日本から自由にお買い物!


ケアンズの注目キーワード

売ります・買いますなどケアンズの掲示板

エッセー

Page 2 of 212

2005年1-2月号・其の66 心の襞(ひだ)

2007年09月05日

家の下側はスコンと落ちた、子供心にも石コロだらけのかなりの急坂になっていた。その坂道を前かがみになって十間も上がると、数段の階段があったように思う。タンタンと階段を踏み、畑の中を突っ切ってグルリと回り込むと、家の入口である広い土間が見えた。

ある時私はその坂道で、上って来る一人のホイト(方言で乞食を意味する)に出会った。男、だったと記憶している。ボロ布を身にまとい着けたそのホイト は、小さかった私の目に、まるで寄せ集めた木の葉を巣の回りに張り付けた、大きな蓑虫のようになった。

坂を上りきった所に小さなお堂があり、そこから広い桑畑の向こうに、神社の本殿があった。ホイトはその夜の宿を、神社の何処かに求めているのに違いなかった。

なぜかその夜の夕食は炊き込み御飯だった事を覚えている。終戦直後の事だ。食料の乏しかった頃だが、母の里である田舎に疎開していたせいだろう。そんなにひもじい思いをした記憶はない。

私はキット、そのホイトの事を母に話したに違いない。母は夕食の御飯をお椀に盛ったか、握り飯にでもしたのだろう。私の手を引いて家を出た。遠いと感じた神社の境内は暗く、人気のないのが恐かった。ホイトの姿はなかった。

坂道を上った所にあるお堂かも知れない、と母を促したのは、私だったような気がする。
案の定、ホイトはそこにいた。

あの食糧難の時代に、母の持参した炊きたての御飯は、何とも有り難い贈り物であったに違いない。ホイトは地面に座り込み、手を合わせて母を伏し拝んだ。 私にはその時の母が何とも誇らしく、母の行為がキラキラと輝いて見えた。私は多分四歳かそこらのガキだったと思う。これが私の最初の母の記憶になった。

昨年、日本へ行った。沖縄戦で散華した薩摩の知覧特攻隊の跡を訪ね、郷里の松山へ入った。松山にはいつも数日余りしかいず、母とユックリ話をする間もな い位だが、母は私の顔を見るだけで、安心しているようだった。この折、ポッと疎開していた母の里、小倉の話になった。宇和県から汽車やバスに乗り、エラく 遠い山の中の里のように記憶していたが、今では高知に抜けるハイウェイにのると、松山から車で2時間足らずで行けるという。

坂道にあった疎開先の家、小さなお堂、母の里の本家と分家、最初の小学校、魚を追ったあの広い広見川。あの当時の小倉の村の光景は、まるで一枚の写真のように、私の脳裏に焼き付いていた。ソウカ、もうあの時から60年近くの歳月が流れたのか。

母の一族は佐竹、といった。小倉の村一帯の大地主で、母は名主の娘として戦後の農地改革で全てを無くすまで、何不自由なく暮らしていたようだ。一族の墓 は明治初年に建てられた本家を目の高さに見る小高い丘の上にあり、あの花は何と言う花なのだろう、ケシの花によく似た大柄の花が咲き乱れていた。広い墓 だった、と記憶しているが、60年ぶりに墓参したこの墓所は、こんなに狭かったのだろうか。墓所から見渡せた本家の建物は、まるで目と鼻の先のような距離 にあり、人手に渡ったその建物は、見る影もない程荒れはてていた。

疎開中に住んでいた家は、スッカリ建て変わっていたが、坂道はそのまま残っていた。なだらかな坂だった。上りきるとお堂がそのまま残っていた。驚いた事 に、神社はすぐその横にあった。子供の頃の距離感というものが、こんなにも大きな差があるものか、と記憶の線を辿りながら再確認した事だった。

60年近くも前、私の最初の母の記憶は、あのお堂からスタートした。私の脳裡には、表情は分からないけれど、あの時、キラキラと輝いていたような母の姿 がある。子供の記憶というものは、スゴいものだと思った。そして私の最初の母の記憶が、そんなにも素晴らしいものであった事を母に感謝する。
子供は親の背を見て育つ。これは本当だ。

ヤレヤレ、今年も何とか無事終わったか、と思った。12月11日、道場のクリスマスパーティ。200名が集まり、盛会だった。
今年の大人のクラスはまアまア、という状態だったが、子供は相当数入門し、それなりの数も脱落していった。

私の道場は来年30周年を迎える。30年も子供を見ていると、子供の質の変化がよく分かる。我がままで集中力が全く無い、線の細い子供が激増している。 こんな子供に空手の技術を指導するだけでなく、規律というものを教え込まねばならないから大変だ。豪州人の道場は子供を誉めまくって指導する。コリャ駄目 だ。能力のないくせに頭ばかりデカイ、糞生意気なガキに育つ反面、プレッシャーには弱い子供になる。

最近大人が子供を怒らなくなった。口で言うだけなら、物事の道理を理解する能力の未発達な子供が聞く訳がない。怒らなければならない時は、本気で怒らな くては駄目だ。道場という場所は、空手というものを楽しみ、汗を流すだけでなく、規律を教え、且つ悪いガキ共は、本気で怒ってやらねばならない所だと信じ ている。悪ガキの尻をヒッパタクのに親の目を気にしたり、止めてしまうのを心配していたら、本当の空手の指導は出来ない。

難しいのは空手の技術、規律のみならず、どうしたら情操面を発達させる事が出来るか、を最近よく考える。相手を殴る、蹴るだけでなく、いかにその技をコ ントロールできるか。上級者は下級の者を助け、面倒を見させる、等々は、確かに尊敬心を育て、且つ情操の発達にも影響を与えるはずだ。

その上に、いかに子供に感動を与えるかが大切になってくる。これには試合に出場させるのがいい。勝って喜ぶのも負けて悔しがるのもよし。その気持ちの積み重ねが大切なのだ。
子供の心に感動を与える対象は、何でもいい。出来るなら母なる自然の中で、季節ごとの花を賞で、空の青さ、星の美しさを悟り、吹く風の中に立たせるのが いい。親の感動はそのまま子供の心の中のヒダに残る。この心のヒダの数が、大人になった時の感受性、好奇心、人への思いやりという人間らしい生き方へとつ ながってくる。

ヤレヤレ、こんな糞難しい事を書くのは、面倒臭い、と思うけれど、人間誰しも年をとってくると、人間らしい生き方というのが分かってくる。分からない人 は、心の貧しい生き方をしてきた人だ。だからこそ私達の年代は、時には言いたいことを胸を張って言わねばならない。これが私達の年代の義務、又次の世代へ の思いやりになる。

60世年振りに母と小倉の村の小さなお堂を見た。もうホイトの出る世ではなくなった。母にその事を話すと「そんなこと、あったかエ?」ネッから覚えてい なかった。まア親というのは、そんなモンだ。サァー、二〇〇五年も頑張るぞ。去り行く二〇〇四年に乾杯!

