培ってきたのかも知れない。

 

その反面、死ぬと判っている戦でも、道義を通すという世界的に見ても類いまれな精神性をも兼備している妙な民族なのだ。

 

 
倒れる幕府に最後まで誠を通した新撰組。

諸藩が次々に新政府軍に恭順する中で、白虎隊まで編制して抵抗した会津藩。

自分の一死で、国や親や恋人が救えると信じて征った特攻の若者達。

最後の一兵まで戦って玉砕した将兵達。
又又マツモトが、古臭い事を言ってるヨ、と思わないでおくんなサイ。

 

アメテャン達は、実はこの日本人の他人の為にも死ねる、という精神性が怖かった。

だからこそ戦後8年に及ぶ日本支配中、日本人の精神性に影響を及ぼすと考えられるあらゆる文化、歴史的事実、道徳、歌曲等々、六千五百項目にも達する日本の事実を全て禁止又は抹消したのだ。

 
米軍の占領政策は、敗戦のショックと軍部への不信感、日和見主義のある新しい物好きの日本の国民性に、民主主義、として受け入れられ、これがマァ大当たり。

 
そして戦後60年も過ぎると、30%以上の若者が自分の国を嫌いだと言う。

国旗といえば、オットリ刀で息巻く日教組。それをサポートする日本の大新聞。

道徳もなくなった。

 

子供が子供同士、又は親を殺す。

ところが親も負けてはいない。

簡単に子供を殺ってしまう。

米国もこれ程までに彼等の占領政策が、日本の精神文化を破壊してしまうとは思いもしなかったろう。

 

現在の世相の原点は、戦後の極東軍事裁判と米の占領政策にある。
 今でも中国や朝鮮に尖閣諸島や竹島問題、北鮮の拉致問題などでベロベロにナメられている日本の外交の将来は、二つしかないように思う。

 

今の世界、均衝を保ち発言力を持つには、武力が要る。自衛隊を日本陸海空軍に昇格させ、軍備の充実に努める。
さもなくば徹底的に米国に尻尾を振り、米の翼の下に入り込んで、米に代弁するように仕向ける方針を取る事だ。

 

さもないと中国や朝鮮問題は解決しない。

 

 
その男にカメラを向けたものの、途惑った。

 

ベトコンの抵抗の強さに業を煮やした米国。

 

日本の各都市を無差別に焼き払い、百万以上の民間人を殺傷した焼夷弾よりさらに強力な爆弾を開発した。

ベトコンの疑いがあるならば、皆一緒くたに殺ってしまえ。

実に米国らしい。

この男は年齢から見て、子供の頃にナパーム弾で焼かれたに違いない。

 

戦後30年をどうやって生きて来たのだろう。
考えていたら私が興味本位で写真を撮るような人間性のない人間に思えてきて、シャッターが押せなくなった。

ヌッと同じような年頃の女が顔を出してきた。

鼻から下、口、首、胸から手先にかけて、ゴムバンドを束ねて引っ張ったようなヒドイ火傷のひきつれがあった。

同じくナパームの被害者だ。

私はなにやら息がつまるような思いがし、カメラを仕舞うと妻の後を追った。

 

 
日本は確かに豊かに贅沢になったけど、その物資的な豊かさを懸命に追い求めた中で、忘れつつあるものがある。

 

 

その原点が戦後の戦勝国による古領政策と日本を悪者と決めつけた一方的な極東軍事裁判にあると私は考える、しかし民族の血というのは、そう簡単に消えてしまうものでもあるまい。ただ戦後の教育という蓋をされ、皆が気が付かないだけなのだ。

 

日本から道徳という観念がすたれつつある現在、なぜなのか、という疑問をもう少し突っ込んで考えてみなければ、表面上の対策では解決できない問題と言える。

 
もしベトナムが戦後の日本と同じ立場に置かれたら、どうなっていただろう。

 

 

ベトナム人には日本的日和見主義と新しいものに飛び付く性質、よく言えば従順、悪くて軽薄。

それが少ないように思う。米の占領政策は日本人だから大当りしたのだと思う。

 

という事は何かの切っ掛けさえあれば、日本は正常に戻る、という可能性があるという事だ。

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グレートバリアリーフ最南端 Vol.47

2009年03月10日

 
グレートバリアリーフと言えばケアンズから行くノーザン(北部)セクションが有名である。

日帰りダイビングやダイブクルーズでケアンズから訪れることが出来るリーフは多くあり、ダイバーは時間と予算、経験などから行き先を決める。

 

 
僕がケアンズに来たときは日本で紹介されるグレートバリアリーフと言えばケアンズのみだったと言っても過言ではなく、限られたクルーズと日帰りボートが毎日ダイバーをリーフまで連れて行っていた。
  

 
全長2000キロにわたって広がっているグレートバリアリーフの大きさは、多くの人が知っているが、このグレートバリアリーフを全て潜ったダイバーなどは聞いたことがない。 

 

 

まずは一生かけて潜っても全てをカバーするのは不可能な広さなのだが、その広大なリーフシステムの中でも、すでにダイビングサービスがあるような場所は時間をかけて全て潜りに行きたいと思っている。

 

 
今まで働いていたダイブショップはケアンズとアーリービーチだったのでノーザンセクションとセントラルセクションはある程度潜っていたのだが、なかなかチャンスができずオーストラリアに来てから初めて潜れるまでに約10年かかったポイントがサザンセクション(最南端部)のグレートバリアリーフだった。
 

