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「世界」をしっかり見ているのだろうか?
2009年08月25日
昨日は仕事が終わって、綺麗な夕陽に誘われるように足が向き、病院の裏の海岸を散歩しました。
太平洋ベルト地帯にあるので、工場の煙突が見えます。
往時は砂浜だったようですが、現在は石の浜です。広がる凹凸は、内視鏡での慢性炎症を起こした消化管粘膜を想見しました。このような地球の変化は痛々しいです。
最近になり月が詩情豊かだということを思い出しました。仕事の疲れが癒されました。
「世界」を精緻に見ることができるようになれば、もっと面白い写真が撮れるようになるのでしょう。(写真にかすかに写る富士山に気がつきませんでした。それどころか、しばらく月が出ていることにすら気づきませんでした。)
いつか、この地と心が通い最高の美を見せてもらうことができるようになりたいと、思いを持ちました。
次の休みはケアンズへ
2009年08月24日
8月も終わりに近づき、朝方と夕方には秋季の気配を肌で感じるようになりました。
「来年のことをいうと鬼が笑う」という古諺がありますが、この未来を見通す才覚は、他の動物と比べて、大脳皮質が進歩した人間に卓出した能力です。
すでに、次の冬休みを心に思う方も多いかもしれません。
もし、枯葉が落ちるにつれて、気分も暗がることに感付いておられる方は、冬にはケアンズに旅行することをお勧めします。
季節と「こころ」の係わり合いは、季節性感情障害という病気として現れることがあります。
この病気は、日が短くなり、光による眼から脳への刺激が弱まることがホルモンバランスを崩し、うつ状態を引き起こす病気です。そして、その潜在患者数は、日々の生活に差し障りがない軽症も含めると、大変多いのではないかと考えられています
(こちらで詳しく説明させていただいていますので、興味がありましたらご覧ください。http://www.seirei-numazu.com/files/seirei77.pdf )
転地療法も勧められています。日照が長い夏季の地域に滞在することによって、症状が改善するといわれており、ケアンズはあつらえ向きの地域です。
そして、明るい気分になって日本に帰れば、毎年、物憂い気分で見過ごしてきた、かつてとは違った情景、厳美な日本の冬景色を観照できるようになっているかもしれません。
美しい仮説
2009年08月18日
先週は地震ではじまりあわただしかったので、週末、気分転換にイギリス人の友人と、行きつけのレストランで少し酔っ払うことにしました。
満月の日につくられたビールの話題になり、面白い話を聞かせてもらいました。
ヨーロッパでは月はとても大切にされているようです。満月の日に髪を切るとヘアスタイルがまとまる、若い女性や妊婦は満月を見てはいけない、満月とは逆の、新月の日に切り出された材木が特別な価値を持つというような習慣があるそうです。
グレートバリアリーフのサンゴ礁はいうまでもなくすばらしいですが、サンゴの産卵は満月と関係しているといわれていることを思い出しました。
このようなリズムは概リズムと呼ばれていますが、今回は野暮な科学の話は無しにします。
私は、「こころ」に響く美しい仮説は必ず真理を含んでおり、現在は証明されていなくても、将来的には、正しいことが証明されると信じています。
月と人間がクロストークを行っているとしたら、とても神秘的です。
これからは、月にもっと注意を払ってみようと思いました。
カジノの効能
2009年08月17日
不安や怒りなどの、いやな気分を切り替えたいと願っても、ずっと引きずってしまうことはないでしょうか?このような気分のときは、あまり心地よいものではありません。
以前、家族でケアンズに滞在したときに、現地に住む知人を招き、バーベキューをしたときのことです。
私たち家族は、カジノのスロットマシンで損をしてばかりという話題になりました。
そうすると知人は、「そんなこと無いわよ。掛け率を変えたり、デポジットを出したり、色々、機械をだませばいいのよ。昨日も勝ちましたし、私の家族はみんな何度も1万ドル以上のジャックポットを当てているわよ」といいました。
「やり方が悪かったのか!」
それを聞いたわれわれは一様にそわそわしはじめました。食事も終わり彼女を見送るやいなや、一家4人はレンタカーに飛び乗り、一路キャプテンクックハイウェイをカジノ目指して突き進みました。それぞれがジャックポットを当てた自分の姿を想像しながら・・・。
そして、妻は300ドルを手にしました。(他は散々でした)
妻は婚前、タバコとギャンブルをやる人とは絶対に結婚しないというほどに、われわれ家族は特別にギャンブルが好きなわけではありませんが、カジノにはわれわれの脳を乗っ取ってしまうほどの何かがありそうです。
もし、現在感じている気分があまり良い気分でなければ、早目に気分を切り替えることをお勧めします。