関連記事

コメントを送る

2005年3-4月号・其の67 個性

2007年09月05日

女、卯の花色の管笠の下から、ぬめるような目をして私を見た。猿の子でもでも抱くように、右手に裸同然の赤ん坊をかかえている。言葉は通じなかった。ただ黙って、ガムの入った左手の小箱を、祈るような手付きで何度も私に差し出した。

どう見たって、あまり金を持っていそうもない外国人旅行者達の集まる路地は、私の宿から歩いて数分の距離にあった。ここでは普通の洋食を食わせてくれ た。この数日、米から作るフォー、というメン類等のベトナム人の朝食ばかり食べていた私には、その油っこい朝食は、エラク御馳走に思えた。

百万を優に超すというバイクによるスモッグのせいなのだろうか。一度も青空に会えなかったのに、その朝、ポッカリと、染みるような青空が顔を見せた。サイゴン。

薄汚れたような暗い食堂に座るのがモッタイなくて、ソーセージの入った大盛りスペシャルを注文すると、妻と二人で、路上にあったガタピシするテーブルに座り込んだ。

周囲には、様々な人種がいた。彼等を観察しているだけで、空想豊かになる。物売りも多い。驚くほどの重量を、天秤棒で軽々と運ぶ女達。自転車はもう、小型トラック並だ。一切の兵器類さえも自転車で移動した、ベトナム戦の自転車部隊の名残だろうか。
家にいたら、朝食にソーセージ等、食べることもないのだが、それが妙にウマかった。

そこに座ったわずか小半時の間。次々と物売りがやって来る。小金を持っている日本人は、アタックの対象になるようだ。私は全部、チャンと言葉に出して断 る。物売りと言えども同じ人間。白人達のように、まるでハエを追い払うような仕種は、私には出来ない。

これも又その昔、競ってアジアに植民地政策を押し進め、東洋人を奴隷のようにこき使った白人達のおごりの名残、かも知れない。

「すまネエナア。今、間に合ってるヨ。他に行ってくンナヨ」

少し前、ガキの物売りから、噛みもしないガムを買ったところだった。その女、年の頃は25、6かナ。腰を少しかがめ、私の顔を覗き込むようにして、何度もガムを差し出した。

要らぬ物は、買えぬ。断った。女、まだいる。ぬめるような目に、訴えるような表情がある。こんな目に弱いなア、と思いながら、母親に叱られたガキのように、うつむいて、ソーセージを食べ続けた。

諦めた女が、赤ん坊を揺すり上げながら私に背を向けた時、管笠の下から、流れ出すように垂れた、見事な黒髪が目に入った。ハッとする程、きれいな髪だった。

私の新婚当時、妻は実にきれいな黒髪をしていた。ブラッシングをすると、ツヤが良くなるのヨ、と言って、時間があると、小首をかしげるようにして、ブラシを動かしていたものだ。私も時々、動物が毛づくろいをするように、彼女の黒髪を梳いてやった。

そんな甘さは、もうトックの昔に消えてしまい、妻自身も、長い髪の似合わない年齢なのかも知れないけれど、日本人も含め、東洋人には黒髪がよく似合う、 という私の思いは、今も昔も変わってはいない。そんな事を考えながら、赤ん坊を抱えた女が、管笠の下の黒髪を揺すりながら、人込みの中に消えて行くのを見 送った。

ベトナム女性の民族服をアオザイという。最近では様々の色を使用しているらしいが、元来、白。女性は皆、腰までもある長い黒髪を、無造作に束ねただけのヘアースタイル。

その黒髪が、管笠の下から白いアオザイの背中に流れる様は、思わず見とれてしまう。もう、顔なんか、どうでもいいや、と思ってしまう。その国の風土の中 から、国民の体型に合わせ、環境と生活に適したように生まれてきた民族服。これ以上に美しく、強い個性はない。残念ながらアオザイも、ベトナム女性達か ら、少しづつ姿を消しつつあるそうだ。

洋装がファッショナブルで且つ機能的であるがゆえに、かえって本当の個性、を殺してしまうのに気が付かない。

私の空手道場には、たくさんのオージー達がやってくる。彼等の最初の空手着。まア感心する程、様にならぬ。空手着が体に合い、似合うようになる頃には、 もう有段者のレベルになっている。空手、という武術が少し分かりかけ、東洋の礼儀作法も抵抗なく受け入れ、道場では、黒帯。その内面から滲み出る自信が、 稽古着の何とか似合う雰囲気を創り上げる。

ところが日本人。まったくの初心者でも、空手着が一発で、様、になる。これはもう、着物という文化を発達させ、長年に渡って身に付けてきた民族の、血、 のようなものだ。これが日本人、という個性の源になる。茶髪に白い稽古着は、似合わない。何処かチグハグな感じがして、上滑りに見える。

個性というものは、自分の持ち味を知る事から芽生えてくる。その努力もせず、流行ばかり追う風潮の強い日本人社会だからこそ、没個性の民族、等という貧しい批評を受けてしまう。

外国に住むことは、自分を知り、又自分の国を見詰めなおす、実にいいチャンスを与えてくれる。その切っ掛けは、何処にでもコロがっている、という事だろう。私の道場にやって来て、空手をやってみるのも、イイヨ。

個性、というものに目覚めると、その人の人間性の豊かさ、につながる道が出来る。外国に住むからと言って、外国人になる必要は、まったくない。むしろ、 もっともっと、日本人になってもらいたい。そうなると、日本人として、胸をはって生きてゆける。外地に日本人、としての市民権を得るという事は、こういう 事だ。

ヤレヤレ、又、ジジ臭い事を書いてしまったゼ。

リビケンの編集者、KEIKOとは、10年前に我が家で会った。ケインズへ来る日本人の為に、役に立つ雑誌を発行したい、と言う。ソンナラ、俺の出来ることは協力するヨ、と約束して以来の付き合いだ。

彼女、一見無愛想。知ってくるのに、時間がかかる。以前は、私が親しそうに話しかけても、ナンダ、この糞ジジイ。そんな目付きで私を見ていた。
この最近よく話をするようになり、コロコロと笑うようになった。彼女は、私の言う、いい意味での日本人。私はそんな彼女の個性を気に入っている。ワイン でも飲みながら、取り留めのない話を、ノンビリとしたい、と思うのだが、オジンと合わすのは、シンドイよ。そんな目付きをされるかも知れない、と思うの で、言い出しかねている。何しろ、親子ほど、年が違う。

とにかく、10年間。KEIKO、よく頑張った。おめでとう。私の道場は今年で30周年。お互いのけじめに、乾杯。

関連記事

コメントを送る

2005年5-6月号・其の68 日本が貧しく見えた日

2007年09月05日

「ワタシ、オーストラリアに住むの、コミュニズムからのエスケイプ。コミュニストの国、ワタシ、もう沢山」

たどたどしい英語だった。言っている内に、彼女の目が、見る見る白くふくらむのを感じた時、私は柄にもなく戸惑った。他人に、簡単に言える言葉ではない。

私の横に座った中年の女性。中国人に見えた。挨拶すると、はにかむように会釈を返したその物腰から、中国人ではない、と思った。中国人は、もっとガラガラしている。サイゴンからのシンガポール便。

物思いに沈んでいるような物静かな女性で、シンガポール到着前の機内放送を聞くまで、話し合う切っ掛けが掴めなかった。現地時間の調整がよく聞き取れな かったようで、私が教えてやってから、さしさわりのない話をした。彼女、パースに10年も住んでいるそうだ。サイゴンに住む母親を訪ねての帰りらしい。

シンガポールに到着し、機がゲイトに向かって滑走している時だった。豪州はまア住みやすい国ですから、お母さんも呼んであげれば、と私はまったく無責任な発言をした。
その時、彼女、まっすぐに私を見て、「チチ、ベトナムで死んだ。ハハ、チチ死んだベトナム、離れられない。私、ベトナム逃げた。もう、住めない」

豪州に住む事は、彼女の本意ではなかった。母親の住む母国に心を残しながら、コミュニスト政権に耐えきれず、国を出てしまった彼女の悲しみが、フト見知らぬ他人の私に話している内に、突き上げてきたのだろう。

機はもう、止まっていた。大半の乗客は、下りてしまっていた。
私は聞きたかった。コミュニストが何をしたのか。切っ掛けは何だったのか。そんなに簡単にコミュニスト政権の国を捨てられるのか。矢継ぎ早に聞いた。彼 女、涙を溜めた目で私を見て、何か言いたげに口を動かしたが、「ゴメンナサイ、ワタシ、もう行かねば…」気持ちを決めたようにスラリと立ち上がった。機内 には、もう誰も残っていなかった。