 
はじめて潜りに行ったのが、2000年の4月。

どんなところなのかの情報もなく、ただ始めて潜るスポットが新鮮だったし、水面に列を作って泳ぐ何十枚というマンタに出会ったのもその初めてのトリップであった。

 

 
ボートの設備やサービスは、今のケアンズに比べると確かに劣るが、野生的なダイビングスポットはケアンズ周辺にはない雰囲気を体験できた。周りにはボートが一隻もなく、リーフを独り占めといった感じであった。

 

釣りもしながらだったので、食事に刺身が出てきたのがうれしかった。

 

ボートが出る場所はバンダバーグかもしくはそこから北にあがったところにあるタウンオブ1770かどちらかである。
日帰りボートはタウンオブ1770、クルーズ船はバンダバーグから出ており、じっくりサザンセクションを見たいのであれば絶対にクルーズがお勧めである。
 

 
現在のところ、定期的にクルーズを行っているボートは1隻しかないので選択の余地はないのだが、素晴らしいダイビングができる。 

グレートバリアリーフの最南端に位置するバンカーグループと呼ばれる場所でダイビングをするのだが、写真のような無傷のサンゴ礁がずっと広がっている。

 
潜るダイバー数が絶対的に少ないからなのか、水温がある程度低めに保たれているからなのかそれとも外洋からの潮が入り込みやすいエリアだからなのか、明らかにこのエリアのサンゴ礁は元気である。

 

マンタやウミガメは当たり前といっていいほど出てくるし、冬場などはザトウクジラと水中で出会ったなんていうラッキーな話も聞く。

 

ケアンズからだと南へ1400キロという距離が壁になるが、これも1泊2日から2泊3日ほどのドライブだと考えれば楽しい旅行になること間違いなし。
どうしてもドライブが苦手ならばブリスベンまで飛行機で飛んで、そこから飛行機もしくはバスで北上するとバンダバーグに到着する。
 

 
バンダバーグといえばラムが有名である。

オージーが飲むラム&コークといえばここで作られているラムである。

 

 
シロクマが出てくるテレビのコマーシャルを見たことが有る人も多いとおもうが、そのシロクマが工場入り口にガラスケースの中に飾られており、工場見学に参加すると限定版のラムなんかも帰るので是非行ってほしい。

 
 
なかなか短期観光で行くには遠い場所ではあるが、ワーキングホリデーでフルーツピッキングなんかを考えているダイバーがいれば楽しめること間違いなし。

 
シーズン的にも真夏よりも秋口から冬場にかけて海が穏やかになってくるしマンタなんかの大物も出やすくなる。

 

 
それにしても最近このクルーズに乗っていないとふと思ったので、今年は1・2回潜りに行こうかと日程調整中。
ケアンズに住むダイバー で是非という方、一緒に行きませんか?
 
 

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海の墓場 Vol.46

2008年01月10日

最近日本からハイビジョンの撮影が入ったり、テレビ局などからの問い合わせが多いヨンガラレック。

2008年はちょっとしたブームになるかもしれない。
 

 
以前から世界10大レックダイビングスポットとしてリストアップされているヨンガラも、オーストラリア最大の海難事故で沈んだ船である。

乗員乗客122名全員が死亡し、結局1体も遺体が上がっていない。

 

そもそも、沈んでから発見されてヨンガラ号と確認できるまで50年近くかかった。

そんなヨンガラレックは今、世界中からダイバーが潜りに来るオーストラリアが誇るダイブスポットになっている。
 
 

 ヨンガラ号が沈んだ経緯にはいろいろな不運が重なっていることも興味を引く部分である。

 

船舶無線をこの最後の航海となったあとに搭載する予定だったこと(もしすでに無線があれば、サイクロン情報を伝えることが出来たはずだった)や、ブリスベンで乗り遅れた競走馬がなければサイクロンの直撃は免れた可能性が高かったこと(これにより出港が遅れていたのである)、キャプテン引退前最後の航海だったなどなど、ヨンガラ号にまつわる話を知れば知るほどますますこのレックに興味がわいてくるのである。
 

 
レックダイビングというのは、ダイビングや人工漁礁などの目的に沈めた船以外は嵐などで遭難した場合が多い。

と言うことは大荒れの天候時にシェルターとなるような場所がない海域である場合が多いのである。

このヨンガラも風がある程度おさまらないと潜ることができないところにある。

 

ポイントの回りはひたすら水深30m弱の砂の水底が続く。何もない平たんな水底である。

そんなところに突如として全長100m以上の船が沈んだわけなので、周りの水中生物の格好の住処となった。

 

 

今ではこの船だけで完全なエコシステムが出来上がっていると言っても過言ではない。

魚影の濃さ、各個体の大きさなどはオーストラリアの他のダイブスポットと比べても対抗できるところは非常に少ない。

 

また、先述したとおりエコシステムが出来上がっているので、季節ごと、月ごとにその様子が変化する。弱肉強食関係が目に見えて体験することができるポイントでもある。
 
そこで、ダイビング小僧としては毎月のように潜りに行きたいポイントなのだが、天気図とのにらめっこでチャンスがあれば仕事でもプライベートでも潜りに行くようにしている。

 

つい先月もお客様を連れて行ったのだが、ツアー当日の朝に予報よりも風がおさまらずボートが出港せず涙を呑んだ。

 

タウンズビルまで行ってボートが出なかったことは今までなかったので、しばらく落ち込んだがそのときのメンバーとは12月中にリベンジ予定(これが出ているころにはリベンジが終了しているはずだが)である。

