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之定異聞 Vol.92
2009年05月11日
首にはロープが付いていた。
日本人、それも軍人のようだ。
垂れ下がったままの死体を下側から見上げるように写し、大きく引き伸ばしてある。
ヒデエ写真だぜ、と思った。
パービス氏は何かの写真を私に見せたかったに違いない。
ところがこの死体の写真が偶然に、私の目に飛び込んで来た。
氏は眉一つ動かさず、さりげなく古びたアルバムのページを閉じた。
日本人の私には、見せたくない写真であることがそれでも感じられた。
ジャパニーズのカタナが出たンだけど、見たいかエ、という電話は、チャンネル10のインタビュアー、グレイム。
10年近く働いた木曜島の真珠会社を思い切って退職し、ケインズに下って空手道場を開いたのが34年前。
道場を軌道に乗せるのに2年以上かかった頃、あるテレビ番組に出演。その時グレイムと知り合った。
大東亜戦争の末期、インドネシア領バリ島の日本軍が降伏したとき、その調印式はデンパサールで行われた。
豪軍側の責任者が空軍幕憭長のパービス氏。
その彼が何と、ケインズのEdgeHillに住んでいた。
降伏の証しとして日本軍司令が差し出した彼の佩刀をパービス氏が保存していたのだ。
たまたま他の番組で彼を取材したグレイムがその刀を発見。
私に連絡してきた、という訳だ。
30余年前のケインズ。人口6万。
信号機わずかに2基。
ビール1カートン9ドル。
クリフトンビーチの最初の分譲地の値段、1区画2千ドル。
そんな時代だった。
戦後30年、日本人に対する偏見もまだ根強く残っていたものだ。
パービス氏は60代半ば。
私に見せるために用意していたのだろう。
厚く古びたアルバムが出してあった。
氏自体、日本人の死体の写真等忘れていたに違いない。
さもないとあらかじめその写真のページを隠しておいたはずだ。
今思うと、あの死体の写真は日本軍兵士、それも将校だ。
敗戦で自らの命を断ったのか、捕虜として絞首刑になったのか、今となっては判りようもない。
その夜、パービス氏の軍刀をジックリと調べてみた。
と言っても当時の私、日本刀に関する知識は皆無だった。
軍刀はパービス氏の好意で借用出来たのだ。
柄にある目釘を抜くと柄はゾロリと外れ、錆びた中心が出る。
刀工は満足のゆく作品に仕上がると、中心に自身の銘を切る。
なるほど、銘が見える。
サテ、なんと読むのだろう。濃州開住魚 作、と読めるけれど、意味が判らない。
ウ冠の中が之の時に切ってある文字は、定のくずしだろうか。
私がラッキーだったのは、私の身近に日本でもトップレベルの刀剣鑑定家がいたことだ。
私の妻の妹の亭主。
当時、刀剣と歴史、という雑誌の編集長だった。
そのころはファックス等という便利なものはなかった。
美濃の関に住む古刀期(1600年以前の作)の兼定ではないか、という義弟からの返事が届いたのは、しばらくたってからである。
なる程、濃州は美濃の略。
開と見たのは、関。
兼の字を極端にくずすと、魚という字に近くなる。
ウ冠の中を之の字に切るのは、兼定二代目の特徴で、俗に、之定、として知られる名刀だと言う。
だからこそ偽物も多いがネ、と付け加えてあった。
新選組の土方歳三が探し求めた刀が、この之定である。
確かに現存する彼の佩刀は兼定だが、これは四代目兼定が仙台に移住して鍛刀し、君主から和泉守兼定という刀工名を拝領した後の一振り。
歳三はそのことを知っていたのだろうか。
次にまた義弟からの便り。
コリャ魂消た。
義弟が厚生省の知人に無理を言って調べてもらい、日本軍降伏時のバリ島司令官の名前が判明。
その司令官が何と、大阪で小児科の開業医として存命だった。
そこまで判明したらする事は一つ。
パービス氏に事情を説明し、その刀を譲り受けて持ち主に返してやろう、と思った。