なぜなら、感情には増強作用があるからです。些細ないざこざが、怒鳴りあいの喧嘩に発展したり、心配事を思い出したが最後、不安になることしか思い出せず、どんどん悲観的になって行くことがあるのはそのためです。
そして、それらはストレスとなり、長時間続くと「こころ」と「からだ」にさまざまな悪影響を与えます。
このようなとき、カジノに行って一喜一憂することは、この流れをリセットするのに役立つかもしれません。
ただし、ギャンブルを勧めているわけではないので念のため。
カジノに行かなくても、熱中するあまり、時間があっという間に過ぎてしまったと感じるような、わくわくする行動(趣味でも仕事でもリラクゼーションでも)に没頭して、気分転換をすることもよいでしょう。
地震と空の関係
2009年08月11日
今日、私の住む静岡県で震度6弱の地震がありました。免震構造の建物の中にいたので、あまり大きな揺れは感じませんでした。地震後すぐに勤務先の病院に向かいましたが、病院も被害はなくホッとしました。建築分野の知恵というのはすごいものです。
地震の後、雷光が連続して光りました。
地震の揺れにより、大地と大気との摩擦により電気が帯電し、放電する現象が見られることがあるというのをどこかで聞いたのを思い出しました。
冬場に化繊のセーターを脱ぐときにパリパリ鳴る例の現象と同じ原理で起こるものです。
普通の雷と違って最初はとても間隔が短く、徐々に間隔が長くなってゆくという、今までに経験したことの無いものでした。
少し興味があったので、論文を検索してみると、地震と雷の関係性を示唆する論文がありました。
寺田寅彦 (1931) Earthquake and Thunderstorm 東京帝国大学地震研究所彙報 9 387-397
このような複雑な現象は、関係性を証明することが難しく、常識というまでには認められていないようです。
芸術への羨望
2009年08月09日
私の父は、アボリジニ絵画の柄のネクタイを愛用しています。どこに行っても「素敵なネクタイですね」と褒められるのだそうです。褒めた方々は、アボリジニの芸術ということは知りません。
自然と「こころ」に響くのでしょう。
アボリジニは記録やコミュニケーションに、言葉だけでなく絵や音楽や踊りを使います。
前回、言語は世界認識の手段としては、わずかな欠陥がある可能性を述べました。
絵や音楽や踊りはアナログ(連続体)であり、デジタル(非連続体)である言語よりも多くの情報が含まれています。そのため、アボリジニは、コミュニケーションのために主に言語だけを使用するわれわれとは、違う世界を感じていたのかもしれません。
実際、アボリジニは、われわれが感じることのできないエネルギー場を、感じることができていたという見解もあります。
残念なことに、現代西洋医学を信仰する、われわれ医師の多くが最も尊重しているのは、科学的根拠を示すためのデータを構成する、記号や文字であるように感じています。
しかも、「こころ」に響く美しさは大切ではなく、客観的と考えられる事実の伝達が最も大切な目的です。
科学はきわめて強い説得力を持つ反面、「こころ」を記号や文字の限界に縛りつけてしまうのではないかと常々感じています。
私が尊敬し羨むのは、絵画や写真、音楽やダンスといった芸術に携わる方々の意識構造です。
私の感覚では感じ取ることのできない領域まで、より深く「世界」を観察し、感じとることができているのではないかと考えるからです。
このようなことに気づくことができたのも、ケアンズやエアーズロックで、アボリジニの芸術に触れ、「こころ」に強く響いたからだと感じています。
赤ちゃんとドリーミング
2009年08月05日
アボリジニの言い伝えに、ドリーミングやドリームタイムがあります。
祖先たちのドリーミング(夢で見たこと)が現実になり、それが集まって現在の世界が造られたというものです。そして、祖先たちは、地球や宇宙といった「世界」をひととおり造り終えると疲れ果て、「世界」と一体になり眠ることにしました。この、「世界」が造られた期間は、ドリームタイムといわれています。
このような祖先の力はわれわれに残されているのでしょうか?
精神分析医のウィニコットによると、生まれたばかりの赤ちゃんは、お腹がすいて泣いたときに母親の乳房が現れるのは、赤ちゃん自身が乳房を造り出したと考えるのだそうです。
唯我論的ですが、ドリーミングと似ているように感じます。
そして、自分と乳房が一体になったり離れたりすることが何度も何度も繰り返されると、いつも存在する自分の肉体と、母親の乳房とは性質が違うことに気づくようになります。
その結果、自分の肉体という想像上の殻を造り、「個」が意識されるようになります。
われわれは、自己という「個」である主体と、自己とは別の「世界」という客体が存在すると信じていますが、このような「こころ」の持ち方をするようになるには、生後数ヶ月かかるのです。
生まれたばかりの赤ちゃんの世界認識は未熟で、大人の世界認識が正しいのでしょうか?