 

片道400キロ弱の行程も慣れてしまうと近いもの。プライベートでは日帰りダイビングも可能。意外に気軽に行くことが出来るスポットでもある。あとは天気が味方につくかどうかでヨンガラへのダイビングは決まる。

 
場所は変わるが、ウルル(エアーズロック)に行くと「聖地のため登らないで」と言うメッセージを見るだろう。

 

 

アボリジニにとっては神聖な場所なのである。それでも登る人は、そういった背景を理解し、尊重する必要がある。

ヨンガラレックもそれと近いものがある。

 

アボリジニの聖地ではないが、122名が亡くなった場所である。

オーストラリアにはその親族に当たる人たちが当然のことながら多く住んでおり、ヨンガラはそういった親族にとっては慰霊地にもなっている。

 

 

そこにダイビングするということは、単に水中生物を楽しみレックを楽しむだけではなく、昔沈んだヨンガラの悲劇を考えながら船と共に沈んだ人たちの冥福を祈ることも大事である。
 

 
それにしても毎回驚かされるヨンガラダイビングだが、何が出てくるのか予測が出来ない楽しさはたまらない。

いつかは、水中でヨンガラレックの横に並ぶザトウクジラとのダイビングを夢見ているのだが冬場の話なので来年までの楽しみにしている。

 

 

1年に1度は必ずといっていいほどヨンガラレックの水中ザトウクジラ遭遇という話を聞くので、いつかは自分もと・・・。

2007年は見事に撮影されたクジラとの写真を見たのだが、いつか自分も同様の写真が取れればと思っている。

 

これを書いている次の週もヨンガラツアーである。

これからも出来るだけ機会を見つけて潜り続けてヨンガラの全てを知るダイバーになれればなと。

 

それにしてもサカナの数多すぎ!群れの動きでめまいを感じるほどである。
 
 

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住宅ローンの実際の返済額

2008年05月10日

金利の引き上げが発表され、買い手市場に移りつつあります。

 
今回は、住宅ローンを組んだ場合、返済額はどのくらいなのか、また不動産取得時の印紙税の実例を挙げてみましょう。

 
印紙税は決済以前に払う必要があります。初めて居住用の不動産を購入する場合は、2007年1月より不動産取得印紙税が$320,000まで免除となりました。

また、居住用に更地を購入する場合も$150,000までは印紙税がかかりません。

 
ローンを組む際に必要な諸費用(申請手数料、ローン口座管理費、物件価値査定手数料、書類作成費、抵当保険など)は1-2月号で触れました。

 
具体的な数字からプランを立ててみてはいかがでしょうか?

 

 


トビー・シャーカ

チョイス・ファイナンス・ケアンズ社オーナー。

公認住宅ローンブローカー、弁護士。

主要銀行を含む35社以上の金融業者と契約、顧客に合った住宅ローンを紹介する。

 

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住宅ローンを組む際の基礎知識2

2008年03月10日

いざ不動産購入という時、ほとんどの方がローンを組むことになると思いますが、どこからお金を借りたら良いか、いくらまで借りれば良いのかなど、考慮することはたくさんあります。

 
ほとんどの金融業者で、不動産購入額全額を借りることができますが、よく考えましょう。

通常は、購入額の5%を頭金として払った方が、利子や返済期間などにおいて有利になります。
また、初めて不動産を購入する人のための政府の援助金(First Home Owners Grant)もあるので、該当する方はローンを組む際に問合せてみましょう。

 
投資用の不動産を持っている方は、investment home loansをお勧めします。既に持っている不動産を担保に、次の投資物件のための融資を受けられるというものです。
金融会社の多くが、不動産購入額及び法的、銀行用の費用をカバーするファンドを用意しています。

 
また、住宅ローンと普通預金口座、クレジットカードがリンクされたパッケージがあるのをご存知でしょうか?

銀行でのお金の出し入れが簡単なる他、以下のサービスを期待できます。 
・住宅ローンの設定費無料
・月々の口座管理費無料
・可変金利の割引(0.1~0.7%)
・ローンを申込めば申込む程割引が適用
・査定費無料
・住宅保険料割引(ローン最低額や口座数など付帯条件あり)

 

 
このパッケージのほとんどは、年間管理費(年間$300程度~会社によって異なる)を要しますが、特典が多いので考慮する価値はあると思います。
また、自営業を営む人など、収入を確定するのが難しい場合、Lo-Doc(Low Documentation)ローンというオプションもあります。

 
ファイナンシャル・ステートメントやタックスリターンなどを提出する代わりに、平均年収を書き込めばOKなので、ローン申請に要する時間を大幅に節約できるはずです。(ガイドラインは、金融業者により異なります)

 
同じ住宅ローンでも、このように様々なオプションがあるので、きちんと調べるか、様々な金融業者の情報を持っている仲介人に問い合わせることをお勧めします。

 

 


トビー・シャーカ

チョイス・ファイナンス・ケアンズ社オーナー。

公認住宅ローンブローカー、弁護士。

主要銀行を含む35社以上の金融業者と契約、顧客に合った住宅ローンを紹介する。

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住宅ローンを組む際の基礎知識1

2008年01月10日

今回は、契約を結ぶ前のステップについてお話します。

 
不動産譲渡契約を結ぶ前には、デポジット(前金)支払いとローン返済の可能性を証明するという2つの段階を踏みます。

デポジットは、金融機関によっては2.5%というプランもありますが、通常は物件価格の5~10%が必要です。

  

