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悲劇のパンドラ号 〜その1〜

2007年09月10日

HMS Pandora号。船長35m、516トン。1790年11月7日、タヒチの反乱軍を捕らえるためにイギリスを発った。

 

 グレートバリアリーフ外れの海底の砂中深くから、200年以上前に沈んだ英国軍艦パンドラ号が発見されたのをご存知でしょうか。
1792年8月29日、暗礁で猛烈な嵐に遭遇し、艦長以下、乗員126名を乗せたまま座礁した悲劇の船…。
発見当時、海洋考古学者やダイバーたちは、望遠鏡や銃の弾丸、皿類、海中時計などの遺品、そして人骨に目を見張ったと言います。(パンドラ号については、タウンズビルにあるMuseum of Tropical Queenslandに当時の船の再現や遺品など、詳しい展示があるので、興味がある方は訪ねてみて下さい)
そのパンドラ号を語るには、戦艦バウンディ号の反乱者たちの物語に触れないわけにはいきません。
 
今まで5回も映画化されているバウンティ号の反乱。メル・ギブソンとアンソニー・ホプキンスが主演した1984年の豪州映画「バウンティー」が記憶に新しいところです。
そもそもバウンティー号は、タヒチからパンの木の実(Breadtree)を積んで、英国領カリブに運ぶという使命で、英国を出航しました。1787年12月のことです。
英国政府は、植物学者ジョーゼフが発見したパンの木の実をカリブで育てることを考慮したのです。(彼は、20年前にキャプテン・クックの最初の航海に参加してタヒチに行ったことがあり、この植物を加熱するとパン生地のようになることを知っていました)
当時アメリカの革命によって、ニューヨークとフィラデルフィアの港から小麦粉の積み出しが出来なくなっており、カリブ海の農園の奴隷が食料に窮していたためです。
クックとの遠征後に貴族に叙されたサー・ジョーゼフは、カリブの大農園の所有者であり、科学アカデミーの会長でもあり、そしてバウンティ号遠征の主催者でもありました。 バウンティ号は、キャプテン・クックのエンデバー号より小さい215トンで、植物を運ぶ装備を備えるために6ヶ月もかかって改装されました。船内は狭く、船長だけに個室の船室があり、将校にはありませんでした。
この船のキャプテンに任命されたブライ中尉は、ジェームス・クックの3度目の航海にも同行した経験豊かな航海者でした。
 副官にはフレッチャー・クリスチャンが任命されました。2人はすでに何回かの航海をいっしょにした仲で、ブライの性格は短気、対してクリスチャンは乗組員に親切だったと言います。   
バウンティー号は南米のホーン岬を越えてタヒチに行き、パンの木の実を積んでカリブ海まで西へと航海する予定でしたが、ホーン岬で激しい嵐に遭遇したため、アフリカと南オーストラリアを経由する長い航路を選びました。
10ヶ月の長い航海を経て、タヒチ島に到着したのは1788年10月26日のことでした。
  タヒチでは、パンの木の実を集めるために半年間滞在する必要があり、その間船員たちは、辛い航海とは対照的なタヒチの生活を楽しみました。船員の多くはタヒチの女性と付き合い、副官のクリスチャンでさえ、タヒチ風の刺青を入れたほど現地に馴染んでいきます。
一方で、ブライ・キャプテンは船員の風紀を律するため、彼のやり方に反対する船員たちを鞭打ったりして屈辱を与えました。
のんびりしたタヒチでの暮らしへの憧れと、ますます厳しくなるキャプテンによる規律が反乱の引き金となっていきます。
そして、再び狭い船室のバウンティー号に乗り、タヒチを出発する日がやってきました。積み込んだ植物のため、水の配給が制限されたり、ブライ・キャプテンがますます権威を振るう中、船内は緊張が高まっていき、バウンティー号がタヒチを出航して24日後、ついに反乱が起こります…。

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