言語は世界認識と大きく関わっています。例えば、二ヶ国語を話すバイリンガルは、使う言語によって、価値観、行動、世界観、自己認識などが異なるという研究結果が存在します。同じ人物が、英語とスペイン語を使うときで別人のようになるのです。
生まれたばかりの赤ちゃんは、様々な言語を吸収する能力を持ちますが、生後10ヶ月を過ぎるとこの能力は退化するといわれています。
「百聞は一見にしかず」「一枚の写真は一万の言葉に値する」という日本や中国のことわざからもわかるように、言語による世界認識には本来が持つ情報が欠けています。
完全な世界認識ができる可能性を秘めた赤ちゃんは、ウィニコットの考えを一般化すると、「個」=「世界」と認識していると考えられます。これは、ヨーガやアボリジニの世界認識と似ています。
われわれにも、この名残りは残されているのかもしれません。
自分自身を痛めつけることは普通はありません。苦痛を感じるからです。
不注意で怪我をしてしまったときには「からだ」に苦痛を感じます。
しかし、他者や自然環境といった「世界」を痛めつけてしまったときにも「こころ」に苦痛を感じます。
「個」と「世界」の境界はどこにあるのでしょうか?
そして、われわれの世界認識は生まれてから進歩してゆくのでしょうか?
それとも退化してゆくのでしょうか?
ケアンズとヨーガ(YOGA)
2009年08月04日
ケアンズではヨーガ(YOGA)がとてもさかんです。
ヨーガは、古代インド語で「軛をつなぐ」、つまり「結合する」という意味を持ちます。
細胞と細胞、臓器と臓器、身体と心、自己と他者、自己と宇宙、これら全てを様々な手段で軛につなぎ、葛藤することなく調和して一つに結合するのがヨーガです。
ヨーガの最終目標は、自己と宇宙とが一体となって、完全に調和することであり、健康はその結果として、二次的にもたらされるものです。
多くの方がヨーガと聞いて想像する、ビーチサイドやスタジオなどで行われるおなじみの体操は「ハタヨーガ」(体操のヨーガ)とよばれています。
脳科学分野の研究によって、筋肉の動きや呼吸の調節によって「こころ」にアプローチすることが可能であることがわかっています。「ハタヨーガ」のポーズと自律神経機能との関連を示唆する医学研究も数多く報告されており、「ハタヨーガ」による健康は、「からだ」⇒「こころ」⇒「からだ」というアプローチによってもたらされるのでしょう。
ヨーガには「ハタヨーガ」以外にも、「ラージャヨーガ」(瞑想のヨーガ)、「バクティヨーガ」(献身のヨーガ)、「カルマヨーガ」(行為のヨーガ)などがあります。
また、以前に述べた、私がココナッツビーチで感じたような、「個」と「世界」が一体であることに気づき、考察によってより深く探求することもヨーガに含まれ、この手段は「ジュニヤーナヨーガ」(思索のヨーガ)と呼ばれています。
もしかしたら、ケアンズでヨーガがさかんなのは、ケアンズが与えてくれるエネルギーのためなのかもしれません。
自然の中でヨーガを行うことはとても心地よいものです。ケアンズを訪れたら是非チャレンジしてみてください。
非日常の抗ストレス作用
2009年08月03日
現代社会で生活をしていると、日常的に様々なルールによって拘束されています。
自宅という、社会から占有することを認められた空間で生活を営んでいます。
毎朝、仕事の時間に合わせて目覚め、駐車することを認められたスペースに駐めてある、所有を認められた愛車に乗り、交通規則にしたがって運転し、職場に向かいます。
職場に到着したら、契約により決められた始業時間に仕事をはじめます。
仕事は、様々な社会常識や職場の規則、法規法令に沿って行われます。
昼休みの時間も決められており、昼食を食べ終えたら、空き容器を、燃えるごみ、燃えないごみ、資源ごみに分別して捨てます。
仕事が終わって、同僚と一杯飲みに行けば、価値を認められた紙や金属を渡すかわりに、食事やお酒が提供されます。
また、時計や携帯電話といった、社会集団の中で個人個人を同期させる道具を、一日中、身につけて行動しています。
多くの人にとっての日常とは、社会の中で生活することです。社会は規則の集まりであり、慣れて忘れてしまっているだけで、本来自由を奪うものです。しかし、必要なものです。
一方、拘束されたり自由にならないことが、ストレスの原因になることは、心理学上同意が得られています。
そのため、時には日常を忘れ、非日常に身を置くことは、「こころ」にとってとても良いことだと考えています。
日本での日常と比較すると、ケアンズは非日常にあふれています。
人工的な音が少ない静かな夜と、動物の鳴き声で目覚める心地よい朝。
大気汚染物質の臭いのかわりに、草木の心地よい香り。
普段と違う言葉、道行く人々、街並み。
日常を感じさせないホスピタリティあふれた宿泊施設。
熱帯雨林やグレートバリアリーフを散策し、見慣れない動植物と触れあうこと。
ヨガやスパ、気球やラフティング、バンジージャンプなどのわくわくするアクティビティ。
カジノやピストルを撃つことのような日本では非合法とされていること。(これらは、逆にストレスになることもあるため注意が必要です。)
時計や携帯電話を必要としない、自分のためだけの時間。
などなど・・・。
ケアンズに着いたら、日常を忘れ、非日常を楽しみましょう!