ただ、ローンの額を多くしすぎないように気をつけましょう。

物件価格の80%以上を借りてしまうと、Morgage Insurance~ローン保険(ローン額の1.5%程度)が適用されてしまいます。

  
また、借り手の返済の可能性については、金融機関がそれぞれ違う計算式を用いて試算します。

 

(故に、お金を貸してくれる所とくれない所があります。

ブローカーは、多くの金融機関と取引しており、クライアントの状況にあった機関を勧めてくれます)

 
ローンを組む際に必要な費用
■ローン申請手数料
$300~$1100、もしくはローン全額の1%と機関によって様々で、申請料がかからない銀行などもあります。

■ブローカー紹介料…住宅ローンブローカーによっては、$3000程度までの紹介料が発生する場合があります。

(弊社は紹介料はいただきません)

■ローン口座管理費…月々$0~$10

■物件価値査定手数料…$150~$300の査定料が発生することもあります。(通常はローン申請料に含まれます)

■リーガル/ドキュメント代…機関によっては、弁護士を雇って抵当証書を作成し、作成費$350、サーチ代$13.53、抵当登録費$111.30といった費用が発生します。

■抵当保険…物件価格の80%以上を借りた場合の保険。ローン額の1.36~2%

その他…状況によっては、他の費用が発生する場合もあります。

ただ法律により、金融機関はローンの書類を作成する際に必ずこれらの費用を明記することが義務づけられています。

 


トビー・シャーカ

チョイス・ファイナンス・ケアンズ社オーナー。

公認住宅ローンブローカー、弁護士。

主要銀行を含む35社以上の金融業者と契約、顧客に合った住宅ローンを紹介する。

 

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■その9「オージーのトイレ事情~その1〜隣がみえても気にしない?」

2007年09月05日

 

▲ステンレスでできたトイレ

 

 息子がこちらの小学校に通い始めた頃、「こっちのトイレって、日本と違ってちょっと恥ずかしいんだ」と言い出した。
聞いてみると、「恥ずかしい」のは男子の小用のトイレのことらしい。さすがの私も男性トイレには入れないので、息子に頼んでトイレの写真を撮ってもらった。

日本の男性用小用トイレは、ひとつひとつ別々に便器が設置されていて敷居のある場合もあるが、こちらはもっと単純で、大きなステンレスの壁に向かって用を足す。もちろん敷居はない。
息子に言わせると、「隣の人がしているのが簡単に見えるし、勢いがいいと音が聞こえるだけでなく飛沫(しぶき)まで飛んでくる!」と。おまけに、隣の人 のオシッコが自分の前に流れてくることもあるから、「ちょっと汚い感じがする」。
もちろん近代的なホテルや空港は日本と同じだけれど、学校やショッピングセンターは新しい所でもこの方式。主人に聞くと、40年くらい前の日本の小学校 の「便所(!)」は、同じシステムだったとか。これから変わっていくのかなあ?

 

 

Sharon :(デイケアママ歴10年。子供大好き)
■コメント:"I think that because they have grown up with using the urinals they don’t have a problem with using them. I feel sorry for them though having to wee in public like that. If I were a boy I would be very embarrassed."
(子供達は、この様式のトイレで育ってきたのだから、問題はないと思うわ。でも、パブリックの場所でこういうのはちょっとかわいそうだわ。私が男の子だったら、きっとイヤだと思うわ)

 

 

Dennis :(ジョーク好きの2児の父)
■ コメント: "I went to a restaurant once where the urinal was a clear glass window, so you can stand there and see straight out to the people sitting drinking. It was a very weird feeling. It’s good because you can look at the girls but they can’t see you. I have a big one. So no problem!"
(透明なガラス窓が便器になっているレストランに行ったことがあるよ。前に立つと外で飲んでいる人達が正面に見えるんだ。とても変な感じだった。向こうか らは見えないけど、前に女の子がいたりしてね。まあ、ボクのモノは大きいからノープロブレム!だけど)

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海の環境保護のために闘うEco Warrior

2009年03月10日

自分の一部。人生を変えてしまった
圧倒的な存在…
多くの命を育む
グレートバリアリーフを守りたい。

 

ジョン・ラムニーさん
環境保護活動家

 

ケアンズで輝く人〜ジョン・ラムニーさん

Profile

John Rumney じょん・らむにー
アメリカ出身。1974年、冒険を求めてオーストラリアに移住。グレートバリアリーフでの漁師生活を経て、海の保護活動を開始。海洋学の研究とツーリズムを融合したトリップを運営し、その収益を研究資金や環境保護活動に還元する。www.marineencounters.com.au/index.htm

 

  「人が少ない。壮大な大自然が残っている。ヘビがたくさんいる(笑)。それがオーストラリアに対する僕のイメージだった」と語るのは、ミスター・アドベンチャーGBRの異名をとるジョン・ラムニー氏。

 

 

ワニまで部屋で飼っていたという、根っから動物を愛する少年だった彼は、オーストラリアへの憧れが膨らみ、アメリカを飛び出す。

 

 

1974年から3年間キャンプをしながら各地を巡り、求めていた秘境にたどり着く。それがグレートバリアリーフだった。
当時は、船上に泊まりながらダイビングをする小さなボートと、グリーン島へ行くフェリーがあったのみ。そのフェリー代も$2.70の時代だった。

 