この数年、中国が大きく台頭してきた。豪州の鉄鉱石輸入も、米国を抜いて第一位。中国製物産は、至る所に軒をつらね、品質を誇る日本製品も、コストの安い中国製品に、太刀打ち出来ない状態に追い込まれている。これは戦後の日本経済上昇期を上回る。

豪州とは、自由貿易調停の関係。豪州の目は、日本を離れて中国に熱く注がれている。ケインズが景気の良くなった中国人観光客に塗り潰される日も、そんな に遠くないかも知れない。将来アジアを牛耳るのは、資源と労働力の豊富な中国、と誰もが見るが、一つ問題がある。民が豊かになってくると、どうしても資本 主義が芽生えてくる。これがコミュニズムと、どう対処してゆくか。その内、中国で何かが起こりそうな気がする。

つい最近、中国で、日本ボイコットデモが勃発した、と聞いた。日本の学校教科書の、中国に関する記述が原因という。こんな事でいちゃもん付けてくる方も くる方だが、この背後には、病的な程、自分達の主義に固執する、コミュニストの仕掛人がいるはずだ。腰の弱い日本政府、アタフタした事だろう。それにして もまったく、舐められたものだ。

中国が常に日本を仮想敵国にした軍事教練や教育を行ってきたのは、周知の事実だ。「日本の足ばかり引っ張りやがって、手前ェ達の国の、日本に関する教育は、どうなってンだ」啖呵の一つでも切れる日本の政治家はいなかったのか。まったく、情けない。

日本の教育界にも、事あるごとに国旗や校歌に文句を言い、歴史教育から首相の靖国参拝に至るまで、病的なまでに反対する集団がある。日本の戦後は、百万 を超える同胞の大きな犠牲の上に築かれている。良いとか悪いとか、の問題ではない。日本人として、人間として、国の為に死ななければならなかった人達の魂 を、大切にしなければならないのは、当たり前の事だ。その国の国民が、彼等の国旗を素直に受け入れ、敬意を持って扱わねばならないのは、当然の事だ。

それを無理にこじらせ、何が何でも反対する集団の体質は、主義こそ違え、何かにつけて、戦後60年経った今でも、日本を敵対視するコミュニストの一部 と、同じ臭いのする人間達だ。この人達が何等かの形で力を持っている限り、その国の教育の、まともな成長は期待出来ない。

それにしても、今年の豪州のアンザックフィーバーはどうだ。90年を過ぎた今、トルコのガリポリ上陸作戦現場の慰霊祭に2万を超えるオージーが参加した。これは少し、異常な感じがする。

第二次戦中の日豪の一番の激戦地はニューギニアのココダトレイル。この戦いだけで、1万2千もの日本兵が死んだ。現在豪州に訪れる日本人で、ココダの地 名を知っている者が、何人いるだろう。そういう教育を、我々は受けて来た。ココダの戦闘は、昭和17年の9月10日。今年の9月になると、豪州のナショナ リズムは、また大きく動くのだろうか。

豪州人のイメージ。良く言えば、人がいい、個性がある、親切、ほがらか、等々。悪くとれば、無責任、大雑把、なまけ者、信用出来ない…まアこれは日本人も同じだ。

てんでバラバラ。個人主義の豪州人。しかし、この国民、もし何かが彼等の国に起こった時、異常な程、バッと集団になれる不思議な強さがある。これはまとまっているようで、まったく我関せず主義の強い日本人との、大きな相違に思える。

ガリポリフィーバーの背後にも、仕掛人がいるような気配がする。何の為に、とすぐに勘繰りたがる、日本人的野暮は、この際引っ込めよう。その国の為に犠牲になり、死んでいった人達を思い起こす余裕を持つ事は、大切な事と、素直に受け止めたい。

ガリポリ一色だったテレビ番組のドキュメントの最後のナレーション。…TO FIND PAST IS TO FIND YOURSELF… 心に染みる言葉だ。それを聞いた時、この言葉を堂々と言える豪州の風潮を羨ましくも感じ、同時に、自国の国旗や歴史教育、首相の靖国参拝等にとび上がって 反対する、日本の教育者集団や、事あるごとに過去をほじくり出して日本の足を引っ張るコミュニスト集団の一部が、何とも貧しく思えた事だった。

機内から風のように去った、彼女。空港内でもう一度会った。妻が走り寄って、彼女の肩を抱いた。一人だと思っていたが、何人かの連れがあった。そのまま別れた。

ケインズ便には、4時間以上の待ち時間があった。私は彼女が最後に言いかけた言葉が、気になって仕方なかった。ホンの短い間であったけれど、私は人間同志、心に触れた思いがした。

掲示を見ると、パース便はDウィングだった。私達はCウィング。それだけの縁だった、と思ったけれど、意味のない事かも知れないが、一言、オーイ、豪州でも頑張ってやりやんセ。私の気持を伝えてやりたかった。

「チョイと、店でも見てくらア」
妻を残して立ち上がった。空港は広かった。Dウィングは歩いて10分以上。捜しながら歩いていたとき、パース便の搭乗案内が流れて来た。一足、遅かった。

「彼女に会えたかエ」
心を残して戻って来ると、妻が聞いた。妻は、私が彼女に会いに出たのを感じていたのだろう。「インヤ」と答えて、私はそのまま妻の横に座り込んだ。

関連記事

コメントを送る

2005年7-8月号・其の69 手縫いの刀袋

2007年09月05日

私のジャパニーズのオフィサー。捕虜の中で唯一、何とか英語の分かる男でノー。名前は…イヤ…何とか言ったナァ」

ドクターは遠い目付きをした。
「イヤネ、その士官、負傷兵じゃったから、軍医の私が手当をしたヨ。つい前日まで戦っていた相手じゃのに、何やら知らぬ間に、仲良くなってしまってノー」

懐かしげに、ドクターはシャガシャガと枯れた笑い声をたてた。その当時、英語が何とか分かる士官だった、と言うから、多分学徒出陣の見習い士官のように思う。

シリル、スウェイン。戦後からつい数年前まで、ケインズで一番長期間、開業医を務めた人。地元の人々の人望も厚く、私は彼を、ドクター、と敬称してい た。第二次戦中は終戦まで、軍医としてボルネオで任務に就く。終戦になってすぐ、負傷兵と共に帰国する。捕虜の日本軍士官、泣いて別れを惜しみ、彼の軍刀 を差し出して謝意を表したという。ドクターの人柄が見える。

武装解除の捕虜に、自分の佩刀が自由になるのかどうか、私には知識がない。しかし私はそのような刀を三振り入手した事があるので、士官にはある程度の自 由が与えられていたのかも知れない。「生きていればノー、私と同じ位の年になっとるはずじゃがノー」

ドクターの息子のジャスティンを私の道場に入門させたのは、記録を見ると、1987年の1月。もうおっつけ19年前になるから、まったく早いものだ。

年をとってからの子供。余程大事に育てたのだろう。温室育ちで何とも気が弱い。その上根気も集中力もまったくない。相手をすると、女の子にガンガン押しまくられる。だのにその割には結構ジャラジャラする。

このタイプのガキが出始めたのが、丁度この頃から。今ではこのタイプでないと、ガキではない、と思える程豪州の子供の質は低下してきた。時にキチンと言 う事を聞く、以前ではまったく普通であったガキが入ってくると、周りが悪いので、コリャ天才じゃないか、と思ってしまう。

ドクターはいつも、道場の入口でキチッと両足を揃え、礼をして入ってきた。稽古が終わるまで黙ってジャスティンの稽古振りを眺めている物静かな人だっ た。私もこの頃は血の気が多かったので、ジャスティンにはドクターの目の前で、ビシビシとハッパをかけた。

ドクターは何も言わなかったけれど、来るたびに怒られている息子を見るのは、辛い事だったろう。その弱虫のジャスティンも3年後には、ドクター共々道場第一回の日本遠征チームに加わるほどに成長する。