「個」の範囲
2009年07月30日
ケアンズの北に、ココナッツビーチがあります。
裸足になり、細かな砂の感触に癒されながら、この場所にたった一人で立つと、自分と海と空と大地とが一体になったような感覚を覚えます。
自己という「個」の境界はどこにあるのでしょうか?
デカルトは「われ、思うゆえに、われあり」といい、確実に存在するといえるものは、考えている自分しかないと説きました。
少し極端な考え方ですが、全ての事柄が夢ではないという確証は何も無いわけです。つまり、意識できる範囲が「個」であるといえます。
現代社会では一般的に、「個」とは肉体によって境界された範囲と考えられているでしょう。わかりやすく言いかえれば、「自分」と言ったときに意味するのがこの範囲です。
この範囲には無意識も含まれるため、少し範囲が広がりました。
「個」をより広い範囲としてとらえる考え方も存在します。
スピノザは「個」を含めた「世界」全体が「神」であると説き、アボリジニの文化では「個」とオーストラリアという母なる大地が限りなく一致しています。
現代社会でも、国なくして個人なしといわれるほどまでに、社会や文化、人間関係と個人との間には、深い関係があるのです。
これでも「個」の境界は肉体といえるでしょうか?
そのため、私は、「個」が健康であるためには、「世界」も健康でなければならないと考えています
ココナッツビーチは、自分という「個」と「世界」には深い関係があり、自分自身を大切にしたいと考えたときには、他者や社会、地球や宇宙を大切にしなければならないこと。そして、「世界」を大切にしたときには、これらを構成する「個」も大切にされなければならないことを教えてくれているように思います。
カンガルーから学ぶ愛情たっぷりの子育て
2009年07月24日
現在の自分の個性は、持って生まれた遺伝情報によるものでしょうか?それとも、両親や教師から与えられたしつけや教育、社会活動での人間関係のような、外部環境から影響を受けたものでしょうか?
このような、「生まれか育ちか」という議論は、はっきりとした結論が出ていないものです。
植物に目を移すと、違う遺伝子を持つ種子から生長した花は、当然違う性質を持ちます。しかし、同じ花から発生した、同じ遺伝子を持つ種子でも、播いた場所が違えば、気温や日照の影響を受けて生長に違いが出るでしょう。この現象は、花の個性には生まれと育ちの両方が大きく影響していることを表しています。
私には、人間の場合でも同じではないかと思えます。そのため、子供の将来を考えたときに、子育ての方法が適切であることは、とても大切なことだと考えています。
思いっきり甘やかすことと、厳格に社会のルールをしつけること。
これらは両方とも大切なことです。しかし、この相矛盾によって子育ては複雑で難しいものになるのでしょう。
私は、子供の可能性を最大限に引き出そうと考えたとき、様々な発達心理学の研究を考慮して、少なくとも赤ちゃんの時期には思いっきり甘やかす方針を選択します。
科学に基づいた意思決定は、しばしば他律的な冷たさを感じさせますが、この方針を実行することは愛情と一致していて、とても心地よく感じられます。
甘やかすことは、過保護とは違います。
赤ちゃんからの愛情や興味に対する要求にはできる限り応え、ぐずっているときには愛情たっぷりで接し、危険がない限り興味を持つものに対しては、満足するまで手を出さずに探求を見届けるということです。
具体的には、大切な作業をしていても、ぐずったらすぐに抱きかかえてなだめ、母乳やアタッチメントの望みを読み取ること。不機嫌な態度を大目に見ること。本棚からすべての本を引き出したり、食べ物を手づかみで遊んだり、大切な花を引きちぎるというようなことを飽きるまで笑顔で見届けるということです。携帯電話をいじられたり、ティッシュを全て引き出されるのがいやなら、はじめから赤ちゃんの目につくところにこれらを置かないことなどです。
赤ちゃんに必要がなくなれば、これらの行動は自然となくなるものです。
これらは完璧(perfect)ではなくても、ほどよく良ければ(good enough)よいと考えられています。
しかし、このような少し手間のかかる子育てを実践するためには周囲の協力は必要でしょう。
一方、あまりに厳しいしつけは危険でもあります。