 

ジョンは自分で船を造り4年間を洋上で暮らす。漁師として生計をたてながら、空いている時間は妻のリンダさんと海中探検を重ねる日々。圧倒的な自然の姿に魅了された。

 

 

 

愛して止まない海に変化が見られるようになったのは、80年代の初めの頃だと言う。
その頃、政府の機関から調査依頼があり、ボートで海洋学者たちと寝食を共にした。彼等の海に対する情熱に心を動かされ、「自分も海の破壊を食い止めるため何かをしたい。でも、調査を続けるには費用と機会が欠けている」と気づく。…この体験が、今後の人生をかけるライフワークへとつながっていくのだった。

 

 

その後アメリカを訪れたジョンは、海洋学関連団体をいくつか訪ね、自分と一緒にグレートバリアリーフで様々な研究を行ってはどうかと打診する。  
このアイディアは賛同を得たが、資金の問題にぶつかった。そう簡単にものごとは進まない。だが、自分の考え方はWin Winだと信じて疑わなかった。

 

 

 

打開策を見いだせないまま迎えた90年代半ば。ある生魚捕獲調査トリップに同乗した時のことだ。ボートには一般の観光客も乗っていて、ダイビングを楽しんでいた。その1人が「海上で学者の話を聞きながら様々な魚について学べる、こんな素晴らしい体験をしたことがない!」と感動し、調査元の水族館に20万USドルを寄付したのだ。

 

 

「自然とつながる体験をした人は、環境に興味を持って自発的に行動を起こすのでは?」とひらめく。そして、ダイブチャーターボートやVIP用の豪華船で、「海洋学の研究とツーリズムを融合」するというコンセプトを取り入れ、手応えを得ていった。

 

▲毎年グレートバリアリーフを訪れるミンククジラ。間近で見た多くの人に感動を与え、泣き出す人もいるほどだと言う。海洋学者によるクジラの様々な話を聞きながら、じっくりと出逢いを味わうツアーも催行。

 

 

時期を同じくして、アンディ・ダンスタンという海洋学者との出会いがあり、同じ目的に向かって意見交換をするように。
ポートダグラスを拠点とするローアイルス・プリザベーション・ソサイエティという環境保護団体を仲間とともに立ち上げたのもこの頃だ。(クリントン前米大統領に、リーフと環境のスピーチを捧げたのも、会長だった彼のアイディア)

 

 
▲ドキュメンタリー番組も各国で放映されており、今まで多くのクルーにグレートバリアリーフの素晴らしさを紹介してきた。

 

 

 

2人は次第に、ツアーで得た収益を環境保護に回すには、常に出航できる研究設備を備えた船が必要だと感じ始める。彼等には「お金を生むこと」よりも「違いを生むこと」が大切だという共通認識があった。
ジョンは、安定した豪華船のスキッパーの職を捨て、アンダーシーという船を買い取り、全てを賭けることを決意。後にアンディも、それまでの職を離れてこの船に全てを捧げた。

 



▲間近に海の生物を観察し、彼等の生態について海洋学者の説明が聞ける、今までになかったトリップが大反響。

 

 

その後、運営上の様々な変化が襲ったが、「多くの学者たちがデータを持ち寄り、お互いに情報交換しながらエコシステムの理解に努める」という大きな目標はまったくぶれていない。

トリップでの成果をもとに、漁業、政府の機関、WWF、政治家と様々な団体に問題を提起し、時には歩みを揃えながら、サステイナブルな環境づくりを目指して精力的に活動を続けている。
実際、ジョンの働きかけで、グリートバリアリーフでの漁業認定ゾーンが設けられたり、少しづつ行政も動き出した。

 

▲生態に謎の多いサメ。傷づけないように尻尾を捕まえ、体内にチップを入れて定期的に回遊場所などを計測する。こうした研究費を捻出するために行う「サメと泳ぐダイブ」トリップは大きな反響を呼んでいる。

 

収益は環境保護や研究に回すため「いつでも貧乏だよ」と笑うジョン。
「グレートバリアリーフに遊びに来ただけの自分が大きなテーマに気づかされ、そこからクリエーションが始まった。リーフの保護に関してほんの少しは変化をもたらせたと思う。10年以上かかってるけどね。自分のことはEco Warrior(環境のために闘う戦士)だと思ってる」

 

 

そう語る彼の瞳は、冒険好きな少年そのままの輝きを放つ。
仕事と思ったら続かない。彼を突き動かしたのは、海、そして生き物への強い畏敬の念に他ならないだろう。

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木曜島へ真珠を採るためにやってきた日本人たち -その2-

2007年09月10日

木曜島にての一こま。ジャパニーズ・スポーツフェスティバルとある。1894年には日本人クラブの建物が建てられ、当時多くの会合やイベントが開かれた。

 