この頃は私の道場の盛期で、毎日3クラス、150〜200人を一人で指導していたので、親や生徒とユックリ話す機会は、ほとんど無かった。

ドクターとユックリ個人的に話が出来たのは、日本遠征の時が初めて、と言って良い。ドクター、本当に真面目な人だ。心もあたたかい。その上やるべき事は、黙々と頑張り通す強い意志力もある。見事な人生を送ってきた人だろう。

ジャスティンが大学に入学する前、だったと思う。私は趣味で居合も指導していたので、日本刀に興味のある門弟を招待し、私の蔵刀を公開した事があった。20名程参加。

ところがドクター、一人でやって来た。片手に汚れた細長い袋に入った物を下げている。ゆるやかな反りと鍔元の膨らみから、一目で刀と分かった。私はドク ターが日本刀を持っているとはまったく知らなかったので、誰かに頼まれて私に鑑せに来たのだ、と思った。

「貴方には息子共々、お世話になりっ放しでノー。何をお礼したらいいのやら、考えとりましたのじゃ。今夜センセイの刀の鑑賞会、と聞いたので、コリャいいチャンスじゃと思いましてノー」

言いながら、その汚い袋を差し出した。
エッ?その意味が、ピンと来なかった。

「日本軍の士官から貰ったこの刀。同じ日本人のセンセイに持ってもらったら、刀も喜びますじゃろうテ」

ジャスティンが道場を去って以来、ドクターと会う機会はパタッと止まった。ドクターが彼のクリニックで働いているのは、当然知ってはいた。何回か会っ た。数年前、足を滑らせて転倒、肩を骨折し、退職されたと聞いたのは、ドクターがケインズを去った後だった。

「チョイト、あの写真、見てごらんヨ」

昨年の12月の事。私の門弟だった医者に会いに行った時だ。妻の指差す大きな掲示板の片隅に、一枚の写真が見える。何と、にこやかに笑っているドクター 夫婦の写真。すぐに受付の女性に聞くと、時々地元の患者から、今でもドクターの消息を尋ねられる事があるという。
だからネ、この前会った時、写真を撮ってきたんだヨ。掲示板に張っておくと、皆が見てくれるもンネ、と彼女。

ドクターは何処かと聞くと、ジョージタウン。ケインズから西へ入って400キロ。その昔ゴールドラッシュで栄えた町だ。そう言えばドクターの妻君、その 町の病院の婦長だった。定期的にケインズに帰ってきていた時に会った事がある。骨折以来体調をくずし、現在車椅子の毎日らしい。

そうか、ジョージタウンか。20年も前に訪ねた事がある。赤茶けた、小さな田舎町だった。

ローンヒルへ行こう、と言い出したのは私の親友のボブ。58才。30年の交わりだ。貸倉庫業のビジネスで、今乗りに乗っている。キレ者。私が死んだ時、灰を拾ってもらいたい、と思う人間の一人。

ローンヒルはケインズからTOP ENDとの州境に向かって千キロ。原野の中の国立公園だ。4WDとキャンプ生活の世界。赤い原野に澄んだ青空が見えてきた。イイナァ、行くゾ。ナンノ、 10日もかければいいだろう。途中、ジョージタウンも通過する。ドクターにも会える。

煮染めたようなドクターの軍刀の袋。日本軍士官から送られた後、適当な布がないので、包帯を使用し、傷口を縫合する針と糸で、ゴツゴツと自分で作った物 だそうだ。道理で袋の錆色の染みは、血痕ではないかと思っていた。袋に入れた刀を負傷兵のベッドのマットレスの下に隠し、検閲をパスして持ち込んだ、と 言っていた。

戦後50年、刀はそのまま、ドクターの家で眠っていた。取り出すと、まったく当時のままの姿。刀身にはビッタリとグリスが塗ってあったので、拭うと錆一 つない。こんな新品同様の軍刀、数多く見てきたが、初めてだ。良い刀袋に入れるとはえるのだが、若いドクターが一針ごとに自分で作った袋。変えられず、今 もそのまま使っている。
 

関連記事

コメントを送る

2005年9-10月号・其の70 道場童子(ワラシ)

2007年09月05日

レッグカールのマシーンの上に、うつぶせになり、足首をウェイトに掛けた。背後が見えぬ。背中が何やら膚寒い。気のせいだゼ。自分に言い聞かせた。

私の道場は中二階になっていて、そこに簡単なジムの設備が置いてある。広さはまアまアだがあまり使用していず、片隅はむしろ物置になっている。窓を開けるまで、昼間でも薄暗い。

稽古中、立ち方を落としたり強く踏み込むと、膝に痛みがある。左手はガキの頃、折った。今でもくの字に曲がったままで、洗顔は右手でしか出来ない。そのままガンガン稽古に使ってきたので、無理が出てきたのかも知れない。

左肘が痛い。右腕は居合の稽古で重い真剣を振るので、筋を痛めた。体自体はまったく元気。まア五十年も稽古に耐えてきた手足の事。有難いと思いこそすれ、不満の言える筋合いではない。

痛みがあれば、その箇所を鍛え直せば良い。医者に行っても、薬を飲まされ、稽古を止めろと言われるのがオチだ。道場のジムで、シンプルなウェイトトレーニングを定期的にやった方がいい。

「ヒッパタいても大丈夫。ビシビシやって下さい。体だけは丈夫に育ててありますから」母親のティーナが言うのも無理はない。コントロール出来ないエネルギーの固まりのようなガキを連れて来た。

とにかく手がかかる。稽古に来るたびに、怒鳴りつけぬ時は一度もない。それでも聞かぬと、尻をヒッパタく。ところがこの子供、何が楽しいのか、一度も稽古を休んだ事がない。まアそれはティーナがしっかりしていたせいもある。

彼女、英名だが日本人。私の娘ほどの年頃。しっかりした性格で、なかなかたくましく生きている。ところが彼女、あまり人込みの中に入るのを好まぬ。頭がひどく痛くなる時があるそうだ。

「イエネ、私は人一倍、霊感を感じる体質なんですヨ」

エッ? ピンと来なかった。人が多いと、各々の人間についている霊が、一斉に彼女に被ってくる時もあり、それで頭痛がするらしい。不思議とは思ったものの、今一つ、実感がなかった。

「道場に来ていた子供で、事故か何かで死亡した子はいませんか」

彼女が私に問うたのは、もう数ヶ月も前になる。「何でだエ?」質問の意味がよく分からぬ。

「アノネ、時々道場の二階に子供がいるンですヨ。白い稽古着で。あの手摺りから体を乗り出すようにして、よく稽古を見てますヨ」

コリャナント、気色の悪い事を言う。私は道場の二階を見上げ、ティーナの顔を見た。冗談や嘘ッパチを言っている顔ではない。彼女の身内は霊媒師だったと 言うし、彼女のみならず稽古に来ている彼女の子供にもその霊感は受け継がれ、二階に出現する子供が見えると言う。ヤレヤレ、何ともエラいものが道場に住み 着いたものだ、と最初は思った。

座敷童子、という子供の幽霊がある。東北地方が現在のように開発される前、旧家によく出たそうだ。多くは十二、三才の子供。床の間を背にしてジッと立っていたり、暗い廊下をスーッと歩いていたりする。

ある家では、人のいぬ座敷でガサガサと紙の音がする。襖を開けると、誰もいない。気のせいだったのかと、襖を閉めると、今度はしきりに鼻をすすり上げる音がする。それで、アー、座敷童子が来ていたのか、と思ったのだそうだ。

日本の故事から考えると、日本の子供というものは、むしろ大人に福をもたらす者として位置付けられている。例えば竹取物語のかぐや姫。一寸法師。桃から 生まれた桃太郎等々。彼等が座敷童子と結び付く、という訳ではないと思うけれど、東北の童子は家の守り神。童子の出た家は、お社等を建てて童子を祭り、出 来るだけ長く居着いてもらうよう、大切にしたと言う。

