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ケアンズ療法実践編・ほんとうの自分
2010年10月29日
どういうわけか、ときにある行動をしたときに、これはほんとうの自分がしたものではないと思うことがあるかもしれません。
自分の中に意識を向けると、好きな自分や嫌いな自分、怠け者の自分や頑張り屋の自分、あたたかい自分や冷たい自分、なりたくない自分となりたい自分などが存在することがわかります。
たとえば、ダイエットをしなければならないことがわかっているのに、おいしそうなチョコレートを食べてしまったり、人にやさしく接したいのに、忙しくてつらくあたってしまったり、勉強をしなければならないのに、ゲームで遊んでしまうというようなときです。
現代の一般的な教育を受けてきて、社会や文化の中で生活をしていると、結果として、自分のなかに、色々な自分が存在するという「多重人格」が出来てくるのかもしれません。
ほんとうの自分を見つけるときに、色々な人格を考えすぎると、複雑になるため思考が空回りして、迷子になります。
一方で、多くの人は、理性と本能という二つの人格を意識しているかもしれません。しかし、それだと、理解して利用するためには大雑把過ぎます。
そのため、心医術では一歩だけ踏み込み、少しだけ感覚を研ぎ澄ませて、「本能」「情動」「理性・感情」を意識することを目標にしています。
そして、「本能」や「情動」が「理性」を打ち負かしてしまったときや、「理性」が「本能」や「情動」を押さえ込みすぎたとき、葛藤が生まれ、分裂した自分を強く感じることから、ほんとうの自分ではないと感じるのだと考えられます。
ケアンズ療法では、ケアンズのエネルギーをかりながら、このようなこころのアンバランスを、なりたい自分にバランスすることも、してゆきたいと思います。
ばらばらだった多重人格が、結果としてひとつの人格にまとまるようになり、こころの平安を感じることができるようになります。
まずは、一度、意識を内面に向けて、自己分析をしてみてください。
賑やかになりました
2010年10月25日
8月に長男が誕生し、先日、家族が里帰りから戻ってきました。
その後、いろいろと大きなイベントなどもあり、最近、やっと少し落ち着いてきました。
少し間が開いてしまいましたが、次回からは、ケアンズの恵みをキャッチするこころのアンテナの立て方などを紹介してゆきたいと思います。
ところで、以前から、母親のストレスが、胎児に影響を与えることによって、生まれてくる子供の病気に関係することは知られていました。
それに加え、(ネズミによる実験ですが)受精前の父親の生活習慣と、子供の病気との間に関係があるとする論文が、オーストラリアの研究グループより発表されました。1)
科学の発達によって、自己責任の境界がどんどん曖昧になってゆく気がします。
そして、もっと早くわかったらよかったのにという科学論文はとても多いです。(うちの子は大丈夫か???)
やはり、科学だけに頼らず、直感を大切にしながら生きてゆくことも大切です。
1)Ng SF, Lin RC, Laybutt DR, Barres R, Owens JA, & Morris MJ. (2010). Chronic high-fat diet in fathers programs β-cell dysfunction in female rat offspring. Nature, 467, 963-6.
「人」と「人間」
2010年09月30日
先週末は2回目のヨガを開催しました。
そして、今回から、ジャニヤーナヨガのサロンをオープンしました。
日本の風潮では、「生きる意味」とか「自分とは何者なのだろう」というような問いかけは疎ましく思われがちですが、最近、このような問いかけを、子供のときからずっとされてきたという方に出会う機会がとても多くなりました。
サロンが、このような問いかけを続けている方の助けになればと願っています。
今回ヨガに参加してくださった、ビジョンサプライを経営する中村さんから興味深い話を聞かせていただきました。
「人」と「人間」とでは、意味が違うとのこと。
日本では昔から、人間は、「人」と、より高いものに進化する過程の「間」の存在と考えられていたそうです。
これを聞いて、人間は、「人」と「人」の間である社会の中で生きる存在である、という考えもあったのを思い出しました。
そして、同じく参加してくださった、沼津市の自動車整備の組合で役員をされているボティーワークスアルファを経営する高嶋さんは、現在、組合の仕事として、いままで仕事を取り合っていた整備工場の間で、お互いに技術を高めあったり、協力体制をつくって、利用者に安心して修理を任せてもらえるような体制を作るという仕事をされているそうです。(高嶋さんの板金塗装修理は本当にきれいです)
最近、いままでの個人主義への反省から、「人」と「人」とのつながりを取り戻そうという動きを強く感じます。