 真珠産業が盛んだった木曜島に、まだ日本が貧困だった明治時代から、「億万長者になれる」と多くの日本人がやってきたことに前号で触れました。
ただ、一番稼ぎが良かったダイバーは、収入の良さに比例して事故もかなりあったと言います。船上の補助夫、テンダーと潜っているダイバーの連絡は、一本のロープのみでした。例えば一回ロープを引くと「上昇したい」、2回引くと「空気が足りない」、3回は「ホースがたるんでいる」、揺らしながら2回引くと「危険」など、21通りもの信号がありました。
体質的にダイバーに向かなかった人や、どうしても潜るのが怖かった人がテンダーになったそうですが、ダイバーの命綱を預かり、船長でもある責任は相当なものであったでしょう。
ダイバーによって一番怖かったのが潜水病です。15メートル以上の深海へ降りると水圧の変化で血液中から窒素ガスが出ようとし、全部抜けきらないうちに引き上げられると血液中で小さな泡になり、血行障害を引き起こして麻痺や死をもたらしました。
潜水病には3段階の症状があり、軽いものは手足の神経が異常をきたして激痛に襲われるもの、次はめまい、吐き気と手足腰の神経の異常で、ひどいときは足腰が立たないほどぐにゃぐにゃになったそうです。
一番危険だったのは、45メートル以上の海底で起こるパレライスという症状で、船上で血を吐いて苦しみ、死亡することも多くありました。この症状を見た人は、「腹から胸に血の玉が上がってくる」と言ったそうです。(大正7年に直井菊松という人がイギリス海軍軍医ムーメリが編み出したガントン療法を木曜島に伝え、潜水病の恐怖はなくなります。)
死と隣り合わせの危険な仕事にも関わらず、1897年(明治30年)頃は島の人口の3割が日本人で、中には数十隻の採貝船を保有し、1800人以上のダイバーを雇って年間10万円以上を稼ぐ「木曜島のキング」、佐藤虎次郎という富豪もいました。そんな状況をよく思わない白人経営者の働きかけで1898年に制定が改訂され、採貝船の所有資格は英国人もしくは帰化人に限られてしまいます。
ただし、素晴らしい働き手である日本人は白人経営者も手放しがたく、移民制限法が制定されても密航者が後を絶ちませんでした。密航は、一ヶ月近くも船の体一つ入る程度の場所に居続けることがあり、島に着いてからも誰にも見つからないように肌を焼いて島の人のようにみせかけたりと、苦労が伴うものだったようです。
1920年代まで好調だった真珠採取ですが、1931年の世界恐慌で市場が一気に衰退。この時多くの日本人が解雇されました。そして1941年に太平洋戦争が始まると、オーストラリア政府は日本人を全員逮捕。
司馬遼太郎氏の「木曜島の夜会」によると、「豪州政府は(中略)軍艦を派遣してきて、日本人三百人を虜囚にし、小さな汽船の船底に押し込めた。暑いころで、船底に風が来ず、たちまち病人が続出した。豪州政府は木曜島の日本人を人間として見る余裕がなかったのか、豚よりもひどいあつかいだった」とあります。
戦後、オーストラリア人と結婚している人を除き、ほとんどの日本人が矯正送還されました。この頃になるとプラスチックが出回り始め、高価な天然ボタンの需要はほとんどなくなり、木曜島の真珠産業は次第に衰退の途を辿ったのです。

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■その7「便利な優れもの、ビートルーツ・ホルダー」

2007年09月05日

 

▲里芋みたい?

 
 

▲タッパーウェアの特許だって!

 

 鮮やかな赤が魅力のビートルーツ(赤かぶ)は、オージーの大好物。「リビングインケアンズ」の特集記事でも、マクドナルドやハングリージャックで、オージーマック、オージーバーガーと呼ばれているものには、必ずこれが入っていると書いてあった。
野菜売場で手に取ると、皮は茶色で形もコロンとしていて、まるでジャガイモ。中身があの様に真っ赤とは、とても想像できない。値段も高めなので、ほとんどのオージーは缶詰を買っている。

 このビートルーツは、乾くとおいしくないので、そのままマリネード(液に浸しておく)しておく必要がある。そこでこのビートルーツホルダーの登場である。
 取っ手を持ち上げると、必要な分だけ中身を取り出せ、下に戻すと、また液の中へ。乾燥する心配がないので、とても便利。その他にオリーブ、ピクルスなどを入れておくのにも最適。

オージーが普段何気なく使っているこんな道具などからも、食生活の違いを知ることができる。時間が許せば台所用品売場を覗いてみるのも面白いかも? きっと「何これ?」と思うものが見つかるはず…。

 

 

Doug :(愛鳥家のやさしいおじいさん)
■コメント:"I think that it’s a great invention. We use it a lot at our house."
(これは素晴らしい発明品だよ。ボクの家でもしょっちゅう使っているよ)

 

 

Arja:
■ コメント:"It’s great because you don’t get beetroot juice all over the place when you take some out, unlike a tin where you spill it everywhere. "
(これを使えば、マリネを取り出すときも汁がこぼれなくて済むから最高よ。缶詰と違って液を無駄にすることもないし)

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■その2「オージー・キッズのお弁当はウサギなみ?」

2007年09月05日

 

▲健康的だけど・・・

 

こちらのお弁当は日本と比べると実にシンプル。大きなランチボックスに、例えばサンドイッチ、フルーツ、野菜、ビスケットなど、そのままポンと入れるだけ。手をかけたものはほとんどない。

私から言えば「手抜き」としか思えないが、今では我が家の子供たちも、パッと食べられるオージー流にすっかり慣れた(慣れてもらった?)。
親としては好都合で、お弁当のために早起きする必要もない。たまに子供たちから「明日は、日本風のお弁当にして!」と言われると、「どうしよう、大変…」と思うほど。

子供達が「こっちの子って、ウサギみたいなんだよ」と言うので、オージーの友達のお弁当を見せてもらった。なんと、皮もむいてないにんじん、セロリ、 ピーマン、キャベツなどが、丸ごと入っていて、そのままポリポリ食べている。しかも、塩もドレッシングもない。
またある子は、ツナ、ベークトビーンズ、スパゲティーなどを、缶からそのまま食べている(キャット・フードのCMを思い出してしまったのは、私だけ?)。