幽霊に取り付かれて喜ぶという事は、まず西洋の話にはない。これは日本民族の子供に対する考え方として、注目に価する特異な存在だと思う。豪州にもし童 子が出たら、豪州人は結構雑な点が多いので、待遇が悪い、と豪州の得意技、ストライキを起こすかも知れぬナア。

ティーナと彼女の子供にしか見えない子供の霊の話を聞いた時、正直言って、あまりいい気持はしなかった。道場に一人で自主トレに出かけても、薄暗い二階に上がって行くのに、こだわりがある。

レッグカールの機械の上にうつぶせになると、背中が寒い。気のせいだゼ、と分かってはいるものの、もしかしたら何処からか、その子供が私を見つめているかも知れない、と考えてしまう。ナント、だらしのない事ヨ。

私はこの子供を道場童子、と名付けた。道場に行く時は、妻に、童子に会って来るゼ。二階に上がると、オス。童子に挨拶していたが、ティーナに言わせる と、無視しなさい。取り合わない方がいい、と言う。それにしてもなぜ、私の道場に童子が出るのだろう。

「多分ネ、稽古を続けたくても何かの理由で中断してしまった、先生を好きな子供がいたンですヨ。その子が事故か病気かで亡くなった。その子供の思いが、時々道場に戻ってくるンじゃないでしょうか」

童子は時々しか道場に戻って来ない。それも子供のクラスに限られる。大人のクラスで見た事は、一度もないそうだ。

それにしても、あの世に行ってからも道場に戻ってきてくれるとは、有難い。大切にしてやりたいとは思うものの、霊は霊、無視しなさい、と言われているの で、何も出来ない。もし童子が大人だったら、自主トレの後、ビールの一杯も一緒に飲んでやるのだが、と馬鹿な事を思ったりする。

ティーナの子供が入門したのが、三年前。その頃から童子はいたのかエ、と聞くと、ハイ。東北の座敷童子は、福と栄えを運んで来る。道場童子が出現して三年。いい子供達や信頼出来るメンバーは、着実に増えて来た。

日本人生徒はまだ二十五名。倍にはしたい。日本との良いコンタクトも増え、今年はケインズにオーストラリア、オープンの国際大会も持って来れた。来年は日本、スイス、モスコーにも行きたい。

私の道場は今年で三十周年。ぼつぼつ手を抜こうと考えていたが、とてもじゃないが、そんな段階ではなくなった。これも童子の御陰かも知れぬ。拳客商売、まだ止められぬ。

ちなみにティーナのヤンチャ坊主、オーストラリアオープンで銀メダルを取るまで成長した。彼女、泣いて喜んだ。

つい最近、私の子供の指導を見ていたティーナ。「センセ、センセ」声を忍ばせる。
「今しがた、子供が階段の途中まで下りて来てセンセを見てましたヨ」 

私も童子を見たいものヨ。

関連記事

コメントを送る

2005年11-12月号・其の71 本音

2007年09月05日

何かあったナ、と思った。
ジョン、あまり物を言わぬ男だが、心は温かい。ベテランの教師。その腕を買われてか、問題児のカウンセラー、というやっかいな役職にある。

その日、浮かぬ顔をして、稽古にやって来た。
「どうしたエ」
さり気なく聞くと、「イエネ、チョイト情けない思いをしましてネ」、と言った後、マァいつもの事ですヨ、と口の中で付け加えた。

どうしようもない生徒だそうだ。担任の先生がたまりかねて、ジョンの所に連れて来た。まだ12才。ところがこの生徒、ジョンの忠告を完全に無視するばか りか、彼の目の前でタバコを吹かし始めた。ガキめ、いっぱしの事をする、と聞いていておかしくなった。カチンときたジョン、タバコを止めさせようとした ら、プイと出て行ったきり。

そのすぐ後、校長からの呼び出し。不審に思いながら出かけて行くと、「今回は大目に見るけどネ、声を上げて子供を叱り付ける事は、法律で禁止されています。次回は免職処分ですヨ」

その生徒が直接校長に告げ口したのは明らか。それにしても30年以上も経験のある教師の忠告より、悪ガキの大げさな告げ口が通るとは、世も末だ。
とは思うものの、現今、子供への過剰なまでの権利、保護から考えると、あの悪ガキ、必要以上の大声で叱られた、と学校を訴える事も出来る訳だ。先生だっ て分かってはいるものの、これが恐い。学校の方がビクビクと神経質になるのも、現在の法律制度から見ると無理からぬものもある。

私の道場には、かなりの数の教職者が稽古に来る。誰も学校の内情を私に話してはくれないけれど、何かがあるとどうしても私の耳に入ってくる。

バリーも一生を教職にかけた。その生徒、殴りかかってきたそうだ。バリーも有段者。子供のパンチをかわすのは、何でもない。

「ヘン、俺達はお前ェ達をブン殴ってもかまわネェけど、お前ェ達は俺達に触ることも出来ネェんだぜ」

何とも子供らしい捨てゼリフ。悪ガキ程自分達の権利を逆手に振りかざす。先生はどんな形であれ、生徒に触る事は禁じられている。特に男の先生には、生徒 からの風当たりも強い。バリーもストレスが溜まる一方で、非常勤講師を希望。責任は軽くなるし、ガキの顔は毎日見なくてもいい。ストレスが減って、生活が 楽しくなったそうだ。

部屋に入った途端、その女生徒、金切り声を張り上げて部屋から飛び出して行ったそうだ。ジム、一瞬どうなっているのか分からなかったらしいが、すぐに、シマッタ、これはやられた。不注意だった。やばい事になる、と感じたそうだ。

ジムが、他人に聞かれたくない、という相談を1人の女生徒から受けたのはもう数年前。面倒見のよいジム、彼女の要望に応えて、無人のクラスルームを使う事にした。

彼女、いたずらのつもりだったのかも知れない。最終的には彼女の両親がジムをセクハラで訴える。彼女も引っ込みがつかなくなったのか、友人の証人まで偽 造したものだから、ジムの無実が裁判で証明されるのに1年以上を費やした。その間教師の仕事はなく。相当額の裁判の費用、妻君との不仲も重なって、ジムは 踏んだり蹴ったり。

15年も続けた空手の稽古も遠ざかり、無実の証明の後、一人で英国に帰ったと聞いた。私には黙って去ったジムの心情が理解出来ず心に引っ掛かっていた。その彼から2年も経って長いメイルが届いた。その時初めて、私に事の全貌が分かった。

ジョンとバリーは、マァ腹は立つが、子供相手。しかしジムを訴えた女生徒の嘘は、許せない。勿論彼女、裁判の結果偽証と証明されても17才以下。何の罪もなかった。ジムは30年の教職を棒に振った。

「NO、という言葉は、禁じられているンですヨ」

幼稚園の先生のジーナ。幼稚園では子供を叱れない。悪い事をしている子供に、NO、と注意するのも駄目。とにかく幼児に否定語、と名の付く言葉は使用禁止。否定語を使用せず、それがどうして悪いのか説明し、婉曲に諌めなければならない。

一見子供を尊重しているようで、長い目で見て駄目にしている良い例。幼児に事の善悪を教えるのは、単純明快なやり方でいい。子供は叱られて育つ。憎くて叱るのではない。可愛いからこそ、将来まともな人間に育つよう、叱る。

幼児の内に事の善悪の基本を植え込んでおかないと、けじめのない人間に育つ。それはそのまま、いつの日か、親にはね返ってくる。豪州流の現在の育て方、子供の教育。考え方の根本の相違が見える。

豪州の方針が大きく変わったのは、25年も前。労働党のホーク首相が政権を確保して以来である。ハワード政権で経済は向上しても、全州とも未だ労働党政 権は強く生きている。豪州で空手を指導して40年。私は空手を通して豪州人を見つめてきた。その変わり様は驚くべきものがある。