「人」ではなく「人間」であるからには、「人」と「人」のつながりを大切にしながら、よりよく生きてゆくことが大切であることを改めて感じました。
ヨガの語源もつなぐという意味なので、今回のヨガ事業が、「人」としての成長だけでなく、多くのつながりに役立てたらいいなと願っています。
今回のケアンズ旅行でも、素晴らしいつながりがありました。(バーベキューをご一緒させていただきました)
以前、リビングインケアンズで、私の担当をしてくださった秋吉さんご一家。偶然にも、ケアンズに来る前は沼津にいらしたとのことで、しかも、よく通る、通り沿い。
秋吉さんは最近WEB関連事業を立ち上げ、ケアンズ日本人観光協会などのWEBを作成されていたり、ケアンズの役にたてればとのこと。
そして、秋吉さんを通じて、ゴールデンホホバオイルのモニターを頼まれたことがきっかけで知り合ったのが、KOALANDのマネージャーEDDYさんご夫婦。
しかも偶然に、奥様は、5年前に私たちがケアンズで結婚式を挙げたときに、ワタベウエディングで担当してくださっていました。(その節はありがとうございました)
EDDYさんはよい商品を安い値段で提供して、日本の多くの方に使ってもらえるようにと努力されています。
素晴らしいつながりに感謝です。
ケアンズ療法・実践編開始
2010年09月15日
今回のケアンズ旅行では、ケアンズは景気が悪く、うつや気分障害のかたが増えていることを知りました。
ケアンズからの恵みを受け取るためには、こころにアンテナを立てる必要があります。
合理的な思想は、前回までで、ほぼゴールに到達してしまったので、今回からは、実践的な内容にうつしてゆきたいと思います。
ヨガをはじめたり、心医術で紹介しているような、人と世界との関係に注意が向くようになると、ひとのからだを、全体で見ることができる直感が出てきます。
私の外来を訪れる患者さんの中で、不安やストレスに悩まされている方は、大抵、「気」が頭に上ってしまっています。のぼせ顔で顔が火照っていたり、歩き方を見ると、やはり重心が上に移動していますので、少し頭が振れてふらふらしています。
「気」は意識をしないと自然に上がる傾向もあるので、この「気」を丹田(下腹部)に下ろすのが呼吸法を使った、ヨガでのメディテーションや禅での座禅です。
これらは、コツをつかむまでに少し時間がかかるため、今回は、ケアンズからの恵みをいただいて、簡単に下に意識を向ける方法をお伝えしたいと思います。
①まずは、リラックスすることが大切です。そうすると、脳の性質から、不安やストレスをコントロールしやすくなります。朝、日の出前にビーチに行ってみてください。気温や湿度は心地よく、空の色は暖色に変わりつつあり、それが波打際に鏡のように反射してとても綺麗です。今の時期ですと、6:30頃です。朝日に当たることは、体内時計を整え、よい睡眠にもつながります。
②裸足になり波打際を歩いて見てください。海水の心地よい冷たさや、砂が固いところとやわらかいところ、粒子が粗いところと滑らかなところ、足が沈むところと押し返されるところなどの心地よい刺激によって、自然に意識が足に向きます。また、足で砂をつかんで見たり、足を砂の中に沈めて見たり、感触を楽しんでください。
③綺麗な景色を探したりして楽しみながら、これを30分程度(できればより長い時間)続けて見てください。自然と雑念が弱くなり、意識が足に集中します。これはメディテーションをしている状態と似ています。運動不足の解消にもなります。
④メディテーションができる方は、その後に静かな場所を探してやるのもおすすめです。「気」がすぐにたまります。
⑤昼も景色は綺麗ですが、暑さのために「気」が抜けやすいので、やはり涼しい朝をお勧めします。
今回のジャニヤーナヨガ
2010年09月01日
近々、ケアンズを訪れる予定です。
以前に形而上学や禅問答に葛藤することの精神的ストレスについて触れました。
実際のところ、多くの哲学者が、そして、宗教の分野でも、たとえば、キリスト教ではルターが、仏道では釈迦が、精神を破壊されるすれすれのところまで、徹底的に考えることをしています。
私自身も、医学と哲学を足がかりにして、このような葛藤と足を止めて徹底的に打ち合うことを決心してから、5年くらいで、理性は、感性や悟性をサポートするものだということを、ようやく少しづつ理解することができてきました。
多くの哲学者も同じ道を経ていますので、人間に共通に備わった性質なのかとも感じます。
先ほど、何気なく、呼吸法についてネットサーフィンをしていたら、白隠正宗が禅での呼吸法を説いていることを知りました。
なぜ目が留まったかというと、白隠正宗は私が住んでいる沼津出身だからです。
何かの縁かと思い、今回のジャニヤーナヨガは、白隠正宗の夜船閑話に決定しました。
白隠正宗もやはりこのような禅問答での葛藤に徹底的に悩まされ精神を病んだそうです。(これを禅病というそうです)