赤ちゃんは2歳くらいになるまでは、状況の詳しい理解ができず、記憶のシステムも完成していません。そのため怒られて感じた不安や恐怖は不完全に記憶され、大人になってから、なぜだかわからないのに不安や恐怖が起こる、不安症や恐怖症の原因となることも考えられます。
愛情たっぷりに子育てを行う方針は、アボリジニの子育てと似ています。
私が驚かされたのは、アボリジニは心理学的にとても適切な方法で、子供の精神にストレスを与えず、自立を促す子育てを行っていたということです。
アボリジニの子育ては、カンガルーの子育てと関係しているともいわれています。
カンガルーの母親は、胎盤がないために、ポケットの中で赤ちゃんを愛情たっぷりに育てます。
人間でも母親と赤ちゃんの肌のふれあいが大切だという研究結果は広く知られています。
例えば、未熟児に対するカンガルーのような密着型のケアは、カンガルーケアと名づけられ、未熟児の生存率を上げ、母子の愛情の絆を強めることがわかっています。
子育てに関して、カンガルーやアボリジニから学ぶことはたくさんあるように感じます。
赤ちゃんは子宮という心地よい環境から、ある日突然厳しい環境に放り出され、強い不安や恐怖を感じているのです。どうか、叱ったり、興味を奪ったりすることなく、愛情たっぷりで接してあげてください。
ケアンズでは動物園でのほか、野生のカンガルーにも出会うことができます。
日本男児とアロママッサージ
2009年07月22日
ケアンズに到着したら、はじめに何をするのがよいでしょうか?
ケアンズにはわくわくするアクティビティーが色々とありますが、もし興味があるならば、長旅の疲れを癒し、以後の滞在を活動的に楽しむために、スパでアロママッサージを受けることをお勧めします。
「こんな至福が世の中に存在したのか!!!」
私がはじめてアロママッサージを受けたときの感想です。
アボリジニの文化では、霊性は、生まれる前、生きている間、死んだ後の三つにわけられ、生きている間の「生」の霊性が満たされることも大切に考えられています。また、ニーチェは生きる喜びが大切であることを説き、理性の力で毒杯をあおったソクラテスを強く批判しました。
私は、ソクラテス同様、理性の力に強い魅力を感じていますが、ニーチェの説く純粋な「生」の喜びも大切だと考えています。
「生」は死ぬまで続くものなので、生きることそれ自体に喜びや幸福を感じることができれば、ずっと幸福でいることができるからです。
アロママッサージは、この「生」の喜びと強く結びついているように感じます。
さて。施術を受けるにあたって、女性は抵抗がないのでしょうが、男性には大きな心理的障壁が存在します。芳香按摩などという名称だったならば少しは受けやすいのかもしれません。
私は、戦後教育を受けながらも、幼少時には太平洋戦争を戦い抜いた祖父も健在。おそらく、日本男児たるものという教えは無意識の領域に記憶されているのでしょう。
三島由紀夫は、日本男児の前身であるサムライの精神の源を、「羞恥心」であると説きましたが、このような精神性とアロママッサージは相容れず、施術を受けることが恥ずかしかったのです。
しかし、結婚式でケアンズを訪れた4年前、すでにその至福を知っていた家族から勧められ、「こころ」と「からだ」の関係に気づきはじめていたときでもあったため、興味本位で受けてみました。
部屋のしつらえ、心地よい波の音、アロマオイルの香り、施術者のホスピタリティ、最高に適切な皮膚や筋肉への刺激、これらの調和はおそらく、「こころ」と「からだ」という二元論の次元ではなく、全人間的に作用し、人間の根源的な「生」の喜びを引き起こすのだろうと考えます。
アロマテラピーの領域では様々な医学的成果も報告されており、その効果を考えれば、健康増進の一環として受けることは日本男児の精神と抵触することはないのかもしれません。
そして、「羞恥心」とは、このようなステレオタイプな固定観念にとらわれることではなく、恥を知り、品位を保つことだと、後に考えるようになりました。
ケアンズには素晴らしいスパがたくさんありますので、ぜひ一度お試しください。
ケアンズからの贈り物に気づくこと
2009年07月20日
ケアンズを訪れたことのある方は、日本を飛び立ち、ケアンズ空港の建物から最初に足を踏み出したときのことを目をつぶってゆっくり思い出してみてください。
どのような感覚を感じたでしょうか?