果たして味は?と気になり、女の子がよく食べているというスパゲティー缶を試してみた。おいしくな〜い。麺がのびきって異常にやわらかく、味には何の工夫もない。
日本のお母さんだったら、お弁当に缶詰をそのまま持たせるなんて罪悪感にさいなまれそう。でも、給食があるわけではないのでお弁当は毎日の事。確かにお 母さんたちは負担かもしれない。改めて、温かくておいしい日本の給食に感謝。

 

 

Edna :(近所のやさしいおばあちゃん。私のAustralian mother)
■コメント:"My children used to eat celery with a peanut butter spread as a snack. I think it’s good for children’s health to eat raw vegetables without putting salt or dressing on them. "
(私の子供たちは、おやつにピーナッツバターをつけたセロリを食べてたわ。塩やドレッシングをつけないで生野菜を食べるのは、子供たちの健康にはとっても良いことだと思うわ)

 

 

Sherri :(小学校の先生。2児の母)
■ コメント:"I think nowadays the quality of tinned foods is much higher and its also convenient because once they are finished they simply throw it away. It’s also very good for parents because they don’t have to worry about the child bringing the container home as well as washing it up. "
(最近の缶詰は質も良くなったし便利だと思うわ。だって食事が終わったら、そのまま捨てれば良いのだから。親にとっても、子供が弁当箱を持って帰ったか気にすることもないし、それを洗う手間もないから最高よ)

 
 

▲おいしいの?

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■その3「これってあり?スプーンが埋もれたゼリー」

2007年09月05日

 

▲スプーン・イン・ゼリー発見!

 

 ゼリーの中にスプーンが埋もれて売っているのをスーパーで発見。日本ではありえない。コンビニでも、スプーンやお箸はちゃんと別にくれるもの。ゼリーに埋もれたスプーンは使えるのか?食べ始める前に指がべちゃべちゃしたりして。

試してみた。少し頭が出ているスプーンを引き出すと、手が汚れることもなく簡単に取り出せた。確かに、スプーンをいちいち袋から取り出す手間もなく便 利、とも考えられるけれど、これって几帳面な日本人には理解しがたい発想かも・・・。日本での常識は、国によっては通用しないということを、たった一個の ゼリーから学んだ私。

 

 

Jose :
■コメント:"Do you think Australians are weird? It’s a great idea so why not?"
(オーストラリア人は変ってる、って言うの? 良いアイデアじゃない、何がいけないの?)

 

 

Dorota :(日本に4年間滞在した経験がある親日家)
■コメント:"I think the idea of the spoon in the jelly is a bit messy. Japanese people are more careful about the food. "
(ゼリーに埋もれたスプーンは少し汚い感じがするわ。日本人は食べ物に関してはもっと気にするわよね)

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ケアンズの大自然の素晴らしさを多くの人に伝えたい

2008年10月27日

ケアンズの大自然の素晴らしさを
1人でも多くの人に伝えたい。

 

太田 祐さん
バードウォッチング講師・ガイド

 

ケアンズで輝く人〜太田裕さん

Profile

太田祐 おおた・ゆう
1979年8月22日 名古屋生まれ。2000年3月に大学を休学してワーキングホリデーで渡豪。現在は株式会社ワイバード(日本唯一のバードウォッチング専門の旅行会社)専属講師。CAIRNS BIRDING(ケアンズ野鳥の会)、FNQ WILDLIFE RESCUE(野生動物保護&リハビリ団体)、BIRDS AUSTRALIA(オーストラリア鳥学会)所属。”ジェイさんの楽しい日本語ツアー”でもガイドとして活動

 

 

 「ケアンズの自然の魅力〜いかに恵まれた土地を与えられているかを、多くの方に気づいてもらいたい。」そんな熱い想いを持つ、バードウォッチング専門ガイド、太田さんにお会いした。

 

「ケアンズから日帰り圏内で
約400種類の鳥を見られます」

静かな佇まい。ケアンズの大自然の一部になりながら、樹々や動物たちを見詰める姿が目に浮かぶ。

 

 

 「釣りや山歩きなど、年齢や環境とともに興味の対象は変わったけれど、小さい時から自然は大好きでしたね。母の影響で日本でもバードウォッチングはしていました」という太田さん。
大学生の時、NHKで小人ペンギンのドキュメンタリーを見て、人が住んでいる場所にペンギンがいるなんて!と惹かれたのがオーストラリアに来たきっかけ。

 

何となくやってきたケアンズだったが、周りにたくさんの鳥がいるので自然と夢中に。 
わからない鳥がいたら、写真を撮り、図鑑で調べることを繰り返した。

 

「2年くらい前は、1年のうちに300日以上は森の中にいたと思います。今も休みの日は家にはいません。ドライブに出ます」
6kgのフィールドスコープや、自分の持ち物の中で一番高い(!)というカメラをかついで鳥を探す。

 

ケアンズで輝く人〜太田さん

「砂漠や寒い場所など、様々な環境を持つオーストラリア全体で800種類近い鳥がいると言われていますが、ケアンズの日帰り圏内では、その半分近い400種類を見ることができるんです。ものすごい濃さですよね」
日本とは違う鳥が多く、例えば日本では絶滅危惧種と呼ばれるミサゴが市内のヨットハーバーのポールにたくさん止まっていたり。5日間あれば200種類は見つけられるという。「日本だったらそれだけの鳥を見るのに5年くらい、かかるかもしれません」

