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ココナッツビーチ

2010年06月02日

ココナッツビーチには足跡一つ無く、人間の痕跡が何一つ無い景色が、視線の届く限り広がっています。

  

 

以前、「個」の範囲について書きましたが、ここ最近、話の流れが、個の認識を一度問い直すという方向性になっていますので、この流れに沿って、もう少し掘り下げて、ケアンズで、どのようにそれを経験できるのかを考えてみたいと思います。

  

発達心理学の分野では、「私」という自我が成立するのには、母子のケアが必要とされています。

つまり、乳房が口についたり離れたりしているうちに、どうも乳房と「私」は性質が違うのではないかということに気付きます。

そして、それがもう一段階すすむと、「私」と母親という、原初的他者の認識が生まれます。

最終的に、宇宙から分離された一つの個体である「私」が認識されるわけです。

  

これが、恐らくは「オッカムの剃刀(ケチの原則)」。

つまり、生活する社会や文化の中では、脳が何かを認識するのに最も苦労を必要としない方法であるがために、問い直すことをしない限り、一生にわたり、「私」と「対象」という認識を持ち続けるのでしょう。

  

ところが、普段の生活環境とは全く異なる、ココナッツビーチのような視線の届く限り人工物が存在しない、広大な自然の中に入ると、他者と認識している対象が、何も存在しないという不思議な感覚に包まれます。

これは、他者の痕跡に囲まれている都会で、一人で部屋にいるときの孤独とは異なり、なにか永遠に自由な「私」だけになったような錯覚を引き起こします。

おそらく、空想ではなく、実際的な体験として、他者の認識がエポケーされるのでしょう。

その結果、他者の相対として認識されている「私」もエポケーされるのかもしれません。

  

「私」と自然が一体にでもなったかのようで、スピノザの理論のように、自然を含めた世界そのものが神であり、そうならば、「私」も神の一部だという汎神論にひたるのもよいでしょう。(これはメタフィジクスなのであまり深く考えないでください。)

そして、何か救われる気がします。

  

ココナッツビーチで、一度この感覚を経験して何かに気付くと、「私」と信じている「私」は、実はもっと色々な形態に変化したり、成長したりすることができる存在ではないか。

「私」を誕生したときにまでリセットし、私でいることもできるし、私から少しづつ離れて、自由になることもできるのかもしれないという発想が生まれるような気がします。

  

追記

以前、松本先生がエッセイの中で、第二次世界大戦中に米国軍が恐れたのは、日本人の他人のために死ねる精神だと書かれていたのを思い出しました。私はパックス・アメリカーナの影響を受けた文化の中で育ち、個人の尊重や自由を楽しみ、それにとても感謝しています。その上で、日本の風土は、個の殻を破る力を与えてくれているのかもしれません。松本先生のエッセイからは、いろいろなことを勉強させていただき、また気付かせていただきました。この場を借りて、お礼申し上げます。ありがとうございました。

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プロフィール

ymitsuiymitsui
三井 康利。 1972年静岡県生まれ。 1997年北里大学医学部卒。 内科医。 現代西洋医学と補完代替医療、思想・哲学の良い点を取り入れ、ホリスティック(全人間的)な視点から医療を考察・提案。 臨床医として日常診療に役立てている。 資格:日本内科学会認定医、日本補完代替医療学会学識医、日本温泉気候物理医学会温泉療法医、日本旅行医学会認定医、日本消化器病学会専門医、日本消化器内視鏡学会専門医。
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