▲日本から自由にお買い物!
人気&オススメブログ
ケアンズの注目キーワード
2004年3-4月号・其の61 人、を残したか
2007年09月05日
何でェ、しばらく会わネェ内に、頑固そうな顔になったじゃないか。心の中でつぶやいた。口をへの字に結んでいるから、そう見えたのかも知れぬ。
バーニーよ、もうおっつけ38年にもなるナァ。お互い知らぬ間に、年をとったものヨ。
私が日豪合弁の南洋真珠養殖会社の技術員として採用され、豪州最北端の木曜島分場に赴任したのが1966年。当時、木曜島の人口約3千人。今度採用され たジャパニーズは、カラテのブラックベルトだそうだ、という噂は狭い島内にすぐに広まり、カラテという東洋の武術を見た事がない島民の事、アレコレと期待 していたそうだ。
養殖場は隣島の金曜島にあり、日本人宿舎もあったので、二つの島の間は目と鼻の先の距離と言っても、木曜島に行けるのは週末に限られていた。
この時代は木曜島の真珠産業の最盛期で、島の産業は真珠一色。六社の日本企業の技術員だけでも、60名を超えていた。週末には皆、パブのある木曜島に集まってくる。
空手クラスはまずこれら日本人に依頼され、会社の事務所の一部を使用し、20名程でスタートした。
ところが当時の日本人、マージャンと飲む方が忙しく、週一回の稽古をしよっちゅうサボる。私も若かったので、人を担ぎ出しておきながら何たる無礼、と怒って止めてしまった。
空手クラブを本格的に組織したのは、その一年後の事。一時帰国した時に結婚し、妻帯赴任。会社は木曜島にフラットを捜してくれ、金曜島の養殖場には毎朝小舟で通勤した。
きっかけは子供達。ある日、何もないガランとした私のフラットに、数人の子供達が訪ねてきた。空手を教えて下さい、と言う。子供の頼み、イヤダとは言えぬ。
その時の子供の一人、ケイ。今はケインズの学校の先生で、最近彼女の高校生の息子を入門させて来た。当時9才のケイと知って、ビックリ。
子供達でスタートした空手クラブは、アッという間に多人数になった。道場は教会の厚意でホールを借用。入門無料。その代わり、ビシビシと厳しい指導をした。
この頃入門した一人がバーニーである。トーレスストレート、アイランダー。稽古はエラク熱心だった。この男、妙な癖がある。
「センセイ、センセイは私が黒人だから、道場であまり話をしてくれないのでしょう」飲むとカラんで来る。
一般のアイランダーには良い人間が沢山いるが、皆飲むと駄目。ほとんどがグデグデになるまで飲み、からみ、喧嘩をする。まァ喧嘩は飲んだ時の彼等のスポーツのようなもので、私もよく楽しんだ。
バーニーは賢い男だった。それだけに黒人である事へのコンプレックスが大きかったのだと思う。だからこそそれが原動力となり、空手の稽古も身を入れたのだろう。
島では9年半働き、退社した。空手の夢がふくらみ、プロの道場に人生を懸けたくなったからだ。木曜島の道場は私の育てた有段者の連中が継続し、その後15年余続いた。
バーニーは大学に入って文化人類学を専攻、博士号まで達する。アイランダーの文化紹介のアンバサダーとして、豪州国内はもとより、米国、ヨーロッパ諸国等々にも派遣されるまでになった。プロフェッサー、バーニーである。
私達はドクター、バーニーと呼称した。このドクター、私に会うといつもキチンと立って、ペコッと礼をする。何を言っても、オス、オスと返事するのが、オシ、オシと聞こえる。黒い目をキロキロさせ、よくしゃべった。
最後に彼に会ったのは、もう10年位前になるかナァ。島へ帰った時、私の育てた弟子達が集まって、ビールを飲んだ事がある。皆、島の中心人物的な存在に成長しているのが嬉しい。
バーニーの頑固そうな顔は、まったく生きているように見える。心なしか胸も上下しているようだ。それでもソッと顔に触れると、もう人間の温かみは残っていなかった。
私はバーニーが死去するまで知らなかったが、心臓麻痺でケインズの病院に運ばれていたそうだ。
「バーニーが病院へ送られる少し前、町中で会いましたヨ。私の顔を見ると、今でも必ずオシ、オシと挨拶して、一緒に稽古していた頃と同じですヨ。必ずセンセイの事が話題になりますネェ」
バーニーの死を知らせて来た島の弟子のトニー、そう言って寂しそうにクックッと笑った。遺体は島へ運ばれ、島を上げての葬儀になるそうだ。幸い私はその前に、ケインズで最後の対面が出来た。
「センセ、バーニーのお棺は私達空手クラブの連中が、稽古着姿で担いでやりたい、と思っていますがいいでしょうか」
現在ではウォータータクシー会社を経営する髪の毛も白くなったトニー。
私が島を去る前に入門し、ホンの少しの間しか指導しなかったのに、彼の態度は今でも稽古を続けている弟子だ。私が島へ行くと、必ず彼のウォータータクシーで送り迎えしてくれる。頭が下がる。
LIVING IN CAIRNSの私の駄文を読んで、私に色々として下さる方が九州の肥後におられる。私は勉強という事をまったくしないので、自分の思った事しか書けない。 その方のお便りからは、彼の勉強の深さが感じられ、同じ年代なのにその差を思い知らされる。
その方が、明治の元老、後藤新平の言葉を送って下さった。
——『金を残す人生は下、事業を残す人生は中、人を残す人生こそが上なり』——。
私はこの年になっても、金は残せなかった。ましてや残す事業等ない。空手で多くの人達を指導してきたけれど、それがすぐに人を残す事にはつながるとは思えない。
しかし、と考えた。バーニーは空手の稽古があったからこそ、その自信が黒人というコンプレックスを越えさせた。トニーは若い時、しょっちゅう牢に入れられていた暴れん坊だった。それが素晴らしい人間になった。
道場には何ともしょうのない、やんちゃな甘やかされたガキ共が次々と入門してくる。大半は、止める。それでも残った子供達は、知らぬ間に子供らしい良いガキになる。もしかしたら、私は少しでも、人、を残しているのかも知れない。
バーニーのお棺の中に、私の使っていた黒帯を入れた。俺より若エくせに、先に行きやがっテ。まァその内、俺も行くからナ。
この男と会って38年か。色んな事があったナァ、と考えていたら、急に涙がボタボタと落ちた。バーニーよ、俺の涙も持って行け。
このコメント欄の RSS フィード コメントはまだありません »
コメントはまだありません。
コメントをどうぞ
トラックバックURI:
http://www.livingincairns.com.au/%e3%82%a8%e3%83%83%e3%82%bb%e3%83%bc/2004%e5%b9%b43-4%e6%9c%88%e5%8f%b7%e3%83%bb%e5%85%b6%e3%81%ae61%e3%80%80%e4%ba%ba%e3%80%81%e3%82%92%e6%ae%8b%e3%81%97%e3%81%9f%e3%81%8b/trackback/