何も分からない幼児の時から、必要以上の権利を与えすぎるという事は、逆に幼児の好きなように甘えさせる事にもなりかねない。幼児に正しい意志、というものを持たせるには、まず親の意志が反映しなければならない。

ここに幼児時代の躾という、一番根本の教育がクローズアップされてくる。これを怠けて甘やかせてしまうと、最初に我がまま、という病原菌が顔を出す。こ の菌はまず忍耐力や集中力を殺し、尊敬心を汚染して意志力を弱め、その反面自己の欲求心ばかり促進させるという、妙にアンバランスな人間の形成を促すやっ かいな物だ。子は親の鏡、というのは、ここにある。

ケインズにも豪州人といとも簡単にくっついてしまう日本人女性が急増している。一緒になり甘い期間が過ぎると、考え方の相違と男の浅さが鼻に付いてく る。私には男を見れば分かる。この間に半分位は別れてしまうだろう。子供が出来ると、今度は子供の育て方で、大きな考え方の違いに突き当たる。ここで又、 残りの半分位は離婚する。

犠牲になるのは、子供。くっつくのも別れるのも勝手だけれど。子供だけは石にかじり付いても、しっかり育てる事。男を当てにするような、ケチな考えはしない事。日本人として他国に住むという事は、それだけの覚悟がいる、という事だ。

リン。ケインズ私立校の教師。若い先生2人と稽古に来ている。私は言う事を聞かない子供や悪さをする子供は、親の目の前ででも尻をヒッパたく。ガキの尻 を叩くには、それなりの理由があるし、私も覚悟して叩く。それで良くなる子供も多いし、反面ビックリして来なくなる子供もいる。良いと思ったら、体を張る のは私の商売。

「センセ、あんな事私の学校でしたら、その日で首ヨ」

丁度子供の尻を叩くのを見ていたリン。そう言ってキャラキャラと笑う。そして小声でポソッと付け加えた。「出来る事なら、私もやりたいヨ」 まァ先生方、それが本音だろう。

関連記事

コメントを送る

2006年1-2月号・其の72 ココダ、トレイル

2007年09月05日

「ブッたまげたぜヨ。ブッシュの中からヨ、気違ェみテェな声あげてヨ、日本兵、オッ飛び出してくるンだもんナ」

その日、雨。ジャングルの中の急坂は、ひどくぬかっていた、ソウナ。飛び出し様、日本兵、振りかぶった刀を叩き付けるように、その男に斬りつけた。

「オラァ夢中で、30(スリーオー、303口径豪州軍制定小銃)で受け止めただヨ。ところがヨ、ビックリこくじゃネェか」

日本兵の刀は、頑丈な30の銃身深く、切り込んだ、という。

老人、木工師。DIGGER(退役軍人)。それがあの刀だ、と言いたげに、埃りに埋もれたまま、彼の仕事場の壁に掛けてある古びた日本刀を、目で指した。

老人の話。嘘だゼ、と思った。私はその刀を買った。もう昔の話だ。持帰り、ジックリと鑑た。刀はものを斬ると、表面に、刷毛で掃いたような庇が付く。ヒケ、という。刃こぼれも、ヒケもなかった。刀は、使われていなかった。

刀の斬れ味を知らぬ、豪州人の思い付く話ではない。実際にあった話だ。ただ老人は、他の豪州兵からその戦闘の話を聞き、それをさも我が事のように、私に聞かせただけだ。そんな稀な事が起こる程、ココダの戦いは、日豪肉弾相打つ戦いだった。

ニューギニアの首都、ポートモレスビー。市街を通り抜け、1時間も走ると、山岳地に入る。山を登り、尾根に出ると、所々に原住民の貧相な部落に出会う。 興味深く眺めながら、3時間。ココダ、トレイルの豪州側からの入口に着く。オワーズ、ポイントという。小さなサインがあるだけだ。入口から、滑りそうな坂 道をズルズルと十分も下ると、周囲の青黒い山脈が見渡せる、渓谷の中のような平地に着く。そこに豪州軍の司令部があった。

「あそこまで、日本軍はやって来たヨ」

目の前に、黒くそそり立つ険しい山がある。

ガイドの指差す尾根の一部が、コの字型にヘコンでいた。そこが日本軍の最南下地点だった。司令部跡からストン、と落ちるように、獣道のような急坂が、暗 いジャングルの中に消えていた。そこからが、スタンレー山脈を縦走してココダに抜ける、激戦地への事実上の入口だった。

ヤレヤレ、もうクリスマスか、と思った。年ごとに、一年の経つのが早く感じられる。沢山のカードを書くのは、大仕事。だが、1年に1度位、世話になった知人達に、カードを送り、近況を知らせるのも、その年の終わりのけじめ、とも言うものだろう。

ジャック。白人とパプア人との混血。数年前の私の道場の門人。彼の叔父は、ニューギニア高地を探検し、世界に紹介した最初の白人。パプア人をめとり、そ こで一生を終えた彼のテイラー邸は、今も親族達の手により、ゴロカに保存されている。私もそこで世話になった。

ジャックはこの血筋を買われ、ニューギニアの米国資本によるオイル会社に就職。家族を豪州に残し、ポートモレスビーで働いていた。多分まだいると思っ た。会社にメイルを送ってみた。すぐに返事が戻ってきた。今年のクリスマス。一族がゴロカのテイラー邸に集まるそうだ。イイナア。私も行きたかったナア。

今、世界で物騒な都市のトップにランクされる、ポートモレスビー。私がゴロカに泊まった数年前も、隣家に侵入した賊、アッサリとライフルで射殺された。寝入り端の事で、妻は銃声を聞いたそうだが、私しゃ、酔っぱらって知らなかったヨ。

私達の客室の前には、弓矢と蛮刀で武装した原住民が、一晩中、寝ずの番に立ってくれていた。ニューギニアは、私だけでは行けぬ。ジャックとその一族がいたからこそ、何とも貴重な体験をさせてもらった。そのジャックから、折り返しメイルが入った。

彼のニューギニア勤務も、後一年という。残る一年の間に、私と、ココダ、トレイルを縦走したい、という。心が動いた。ポーターを雇い、十日間の超ハード なトレッキングコース。平地でも十日間は、キツイ。ココダは急坂とジャングルの連続。膝にくる。稽古中、腰を深く落とすと、痛みがある。急坂のジャング ル。とてもじゃないが、膝がもたないだろう。残念ながら、断念するしかない。この機会を逃したら、私がココダに立つ事は、二度とないだろう。心が残った。

今年は、私の道場の三十周年。クリスマスの記念パーティーには、各地より230名、集まってくれ、盛大だった。稽古納めは、12月9日。1ヶ月の休み。 いつもなら、何処かにポッと旅に出る。去年の今頃は、ベトナムのハノイで、風土病にやられていた。つい最近、中近東にも行ったばかりなので、今年はノンビ リと、家にいる事にした。

久し振りの、家族とだけのクリスマス。娘がプレゼントを持って来た。ガキじゃあるメェし、いらぬ事をするンじゃネェヨ、といつも言うのだが、娘は娘なりに考えて、誕生日やら父の日やらと、忘れずに持ってくる。

重い包みを開けると、ブ厚い本。タイトルは、何と…ココダ。今までに、ココダについて書かれた、最高の本という。ソウカ、娘もこんな本を父親に送るような女になってくれたか。

40年も豪州にいて、未だまともな英語もしゃべれない私だが、じっくりと時間をかけ、あの世に行くまでには、600ページ。最後まで、読ませてもらうヨ。有り難ヨ。

ニューギニア北部海岸域から、ココダに侵入した日本軍。1942年の7月。補給路を絶たれ、弾薬も食料も切れた。翌年の1月までに、戦闘より、むしろ飢 えと病気で13000人が死んだ。豪州軍死亡、2000人。死んだ戦友の肉を食べ、木を尖らせた槍で突っ込んで、死んだ。豪州兵にとっても、彼等が遭遇し た、最も悲惨な戦い、と言って良い。

