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木曜島へ真珠を採るためにやってきた日本人たち 〜その1〜
2007年09月10日
1.真珠採取船 (Luggerと呼ばれていた)は、1883年(明治16年)には木曜島に200隻以上あった。写真は、日本人所有の大黒丸
2.仕事を終えた潜水夫。酸素ボンベがなかった当時、ホースでつながれたダイバーのヘルメットに船上からポンプを使って空気を送った。1913年に自動ポンプが開発されるまでは手動だったので、空気が途絶えるという事故が起きたり、スクリューでホースが切断されてしまうこともあった。潜水服だけでも、水中で浮力をつけても40kgの重さがあったと言う
3.木曜島に残る日本人の写真
4.真珠採取船の船上の様子。大きな白蝶貝が山積みにされている。ダイバーに空気を送ったり(手回し送風機と呼ばれる)、真珠貝から真珠を取り出す作業を経験しないと、ダイバーやテンダー(命綱持ち)にはなれなかった。
木曜島という島をご存じでしょうか?ケアンズから北北西に793kmにある面積3㎢ほどの小島です。ここに、明治中頃より多くの日本人が真珠産業のために渡ります。
1869年に、ナマコの漁場を探していたバナーという人が原住民の真珠細工を見て、真珠採取を閃いたのが木曜島での真珠産業の始まりと言われます。
採れたのは主に白蝶貝で、大きいものは20cm以上、殻が厚く中側が光沢のある銀白色で、洋服の高級ボタンなどに用いられました。中には、真珠玉を含むものがあり、貴重な副産物でした。
最初はマレー人、現地住人などが貝を採る潜水夫(ダイバー)を勤めましたが、1879年(明治12年)頃から日本人の出稼ぎが増えていきます。日本人には「精力と成功への強い衝動、および賃金を得たいという熱望」が見られる、という報告もあり、白人経営者は競って日本人ダイバーを集めました。
1882年は、和歌山県出身の中山奇流という人が卓越した潜水技術で名を上げ、自らの出身地和歌山から後継者を呼び寄せたので、ダイバーは和歌山県出身者の独壇場となります。
1883年になると、豪州真珠会社支配人ミラーが日本政府と交渉し、横浜の潜水業者を通じて、初の正規契約労働者として37人を団体移民させました。
当時の契約は「3年契約、労働時間は日の出より日没まで。日曜、祭日、悪天候日は休業。支度料30円貸与、病気の際は入院無料、往復船賃雇い主負担」というものでした。
潜水夫という仕事は、潜水病、窒息、鮫の奇襲など、死と隣り合わせであっても、人々を惹きつけて止まなかったようです。『木曜島の夜会』という小説を書いた司馬遼太郎氏は、この理由を「金への執着」と説明しています。
なにしろ、貝を採るダイバーは、当時小学校教員の年収が100〜130円、農民の賃金が15〜20円の時代に、約1200円、命綱を預かるテンダーという職の人でも350円の収入があったと言われ、かなりの高賃金だったのです。
1897年の段階では、木曜島の真珠関係者1500人のうち、900人は日本人で、日本人所有の採取船も30隻を超えていました。(次号に続く
検索していて偶然たどり着きました。私の祖父も曾祖父も木曜島帰りです、もう亡くなってしまいましたが、木曜島に曾祖父の弟さんの墓があるそうで、いつかは墓参りにいきたいと思っています。地元の図書館の郷土資料室などの資料を調べていて解ったのですが、司馬遼太郎氏の小説に書かれていた「金への執着」や「ダイバーが死んだら船上のものはダイバーの服をはぎ取り、競って潜ろうとした」というような話は正確ではないと思います。
当時、日本の他の地方の農村からのハワイやブラジルなどへの移民と違い、この木曜島への移民(というより出稼ぎ)は一種独特のものがあると調べているうちに解ってきました。
耕地面積のほとんどない西牟婁東牟婁地方では、農民と呼ぶべきほどの民はほとんど無く。普通の日本人よりも、狩猟民族的な「一発当ててやろう」という気質であったというところに、「真珠貝採取時に稀に出る天然真珠を得て大金持ちになった」とか、中でも当時の人々を豪州へ憧れを抱かされた逸話は木曜島に出稼ぎに行っていた3人の若者が、共同で買った豪州の富くじに当たってしまい、大金持ちになって帰って来た話はとても興味をそそります。
とはいえ、明治になって現金での納税に迫られ、否応無く巻き込まれる貨幣経済に翻弄され、現金を稼ぐ方法を模索してたところに上記のような話が漏れ伝わったことが大きいという気もします。