氏の返事は簡潔明瞭だった。
日本人には売らぬ。
その言葉、私の魂にまでカチンと響いた。
ヨシ、ソンなら豪州中にある日本刀を集めてヤる、と思った。
豪州にある日本刀は大半が大東亜戦争の戦場からの戦利品。
他は戦後日本へ進駐した者達がミヤゲとして持ち帰った物だ。
日本刀は日本の歴史に密着して千年。
日本が世界に誇る事が出来る最古の歴史的文化遺産だ。
専門的には関ヶ原の戦いの1600年以前の作を古刀、幕末への序章となる文化文政期の1804年までを新刀、1868年の明治維新までが新々刀、明治以降現在までを現代刀、と分類する。
道場の門弟達に依頼する、古物屋、アンティーク店を探す。新聞に広告を出す。
それだけでも何とか薄皮をはぐように、ポロリ、ポロリと戦場の臭いがするような刀が出てくる。
一振りごとに日本の義弟に詳細を送り、鑑定を依頼した。
日本刀の知識が皆無の私でも、少しずつ塵が積もるように刀を見る目が肥えてきた。
と同時に私の日本歴史に対する理解度の貧しさも身につまされてきた。
特に現代史、大東亜戦争は当時からわずか30余年前の出来事なのに、学校では臭い物に蓋式の教育で、日本は侵略国家であるという自虐史観でウヤムヤにされただけだった。
刀はニューギニア、ラバウル、ソロモン、ブーゲンビル、ボルネオ等々様々な戦場から集められていた。
その戦史も知らねばならなかった。
日本史と大東亜戦史は、刀という文化遺産を理解する上での必須条件になった。
そして当然の結果、戦前までの日本の歴史と価値観が180度変えられた、戦後の東京裁判に付き当たる。
判かり易く言えば、喧嘩両成敗が徳川幕府の条理であったように、国を上げての戦争には、その国なりの言い分がある。
それでもお互いに殺し合いをやっているのだ。
米軍も豪州軍も十分に戦争犯罪として裁かれるべき残虐な行為を日本軍に又日本一般市民に行っている。
それらも何も一切を引っくるめて日本が悪かったからだ、と判決を定め、日本を侵略国家と決めつけて戦勝国の汚点をも日本に背負わせたのが東京裁判だった。
加えてこの裁判は国際機関が承認した正式の裁判ではなかった。
勝てば官軍なのだ。
日清日露戦争から大東亜戦争までの現代史を正確にひもとくと、誰もが現在の左翼主義歴史教育と全く反対の、この結論に辿り着く。
私にとって全く当たり前の常識的論理だと思った自衛隊田母神幕憭長の論文。
そんな文に日本は大騒ぎ。
おまけに政府は田母神氏を罷免し、彼の年金さえも取り上げた、と聞いた。
アホか、と言うより暗澹たる気持になる。
東京裁判の一方的判決をソックリそのまま受け継いだ日本の左翼教育。
国家破壊教育論者のように私には見える。
又アンザックDAYがやってきた。政府の人気取りタダ金に慣れすぎて、全く本気で働こうとしない人間の多い豪州。
労働党とユニオン、グリーニーの癒着は、中小企業経営者に様々な難問を提起しないかと心配である。
そんな豪州でも第一次大戦中に豪州が出兵したトルコのガリポリの慰霊祭に集った豪州人、なんと7500人。
豪州各地では国のために死んだ兵士達の慰霊行事が盛んに行われている。
自国を侵略国と決めつけ、国のために死んだ若者たちを顧みようともしない私の母国日本。
この日は唯一、豪州という国がうらやましい。
パービス夫人から之定を譲るという連絡があったのは10年程も前。
最初にこの刀を見てから20年の歳月が流れていた。
早速連絡を付け、刀を再び見せてもらったら、なんと一目で偽銘の之定と鑑定出来た。
私の目も良くなっていた訳だ。その事実を正直に夫人に説明し、それでもかなりの金額を申し出たが、夫人からの連絡は戻ってこなかった。
もしかしたら夫人は、私が値段を落とすために偽銘の話をした、と取ったのではないか。
この偽銘之定は私の心にしこりを残す一振りになった。
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