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エッセー

ポートダグラス

2007年09月10日

1.スズをポートダグラスに運び込む運送人/1890年

2.1910年のマクロッサンストリート。今は目抜き通りとして栄えるこの道も当時は寂しげでした

3.サトウキビの道路の輸送を反対するポスター/1958年。モスマンで採れた砂糖は、ポートダグラスの港から積み出されていたのですが、この頃車での輸送の需要が高まっていました。「港が使用されなくなると、ゴーストタウンになってしまう」という反対ポスターです

4.ハーバートンに向けてポートダグラスにあったColleys Hotelを出発する荷馬車/1887年

5.埠頭から見たポートダグラスの町並み/1933年 

 

 今ではビーチリゾートとして、観光客で賑わうポートダグラス。
歴史を振り返ると、ケアンズと競ってきた町なのです。
そもそもは1870年代に、クリスティ・パーマストンという探検家が、Hodgkinsonの金鉱から海岸線に向けて続くトラック(道)として、ポートダグラスを発見したのが始まりです。(内陸で採れた金を港から輸送する必要があったため)
そのすぐ後、荷物の運搬人、鉱夫、開拓者や船などがポートダグラスに移ってきました。
ケアンズが公式に認定された15ヶ月後の1877年12月1日、入港地として宣誓。クイーンズランドの州首相ダグラス氏にちなんで、町はポートダグラスと名付けられました。
港の人気が高まり、多くの政府の役人がケアンズから移ってきました。
同じく町としてケアンズと競っていたスミスフィールドは、1878〜1881年の洪水やサイクロンで全滅しています。
1880年代、ポートダグラスは内陸の鉱山業の煽りを受けて栄え、物資をとぎれなく港から積み入れたり積み出していました。
この頃の人口は8000人に達し、1879年までには町中にホテルが20軒以上もあったと言います。
港としての人気を奪われたケアンズですが、その頃、サトウキビ産業が栄え始め、少しづつ活気が戻り始めていました。
当時のサトウキビプランテーションの農園主や会社は、ケアンズ地区かそれ以南の地区に興味を持っており、イニスフェイル(当時はジェラルドトンと呼ばれた)という新しい町ができたほどの勢いだったのです。ただし、同じ頃、ポートダグラスの北にあるモスマンに新たなサトウキビ農園が造られつつありました。
金鉱からの物資輸送、港、サトウキビ …更に1880年代には、ケアンズとポートダグラスは、鉄道の権利についても争いました。 どちらもアサートン高原のハーバトンから伸びる鉄道を敷きたかったのです。
この争いは結局ケアンズが勝ち、その後ポートダグラスの人口は減っていきました。1900年代中頃の人口はたったの100人だったと言われます。
ポートダグラスは、静かな時を経て、1960年以降は観光で注目され始め、次第に今のような町になっていったのでした。

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