成田-ケアンズ便の到着は夜明けに近く、爽やかな気候を肌で感じる心地よさ。夜明けを告げる、聞き慣れない動物の鳴き声に対する自然な興味。意識を嗅覚に集中すると感じる木々のかすかな香り。夜明けの美しい空と雲や熱帯雨林からの視覚刺激。もしかしたら、北半球と南半球で逆向きのコリオリの力(遠心力)を感じる能力のある方もいるかもしれません。
これらは、ケアンズがわれわれに与えてくれているエネルギーの一部です。
「からだ」の変化に注意してみてください。日本の都市にいるときよりも、自然に笑顔になったり、筋肉の緊張がほぐれたり、呼吸がゆったり深くなったり、脈拍がゆっくりになったならばケアンズからの嬉しい贈り物を受け取ることができています。
このような身を置く環境を移したときに起こる、心身に対して好ましい効果は転地効果といわれています。
これらの一部は医学的データとなって現れることもあります。
2004年に林野庁で行われた研究では都市環境と森林環境での「こころ」の変化が示されました。
森林の中に身を置くと、都市で生活しているときよりも、「緊張」「不安」「抑うつ」「落ち込み」「怒り」「敵意」「疲労」「混乱」という不快な「こころ」の状態が大幅によくなるという結果でした。また、ストレスホルモンが減少したり、免疫系に望ましい反応が見られました。1)
そして、これらの不快な「こころ」の状態は様々な病気を悪化させることがわかってきています。
一例をあげると、1975年に発表された、米国で3000人以上を対象に8年半追跡した調査では、「緊張」「怒り」「敵意」などを感じやすい性格は心臓病の危険率を2.37倍に増やすという結果でした。2)
今後、様々な医学研究によって、ますます自然環境と「こころ」、「こころ」と病気の関係は、理解できる形ではっきりと目に見えるようになってくるでしょう。
それだけでなく、「こころ」が快い状態にあると、思考の働きがスムーズになることから、危険な行動をストレス無く避けることができ、健康的な生活習慣を送れたり、良いアイデアが生まれたり、仕事の処理がスムーズになったり、良い人間関係が築けたりという社会生活での素晴らしいメリットがあるのです。
このような関係を知ることができてからは、ケアンズに行くと、ケアンズに対して深い感謝を感じるようになりました。
現在の日本の医療制度の中では、医療とは薬を飲んだり手術をするものという固定観念ができているかもしれません。
しかし、人間の「こころ」と「からだ」の健康には実に多くの要素が影響を与えるものです。
ケアンズ療法のまず最初の方法は、美しく雄大な自然環境であるケアンズに身を置き、ケアンズからの贈り物に気づくことです。
参考文献
1)林野庁 (2004) 「森林の健康と癒し効果に関する科学的実証調査」の結果について http://www.rinya.maff.go.jp/puresu/h16-3gatu/0310sinrin.htm アクセス日時2009年7月20日
2)Rosenman RH, Brand RJ, Jenkins D, Friedman M, Straus R & Wurm M., (1975), Coronary heart disease in Western Collaborative Group Study. Final follow-up experience of 8 1/2 years., JAMA, 223, 872-877.
ケアンズと幸福
2009年07月15日
私は、人生で最も大きな目標は、ウェルネス(幸福や充実した人生)を実現することだと考えています。
しかし、ここで大きな問題があります。幸福とは何かという問題です。
カントは、全ての現象を理性で理解したり、言葉で正確に表現することはできないと説いていますが、幸福とはまさにこのようなものです。
幸福を完璧に表現することは難しそうですが、、私がとても適切に言い表しているのではないかと感じている、フォントネルの言葉を紹介します。
「幸福とは、そのまま変わらないで続いて欲しいような、そのような状態である」
ケアンズに身を置くとこのような気分にならないでしょうか?
(ケアンズに旅行して、いっそこのまま住もうか・・・と考えた方を何人か知っています)
では、もう少し深く考えてみたいと思います。
そのまま変わらないで続いて欲しい状態とはどのような状態でしょうか?