戦争の実態も知らず、世界平和を唱えるのは、実のない、気休めでしかない。あの判決が分かっていたような、一方的な極東軍事裁判からスタートした戦後の日本。

大戦経験者が生存している内に、この原点を、日本の国民は十分に見直す時点に来ている。そうすると、首相の靖国参拝問題、も自ずと解決の方向に向かうだ ろうし、何かがあると、ジャラジャラと日本の足を引っ張り、騒ぎ立てる中国の馬鹿者達へも、もう少し毅然とした態度がとれるはずだ。

豪州に押し寄せて来る、日本の若者達。機会があれば、豪州にいる間に、日本と豪州の間に何があったのか。過去の歴史をひもといてみるがいい。日本という国が、豪州という国が、よく見えてきて、もう少し、日本人、になれるヨ。

関連記事

コメントを送る

2006年3-4月号・其の73 戻ってきた居候

2007年09月05日

「道場から帰宅すると、9時が近い。ヤレヤレ、今日も無事終わったかと、
1杯やりながら、ユックリとした夕食を終えると、10時。
深夜の食事は体に悪い、というけれど、もう30年が過ぎた。
ボツボツ、体に異常が出てきてもよい頃なのだが、まだその兆しはない。

我が家のポーチと車庫の間は、植え込みになっていて、家の横手に回り込むのに、
カチャンと音を立てて開く、小さなゲイトが付いている。
その夜、道場から戻った時、そこには何の異常もなかった。

夕食後、妻が戸外に出ることは、メッタにないのだが、その時は何かの用があったらしい。突然、たまげるような悲鳴が聞こえた。何事、と私も飛び出した。
ポーチの敷石を真っすぐに横切る黒い陰。蛇だ、と一瞬思ったが、
よく見ると、抜け殻だけ。

ゲイトの枠に尻尾の先端をからめ、ポーチを横切って体を伸ばし、
袋の中から這い出るように、スポンと見事に抜ききっている。
触ってみると、ヌメッと湿りがある。蛇が脱皮する時は、水に漬かるという。
家の裏手にあるプールで、ひと泳ぎしたのか、ゲイトのすぐ内側に置いてある、
我が家の番犬、お真佐の水入れの中にくねり込んだのだろう。

それにしても、夕食をとっているホンの小一時間の間に、
水に漬ってサッパリした蛇のやつ、サッサと一仕事終えている。
ポーチを完全に横切っているから、長さは2メートル以上。
私は蛇は別に何ともないけれど、2メートルを越すとなると、
あまり気持のいいものではない。

ところが、妻。蛇となると、心臓麻痺を起こしかねないほどの蛇嫌い。
抜け殻だけでも、エラいショックであったに違いない。

サテ、何処からこんなデッカい蛇がやって来たのか、と思ったが、
私の家の背後はよく繁ったブッシュ。クリークに沿って、
踏み込めないほどの雑草地帯もあり、蛇の10匹や20匹、棲み着いていてもおかしくはない。たまたまその中の1匹が、やって来たのかも知れない。

妻が血相変えて、私のオフィス兼書斎に飛び込んできたのは、
その時から3ヶ月ほどたっていた。とにかく、出て見ろ、と口から泡を飛ばす。 
彼女に付いて行くと、私の部屋のすぐ外側の、廂にある樋の中から、
ヒラリと白っぽい物が垂れている。

よくまア、見つけたものヨ、と思うほどの蛇の抜け殻。
梯子をかけて上ってみると、樋の中にゾロリ、抜け殻が伸びていた。長い。
どうやら、同じ蛇らしい。という事は、あの晩以来、こ奴、我が家の何処かに、
無断で棲み付いていたようだ。

頻繁に脱皮するのは、蛇が若い証拠。それでいてこれだけのサイズ。
パイソンだ、と思った。通常、優に3メートルを越す。無毒でおとなしい。
ヤレヤレ、エライ居候がやって来たものヨ。妻がやけに恐がるので、庭の植え込み、
物置の内外、温室の中。夜はトーチで家の周りを歩き回ったが、居候、顔を見せなかった。

三度目の妻の悲鳴は、ポーチ横の植え込みの中に、再度抜け殻を見つけた時。
嫌いなくせに、殻を見つけるのは、いつも彼女。

この時を最後に、もうおっつけ一年になる。どうやら居候、気ままな旅に出たらしい。
一本刀の股旅暮らし。気楽なモンだぜ、と思っていたが、その間一度だけ、妙な事があった。

ある夜中、お真佐が変な吠え方をする。鳴き声に怯えがある。ガレージに行くと、
別に異常はない。ただ、すえたような何とも言えない臭いが、プンと鼻をついた。
蛇は興奮すると、体から臭いを出す。もしかしたら…と思った事だった。

「ここには、エライ大きな蛇がいるネ」
キャロリンがケロッと言う。私の友人の妻君。つい先日の事だ。
真意が分からず、エッと聞き返すと、「アリャ、まだ新しいヨ」

庭好きの彼女、あちこちと我が家の植え込みを見ていたらしい。
彼女が私を誘なったのは、裏手にある観音竹の繁み。何と、気がつかなかったヨ。
すぐ横のフェンスに尻尾をからめ、観音竹の中を縫うように、蛇の殻が見える。
取り出すと、3メートルに近い。奴だ。居候だ。気楽な旅から、舞い戻って来やがった。
それも一回り、大きくなって。コリャ又、ひと波乱、起きるぜヨ。

寝入り端に電話が鳴った。話を終えると12時が近い。それから寝付かれない。
寝返りを打ちながら、2時を打つ時計の音を聞いていた。むし暑い夜だった。
寝室の窓を開けていた。外側は植え込みになっていた。……と、微かな音が聞こえた。
ミシッ…プチッ…カサッ…。何か、かなりの重量のものが、ユックリと動いている。
ヒキガエルのがさつな音ではない。目が急に冴えてきた。

「シッ!マトモトサー、ヘビ、いるヨ」

先に行くアイザックが、フワリと立ち止まった。私の身の丈もある雑草の繁る、
ブッシュの中だった。モア島。丁度、ニューギニアと豪州本土との中間点に位置する、
トーレス海峡では2番目に大きな島。ほとんど、無人。
そこの一角に、私が働いていた南洋真珠養殖場の木曜島分場が、設置されていた。
時々、出張作業に行った。もう35年も前の話だ。

「エッ、何処に」

私はキョロキョロと、地面を見回した。静かに、と彼は立てた人差し指を、
彼のブ厚い唇に押し当てると、その指を頭上でグルリと動かした。エーッ、蛇は頭上に…。
半信半疑で、それでも黙って立っていた。

その日、無風。どれ位、立っていただろうか。
突然何処かで、ピキッ、と微かな枯れ枝の折れる音がした。
アイザックがニタリと歯を見せ、音のした方を指差した。

大きな蛇だった。ユックリと木の枝の上を移動していた。
枯れ枝に当たった時、蛇の体重の重みで、ピシッと枝の折れる音がした。
アイザックが、又、ニタリと笑った。

私は急に、この経験を思い出した。蛇だ。これは我が家の居候に違いない。
ジッとしておれず、トーチを探して、ソッと裏口から外に出た。音はもう、止まっていた。トーチの光の輪を、アチコチ植え込みの中に移動させてみたが、何の 姿もなかった。

確かにあれは、蛇だった。まアいいか。
その内一本ドッコの蛇太郎、ゴメンナスッテ、と顔を見せるだろう、と思いながら、
ベッドに戻った。

先日、64才になった。人間、寿命の先が少し見えてくる年になると、
人間も自然という大系の一部、という事が感じられるようになる。

ある者は草木を愛で始め、若い時、ワニや鹿のハンティングに出かけたり、
抜刀術の稽古に、猪やサメの試し斬りをやっていた私でさえも、虫一匹殺さなくなり、
体に落ちてきたヤモリの子を、ソッと戻してやるようになった。