 

 

時間、季節、更に風向きなどで見られる鳥も変わってしまう。再現性の低いバードウォチングのガイドとしては、どんな時間に光がここから射して、どんな鳥がやって来る…といった、鳥における自分なりの地図を持っている必要がある。
「たくさんの種類を見たい方、いい写真を撮りたい方、とお客さんの要望も様々なので、自分の中で全部の情報をつなげておくには、しょっちゅう色んな場所を訪れておく必要があるんです。

 

 

でも熱病のようなものかな(笑)。この自然の楽園に住んでいる事が誇りだし、趣味でもあり、仕事でもあり、生き甲斐でもあります。」

 

 

「自分の活動が、動物達の愛らしさや環境問題を知るきっかけになれれば」

太田さんは、空いている時間には、野生動物レスキューというボランティア活動も行っている。

 

 

市民の人から連絡が入ると、傷ついた動物を取りに行って応急処置をしたり、看病したり。「もらってきた卵から雛がかえったり、動物とのドラマにはしょっちゅう感動してます」

 

 

夜中だろうが、休日だろうが容赦なくかかってくる電話に快く応じるのは全てボランティアのスタッフ。
「皆、好きで集まっているんですね。それだけ生き物を意識する機会が多いのでしょう。でも黙っていてもこれだけ多くの人が動いているのはすごいことです。日本で同じような活動を行っているボランティア団体の方も、ケアンズの人々の意識の高さを羨んでいました」

 

 

他に、大学の動物の研究の手伝いに出かけることも。先日は、絶滅したと思われていたモモンガ種が見つかったという逸話を聞いて捕獲。レーダーをつけて分布などを追跡調査した。夕方に400kmも離れたタウンズビルに向かう運転も苦にならず。

 

 

また、最近は同じく大学の研究の手伝いで、キュランダへ向かうハイウェイで、動物の交通事故を減らすために、テスト用のフェンスを何種類も作って脱出させてみるという実験をしたとか。

 

 

ケアンズで輝く人〜太田さん

 

「文明生活の中にいながら自然やかわいい動物達を大事にして行きたいという、極論すれば矛盾した事をしています。
聖人でも運動家でも何でもないので、せめて自分の目に留まる範囲の傷ついた動物達を助け、自分の活動が動物達の愛らしさや、環境問題を知ってもらうきっかけになれればこれ以上の事はありません。
これだけ、仕事として趣味として楽しませてくれる自然へのせめてもの恩返しです。」

 

 

 

 

「生き物の不思議を知ったら新しい楽しみが増えるはず」

ケアンズは本当に特別な場所、と言う太田さん。
「動物が好きで、マダガスカルやアマゾンへ行こうと思う人が多いようですが、準備も費用も覚悟も必要ですよね。でも、ケアンズもそれらの土地に決して劣らないレベルです。苦労しなくても近くに奥の深い自然がある、本当に珍しい環境を持った町だと思います」

 

 

ケアンズで輝く人〜太田さんのウェブサイト太田さんが運営するウェブサイト"ケアンズEye! "。

自然や野生動物の美しい写真と情報満載。

エコツーリズムという言葉が市民権を得た今だからこそ、ケアンズの大自然の魅力を打ち出して行きたいという夢が彼にはある。
「いかに恵まれた土地かということを1人でも多くの人に気づいてもらいたい。例えばエスプラネードを歩いているだけでも、色々な動物に出会えます。薄いガイドブックでも持って、これは◯○だと楽しんでみては?」

 

 

中には、1万キロ離れたシベリアから、はるばるケアンズまで飛んでくる渡り鳥もいるとか。
「人間の体では考えられない。GPSもなしにそれだけの距離を飛んでくるんですから。まさに神業です。経験のない若い渡り鳥は力尽きて途中で落ちてしまったり…。
無事到着して、でも涙が出るくらい羽がボロボロになった鳥をエスプラネードで見かけたりすると、よく来たね〜としばらく話しかけてしまいます。
どんな旅を終えて来たんだろうと想像するだけでワクワクします。

 

 

本当に彼等は混じりっけなし、ですね。無駄がない。人間と違ってちょっと油断したら死が待ってますから。」
そんな動物たちの真剣に生きる姿を知るにつけ、地球は人間だけに与えられたものでないということ、なるべくお互い迷惑にならないようにしなければ、と思うのだそうだ。
「せっかくこんなに良い条件の所に滞在しているのだから、周りの自然や動物に目を向けてほしいですね。アリでも何でもいい。生き物の不思議を知ったら新しい楽しみが増えるはず。
一人一人が、恵まれた環境にいるのだという意識を今より少しでも高めれば、それは大きなうねりとなって節々へ届いていくはずです」

  
 
 

「知らなかった〜」の連続でした。身近にありすぎて、興味も感謝も薄れがちだった自然や動物への見方が一気に変わるほどの衝撃!私たちって、スペシャルな場所に住まわせてもらっているんですね。そう思うと、自然とどうやったらこの環境を保護していけるんだろうという方へも意識が及んで…。太田さんの知識、存在はすごく貴重だと、今まで隠れキャラ(?)だった彼にお願いしてインタビューに応じていただいたのでした。次号からは、ケアンズの自然の神秘を紹介していただくコラムも開始。乞うご期待です! Keiko

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