私は、快い感情が発生したり、不快な感情が適切に表出され、「こころ」が安定し心地よい状態と考えています。
脳科学分野では感情はいくつかに分類されています。
好ましい感情は「幸せ」「喜び」「興奮」「熱狂」「満足」「情愛」「興味」や、他者とより結びついた感情では「共感」「感謝」「賞賛」などがあります。
これらの感情が発生しているときには、心地よく、そのまま変わらないで続いて欲しいと感じるでしょう。
そして、それぞれの感情は脳の別々の経路によって起こると考えられているため、われわれはいろいろな方法で幸福になることができるかもしれません。
また、感情の発生には、自己と外部環境との複雑な関係が存在します。外部環境とは人間関係や社会や文化、地球や宇宙、存在しているかもしれない未知の領域といった自己を取り巻くすべてです。
アボリジニは、12万年にわたってオーストラリアの地をそのまま変わらない状態に保ってきました。
それは、アボリジニがオーストラリアという外的世界と一体となり、12万年にわたって幸福を感じることのできる文化に生きていたからかもしれません。
しかし、アボリジニは現代人が考える理想郷に住んでいたわけではありません。
ケアンズはオーストラリアの中でも生活するためには比較的恵まれた環境ですが、オーストラリアの大部分は砂漠という厳しい環境です。
それだけでなく、アボリジニの社会は集団主義であったため、「個」の自由が奪われることも多くあったでしょう。
現代人が持つ価値観では試練と感じる状況でも、アボリジニは「こころ」が安定した状態でいることができていたのかもしれません。
アボリジニは、オーストラリアの中で環境が異なる場所に住む部族の間でも、似たような世界認識や精神構造を持っていたといわれています。
残念ながら、われわれ現代人の世界認識や精神構造はアボリジニのそれとは異なるため、ケアンズが与えてくれるエネルギーに鈍感になっているかもしれません。
しかし、ケアンズはわれわれにも同じようにエネルギーを与えてくれているのだと信じています。
そして、注意深く観察すれば、ケアンズには幸福に生きるためのヒントが、数多く隠されていることに気づくのではないかと考えています。
次回からは、どのようにケアンズ滞在を楽しむと、健康やウェルネスの実現に役立つのかを考えてゆきたいと思います。
「こころ」⇔「からだ」
2009年07月05日
「こころ」が人間にとってもっとも大切だといわれると納得される方も多いでしょう。本能的にそのように信じることができるからです。
そして、科学の進歩によって、「こころ」と「からだ」には、以前考えられていたよりも、ずっと密接な関係があることがわかってきました。
「こころ」のコンディションが悪い時は、「からだ」に悪い影響を与え、様々な病気を引き起こします。
それだけでなく、適切な判断ができなくなることによって、健康的な生活習慣を送れなかったり、良い人間関係を築くことができないといった、二次的な悪い影響ももたらすこともあります。
これらによってさらに「こころ」のコンディションが悪くなるという悪循環が存在します。
一方、「こころ」のコンディションが良い時は、逆の望ましい反応が起こります。
「こころ」が「からだ」に影響するだけでなく、「からだ」も「こころ」に影響します。
「からだ」のコンディションが良い時は、「こころ」に良い影響を与え、「からだ」のコンディションが悪い時は、「こころ」に悪い影響を与えるのです。
このように「こころ」と「からだ」は密接に結びつきクロストークを行っています。
そのため、「こころ」と「からだ」の両方を良い状態に保っていることが大切です。
このような関係は、短期間では目に見えるほどの大きな変化を起こさないことが多く、注意を払っていないと存在に気がつかないものです。
しかし、一生という長い目で見たり、よく生きるという大きな目標を達成したいと考えたときにはとても大切なものだと感じています。
ケアンズは「こころ」と「からだ」を癒してくれる要素に満ち溢れています。
そのためケアンズを訪れると、この関係に気づき、よく生きるために大切なことを学ぼうと思うきっかけになるのではないかと考えています。
そして、予備知識があると、このことに気づきやすいのではないかと思っています。
今後、具体的なケアンズの要素について説明してゆきたいと考えていますが、もうしばらく「こころ」の予備知識について説明させていただければと思います。
次回は、どのような状態が「こころ」にとって良いのかを考えて行きます。
どうしてケアンズにいると体調がよくなるのか?
