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エッセー

2005年7-8月号・其の69 手縫いの刀袋

2007年09月05日

私のジャパニーズのオフィサー。捕虜の中で唯一、何とか英語の分かる男でノー。名前は…イヤ…何とか言ったナァ」

ドクターは遠い目付きをした。
「イヤネ、その士官、負傷兵じゃったから、軍医の私が手当をしたヨ。つい前日まで戦っていた相手じゃのに、何やら知らぬ間に、仲良くなってしまってノー」

懐かしげに、ドクターはシャガシャガと枯れた笑い声をたてた。その当時、英語が何とか分かる士官だった、と言うから、多分学徒出陣の見習い士官のように思う。

シリル、スウェイン。戦後からつい数年前まで、ケインズで一番長期間、開業医を務めた人。地元の人々の人望も厚く、私は彼を、ドクター、と敬称してい た。第二次戦中は終戦まで、軍医としてボルネオで任務に就く。終戦になってすぐ、負傷兵と共に帰国する。捕虜の日本軍士官、泣いて別れを惜しみ、彼の軍刀 を差し出して謝意を表したという。ドクターの人柄が見える。

武装解除の捕虜に、自分の佩刀が自由になるのかどうか、私には知識がない。しかし私はそのような刀を三振り入手した事があるので、士官にはある程度の自 由が与えられていたのかも知れない。「生きていればノー、私と同じ位の年になっとるはずじゃがノー」

ドクターの息子のジャスティンを私の道場に入門させたのは、記録を見ると、1987年の1月。もうおっつけ19年前になるから、まったく早いものだ。

年をとってからの子供。余程大事に育てたのだろう。温室育ちで何とも気が弱い。その上根気も集中力もまったくない。相手をすると、女の子にガンガン押しまくられる。だのにその割には結構ジャラジャラする。

このタイプのガキが出始めたのが、丁度この頃から。今ではこのタイプでないと、ガキではない、と思える程豪州の子供の質は低下してきた。時にキチンと言 う事を聞く、以前ではまったく普通であったガキが入ってくると、周りが悪いので、コリャ天才じゃないか、と思ってしまう。

ドクターはいつも、道場の入口でキチッと両足を揃え、礼をして入ってきた。稽古が終わるまで黙ってジャスティンの稽古振りを眺めている物静かな人だっ た。私もこの頃は血の気が多かったので、ジャスティンにはドクターの目の前で、ビシビシとハッパをかけた。

ドクターは何も言わなかったけれど、来るたびに怒られている息子を見るのは、辛い事だったろう。その弱虫のジャスティンも3年後には、ドクター共々道場第一回の日本遠征チームに加わるほどに成長する。

この頃は私の道場の盛期で、毎日3クラス、150〜200人を一人で指導していたので、親や生徒とユックリ話す機会は、ほとんど無かった。

ドクターとユックリ個人的に話が出来たのは、日本遠征の時が初めて、と言って良い。ドクター、本当に真面目な人だ。心もあたたかい。その上やるべき事は、黙々と頑張り通す強い意志力もある。見事な人生を送ってきた人だろう。

ジャスティンが大学に入学する前、だったと思う。私は趣味で居合も指導していたので、日本刀に興味のある門弟を招待し、私の蔵刀を公開した事があった。20名程参加。

ところがドクター、一人でやって来た。片手に汚れた細長い袋に入った物を下げている。ゆるやかな反りと鍔元の膨らみから、一目で刀と分かった。私はドク ターが日本刀を持っているとはまったく知らなかったので、誰かに頼まれて私に鑑せに来たのだ、と思った。

「貴方には息子共々、お世話になりっ放しでノー。何をお礼したらいいのやら、考えとりましたのじゃ。今夜センセイの刀の鑑賞会、と聞いたので、コリャいいチャンスじゃと思いましてノー」

言いながら、その汚い袋を差し出した。
エッ?その意味が、ピンと来なかった。

「日本軍の士官から貰ったこの刀。同じ日本人のセンセイに持ってもらったら、刀も喜びますじゃろうテ」

ジャスティンが道場を去って以来、ドクターと会う機会はパタッと止まった。ドクターが彼のクリニックで働いているのは、当然知ってはいた。何回か会っ た。数年前、足を滑らせて転倒、肩を骨折し、退職されたと聞いたのは、ドクターがケインズを去った後だった。

「チョイト、あの写真、見てごらんヨ」

昨年の12月の事。私の門弟だった医者に会いに行った時だ。妻の指差す大きな掲示板の片隅に、一枚の写真が見える。何と、にこやかに笑っているドクター 夫婦の写真。すぐに受付の女性に聞くと、時々地元の患者から、今でもドクターの消息を尋ねられる事があるという。
だからネ、この前会った時、写真を撮ってきたんだヨ。掲示板に張っておくと、皆が見てくれるもンネ、と彼女。

ドクターは何処かと聞くと、ジョージタウン。ケインズから西へ入って400キロ。その昔ゴールドラッシュで栄えた町だ。そう言えばドクターの妻君、その 町の病院の婦長だった。定期的にケインズに帰ってきていた時に会った事がある。骨折以来体調をくずし、現在車椅子の毎日らしい。

そうか、ジョージタウンか。20年も前に訪ねた事がある。赤茶けた、小さな田舎町だった。

ローンヒルへ行こう、と言い出したのは私の親友のボブ。58才。30年の交わりだ。貸倉庫業のビジネスで、今乗りに乗っている。キレ者。私が死んだ時、灰を拾ってもらいたい、と思う人間の一人。

ローンヒルはケインズからTOP ENDとの州境に向かって千キロ。原野の中の国立公園だ。4WDとキャンプ生活の世界。赤い原野に澄んだ青空が見えてきた。イイナァ、行くゾ。ナンノ、 10日もかければいいだろう。途中、ジョージタウンも通過する。ドクターにも会える。

煮染めたようなドクターの軍刀の袋。日本軍士官から送られた後、適当な布がないので、包帯を使用し、傷口を縫合する針と糸で、ゴツゴツと自分で作った物 だそうだ。道理で袋の錆色の染みは、血痕ではないかと思っていた。袋に入れた刀を負傷兵のベッドのマットレスの下に隠し、検閲をパスして持ち込んだ、と 言っていた。

戦後50年、刀はそのまま、ドクターの家で眠っていた。取り出すと、まったく当時のままの姿。刀身にはビッタリとグリスが塗ってあったので、拭うと錆一 つない。こんな新品同様の軍刀、数多く見てきたが、初めてだ。良い刀袋に入れるとはえるのだが、若いドクターが一針ごとに自分で作った袋。変えられず、今 もそのまま使っている。
 

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