人間の齢とは、不思議な技を持つものヨ。それが分かるからこそ、年をとっても、
安易に流れては駄目だ。精一杯、生きなくては、年をとった、示し、がつかぬ。

サテ、今日もこれから道場で、ひと汗かいて来る。
その後の一杯が、ヤレ、楽しみ、楽しみ。

関連記事

コメントを送る

其の74 現代史を読め

2007年09月05日

「コリャ、ヒデエなア」 思わず声が出た。
その刀、刀身が銀色なのだ。錆止めのつもりなのだろう。
ピッタリとペンキが塗ってあった。
柄を止めてある目釘を抜き、柄を外そうと試みたが、
まったく動かない。戦後30余年、柄を外した事がないらしく、
中心が錆付いてしまっているからだ。
鍔と柄の間にドライバーを差し込み、テコの応用で、
用心しながら押し上げると、ジャリジャリと錆音を立て、
柄がズルリと動いた。中心は錆の固まり。
堅いブラシで強く擦ってみると、
錆の下から文字が浮いてきた。
九州肥後同田貫。
何と、天正年間(1573〜1591)の
同田貫一族の刀だ。

ケインズのハーバーマスターが、
日本兵から没収した刀を持っている、と聞いたのは、
もう前の話。
何とか見たい、と思ったが、
この男、大の日本人嫌い。
日本人に売る位なら、海の中に放り込んだ方がまし、
と取り付く島もない。
マスターの息子の友人が、私の道場の弟子だったので、
内緒で見る機会を得た。

私はこの頃、豪州に眠っている日本刀を、
懸命に追っていた。持ち主と言えば、
当然大戦中に日本軍と戦ったDIGGERがほとんど。
日本人嫌いも多い。
私を日本人と知り、門前払いをくったこともある。
戦後まだ30年の当時。
過去白豪主義で名を馳せた豪州人の間に、
そんな風潮が残っていたとしても、不思議ではあるまい。

ところが60年もたった先日の、
ANZAC DAYのテレビインタビュー。
"BLOODY JAP
I HATE THEM EVEN NOW "

一人のDIGGERがにがにがしく呼んだショットが、
大写しになった。彼の息子も退役軍人。
歴史あるトルコのガリポリの慰霊祭に参加するという。
そのインタビューに、関係のない父親が顔を出した。 

過去2、3年のANZAC DAYの盛り上がりには、
目を見張るものがある。
私は別に、その国の戦いの歴史を振り返り、
国の為に犠牲になった人々を祀る事が、
悪いと言っているのではない。
むしろ日本人のようにまったく無関心のみならず、
自国の為に死んだ人々を偲ぶ事もせず、
祭日や学校に自国の国旗さえも拒否するという、
異常な風潮より、はるかにプライドの高い、
自然な感情だと思っている。

テレビのどの番組を見ても、
ガリポリ中心の戦争番組一色。
今年は新たに、第二次戦中の日豪の激戦地、
パプアのココダ縦走も組み入れられてきた。
派手になるANZAC DAY。
この背後には、
どうやら右系の団体の仕掛人がいるような気もするが、
このイデオロギーがこれからどう動くのか、興味がある。

この風潮の中で調子に乗った
テレビ局のDIGGERのインタビュー。
日本との交流の中で、
メディアの常識を疑うような放映ぶりだが、
豪州人、特に知識階級には、
大なり小なりそのような見方が心の中に存在する、
という事は、否定出来ないだろう。
その番組を見た時、私しゃ、ムーッとして、
カチンときたヨ。
戦後も白豪主義も、まだ尾を引いている、という事だ。

連合国側の報復とも言える極東軍事裁判。
いわゆる東京裁判が終わったのが昭和23年。
裁判長のウェップは白豪主義の権化のような豪州人で、
どこやら地方裁判所の判事。
パプアに於ける日本兵の捕虜虐待の検察官だったのに、
何処でどうやったのか、裁判官も兼ねた。
検察官が裁判長を兼ねる、という裁判は、未だかつて、無い。
これに文句を言った良識ある米国の弁護士数名は、
裁判長の名のもとで、裁判から除籍されてしまう。

つまりウェップは、日本憎悪のあまり、
日本戦犯全員を死刑にしてしまう、
という判決をあらかじめ懐に入れ、裁判に臨んだのだ。
東京裁判は裁判ではない。
ただ日本憎し、の報復行為に過ぎない。
この裁判ほど、日本にとって、
国辱的な出来事は、歴史上にない。

連合国は、国際法で禁止されていた原子爆弾を使用し、
且つまったく無差別に日本中を夜間爆撃し、
何百万人もの民間人を殺傷した。
そんな連合国側に、
日本軍の捕虜虐待を追求する権利があるのか、
という正論は、ウェップにより完全に無視された。

パプア東部域のダルピール海峡では、
日本軍第十八軍7300人を乗せた10隻の輸送船が、
米豪の戦闘機により全船撃沈。
これは戦争だから仕方ないとしても、
その後が問題。
漂流する日本兵を連日捜し続け、
空から機銃掃射で5000人を射殺。
これは戦争犯罪に匹敵する。
事実は隠蔽され、東京裁判では問題にもされなかった。

私の妻は幼児の折、畑の中を父親と歩いていた時、
急降下してきた連合軍の戦闘機の機銃掃射を受けた。
地面に伏した彼女のすぐ横を、
土煙りを上げて通過した機銃弾のショックを、
今でもハッキリと覚えていると言う。
戦闘機のパイロットにとって、
彼女達は、動的射撃という遊びでしかなかったのだ。

日本はポツダム宣言の条件を呑み、
それを受諾した上で、降伏文書にサインした。
宣言の履行を信じ、サインした。
これは有条件降伏で、日本人の信じる無条件降伏ではない。
ポツダム宣言には、マッカーサーを長とする連合国側に、
裁判を組織する権利は、謳われていない。
つまり彼等には、日本戦犯を死刑する事は出来なかったし、
裁判そのものが、国際法違反であった、と言える。
日本側が信じて受諾した宣言は、
連合国側に完全に無視された事になる。
勝った側にのみ正義は存在した、と言う事だ。

日本の戦後は、国際法違反である
国辱的東京裁判からスタートした。
連合軍は厳しい言論、出版統制を実施し、
彼等に不利になる一切の発言、出版を禁止するのみならず、
メディア、学校教育を通し、
日本のみが世界の悪者であるというイデオロギーを、
日本国民に徹底的に叩き込んだ。

日本的な精神を高揚する武道、
日本刀制作等の伝統工芸、神社、歴史等、
全て禁止された。昭和27年の独立後、
これらは連合軍統制のもとで、
少しづつ戻ってきたものの、
例えば日本刀制作は、
刀工一人につき月二振りしか鍛刀出来ない。
この法律は今でも生きており、
これでは刀工は食えないので、
千年にも及ぶ世界に誇る日本の伝統は、
無知な日本人により、消えてゆく運命にある。

日本という自分の国が嫌いだ、
というひねた若者が増えているという。
現代史に蓋をし、国旗に反発させる学校教育者。
自国の良さを知ろうともせず、
日本を世界の悪者に落し入れた米国に、
尾を振り続ける戦後の日本人像の原点は、
繰り返すが、国際法を無視して一方的に実施された、
日本憎悪の東京裁判と、その後の占領政策にある。

エエ加減で目を覚ましヤンセ、
と日本人に言いたいけれど、私だって豪州に来て、
外からジックリと日本を見つめなかったら、
こんな事、テンデ考えもしなかった。
私はまだ40年しか豪州に住んでいないけど、
一番良かった事は、別に好きな空手で食えた、
なんてエ低次元的な事ではなく、
日本が少し分かってきた。日本人になれた、
という事だと思う。
これで豪州で死んでも、
日本人、として死ねる。
その時の遺言。若者達ヨ、現代史を読め。
 

関連記事

コメントを送る

Page 2 of 212