2009年06月25日
私がケアンズをはじめて訪れたのは、4年前の結婚式のときでした。
結婚式会場へ移動中の私たちをみて、見知らぬ多くの方が”So, brave! So, beautiful!”などと声をかけ、手を振って祝福してくれることに驚き、とても嬉しい体験でした。
その後も都合の許す限り、心身のメンテナンスのために、年2回ケアンズを訪れています。
どのような要素がどのような理由で良い影響を及ぼしているのか、メカニズムを明らかにしたいと考えてしまうのは私の悪い(?)癖ですが、そのような理屈を抜きにして、ケアンズにいるときには、とてもわくわくして体調がよかったからです。
一年を通じて温暖な気候、美しいグレートバリアリーフや熱帯雨林、かわいらしい見てるだけで癒される動物などの雄大な自然。
ゆったりとしたライフスタイルと、スマイルや親切のような人から与えられるもの。
パロネラパークやアボリジニの歴史や文化などのような人間の奥底にあるマインドやスピリットに触れること。
気球に乗ったり、カジノに挑戦したりといったわくわくするアクティビティー。
スパでのアロママッサージやヨガのような至福のトリートメントや心地よいエクササイズ。
帰国してからも、目をつぶり、これらの記憶を思い起こすだけで得ることのできる深いリラックス。
これらの総合的で連携した作用によって、「こころ」に働きかけ、すばらしいエネルギーを与えてくれるのでしょう。
そのため、ケアンズが与えてくれるエネルギーと健康の関係を理解しようとするとき、「こころ」と「からだ」の関係を知る必要があります。
次回は、「こころ」と「からだ」の関係について考えてゆきたいと思います。
映画「天国の青い蝶」とユリシーズ・バタフライ
2009年06月15日
医学の常識では考えられない奇跡的治癒に触れたとき、医師の反応は二つのタイプに分かれるように感じます。
医学部で学んできた常識を守ろうと、診断が間違っていたのではないか、などと理由をつけて、無関心でいようと努めたり、記憶から消し去ろうと努力するタイプと、好奇心や想像力を旺盛にしてそのことに思いをめぐらすタイプです。
私は、医師になってから長い間、前者のタイプでした。しかし、色々な探求を行い、このようなことが起こる可能性を信じることができるようになった最近では、後者のタイプになっています。
「天国の青い蝶」という映画は、1987年に、カナダに住む10歳の少年に、実際に起こった奇跡的治癒が映画化されたものです。
余命数ヶ月を宣告されたこの少年が、最後にブルー・モルファという神秘的な青い蝶を一目見たい、という夢をかなえる過程で、中南米の熱帯雨林を旅するうちに起こった物語です。(詳しいストーリーは内緒にしておきますね)
そして、奇跡的治癒が起こった理由について次のような仮説を立てます。
美しい熱帯雨林と綺麗な動植物に囲まれること、車椅子での生活から、蝶を追いかけるために体を十分に動かすようになったこと、サポートしてくれる人達の気持ちとそれに対する感謝、夢が実現するのではないかという強い希望。
これらの総合作用ではないかと考えるのです。(もちろん、もっとたくさんの理由があるでしょう)
私は、この映画の、青い蝶=ブルー・モルファと中南米の熱帯雨林の組み合わせを、ケアンズで見ることのできる青い蝶=ユリシーズ・バタフライとケアンズの熱帯雨林の組み合わせに重ね合わせてしまうのですが、どうでしょうか?
次回は、ケアンズにいると体調がよくなると考えるようになったきっかけについて説明したいと思います。
ケアンズが与えてくれるすばらしいエネルギー
2009年06月12日
このたびご縁があり、こちらで、ケアンズと健康の関係を紹介させていただくことになりました。
私は医師として仕事をする中で、多くの患者さんの病気や死に立ち会ってきました。
つらい病気を患ったり、死を覚悟する状態になっても、前向きに生きてゆこうとする患者さんや、死に対して勇気を持って向かい合おうとする患者さん、そのような患者さんを一生懸命に支えるご家族、ご親族から多くのことを学びました。
そして、自身の経験もあり、ただ生きるだけでなく、よく生きたいと強く願うようになりました。
生きること自体のすばらしさ。
生きることを喜び、そして楽しみ、試練から何かを学び、これらに対して感謝すること。このようなことの大切さを、こころから感じることができるようになるための答えを探すこと。
それがよく生きるということなのだと信じています。
そして、よく生きることによって病気にかかりにくくなり、健康にもなるのです。
私は、ケアンズを訪れることがこの学びにつながると考えています。
これから、ケアンズがわれわれに与えてくれるすばらしいエネルギーについて考えてゆきたいと思います。
プロフィール
- ymitsui
- 三井 康利。 1972年静岡県生まれ。 1997年北里大学医学部卒。 内科医。 現代西洋医学と補完代替医療、思想・哲学の良い点を取り入れ、ホリスティック(全人間的)な視点から医療を考察・提案。 臨床医として日常診療に役立てている。 資格:日本内科学会認定医、日本補完代替医療学会学識医、日本温泉気候物理医学会温泉療法医、日本旅行医学会認定医、日本消化器病学会専門医、日本消化器内視鏡学会専門医。
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