心医術でも紹介しているような、科学によるストレスの内的なコントロール技術や、ヨガでの実践的な経験は、禅病のショックを和らげ、ジャニヤーナヨガの達成を助けてくれるのではないかと考えています。
そして、現在、安全にジャニヤーナヨガを実行することができる方法を開発できないかと思案しています。
ケアンズに感謝
2010年08月23日
「わたしはずっとまえからあなたに訊こうと思っていたことがあります。あなたは教養がおありです。このような草原にあなたがひとりぼっちになり、太陽がこんなにも茂みを照らすとき、なにかが語りかけているような感じがしませんか。それは耳に聞こえるようなものではありません。それはなにか、自分がどんどん小さくなって、相手がどんどん大きくなっていくような感じです。そのとき、世のなかのささいなことはすべて無に思えるのです。」
前回のケアンズ滞在で、癒し手の方から霊性という概念を教えてもらってから、霊性の分野にも目を向け、研究を進めています。
これは、オットー著.久松英二訳.聖なるもの.岩波書店.中で紹介されている、アフリカ旅行の広告、The Inquirer, 14. July, 1923におけるO. Schreiner, Thoughts on South Africa, London 1923からの引用です。
以前にこちらに書かせていただいた、ココナッツビーチで感じた、自然と自分とが一体に融合してしまう感じと似ています。
1923年にロンドンで発行された広告が、ドイツ人のオットーの心を打ち著作に引用され、それと同じ心理が21世紀に生きる私にも引き起こされたということは、時代や人種に関係なく、幅広く人間に備わった性質であるようにも思われます。
また、ささいなことにこころが乱れそうになるとき、このココナッツビーチでの体験を思い起こすと、語りえぬ安心感に包まれます。
こころの安定に作用するならば、健康に対する恩恵も大きそうです。
このような「語りえぬもの」が霊性に属すのでしょう。
メディテーションの初歩も覚えたので、次回のケアンズ滞在では、いつもよりももっと丁寧に、ケアンズが語りかけてくれている感じに意識を向けてみたいと思います。
ヨガでのメディテーションでは、気を取り入れ、それをからだの外に返すとき、感謝や愛を加えて返すことも大切とされています。
ケアンズから恩恵を受け取ることができたら、ケアンズに感謝や愛を返すことも大切かもしれません。
ハタ・ヨガ開催しました
2010年08月09日
週末はハタ・ヨガのレッスンを開催しました。
一人でDVDを見ながら何度か試したのですが、先生がいるとやはり違います。
先生が与えてくれるエネルギーも、とても大きいのだと感じます。
参加者の方からは、「日本にこんなところがあったのか」、「爽快になった」、「外国にいるみたい」、「また参加します」と嬉しいお言葉の数々をいただきました。
皆様に感謝です。
しばらくクローズドで運営した後(いろいろ不手際がありそうなので)、来年末から再来年始めの本格オープンを予定しています。
クンダリーニヨガ
2010年08月02日
週末は、クンダリーニヨガの集中講座を受講してきました。
最近ヨガの行者で、クンダリーニの最中に脊椎を火傷した方がおられたとのこと・・・。
座って、目を瞑っているだけなのに・・・。
人間もミツバチみたいなことができるんですね。
下腹部に熱感を感じるようになってきたので、エネルギーの経路を作っておかないと(小周天という技術が役立つらしいです)大変なことになりそうです。
感謝の哲学
2010年07月27日
日本は暑い日が続いています。
そのため、ベランダで涼む時間が長くなりました。
ヨガは呼吸に意識を向けることが多いのですが、そうすると、呼吸に必要な酸素はすべて植物が作ってくれていることを思い出します。
そのことを思い出しながら、ベランダで鉢植えを眺めていると、不思議と自分と草花は切っても切れない繋がりがあるのかもしれないという気分になります。
そして、深い感謝を感じます。
ストレスという概念を提唱したセリエは、ストレスを治めるために必要なのは、「感謝の哲学」だと論じています。
案外簡単にストレスは解消されるのかもしれません。
クンダリーニ・ヨガ
2010年07月19日
現在、ハタ・ヨーガのスタジオを計画していますが、私自身は、クンダリーニ・ヨガを本格的にはじめようと考えているところです。
クンダリーニ・ヨガはこちらに詳しい説明があります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%AA%E3%83%8B%E3%83%BC
素晴らしいメリットと、恐ろしいデメリットがあります。
(さわりだけ教えてもらってメディテーションを行っていた時期に、すごい頭痛と紫の点がチカチカしたのを体験したことがあります。MRIを撮ろうかと思ったほどです。)
パンドラの箱のようにも思われますが、私は、単に好奇心からか、それとも真理に光を当てるという哲学的な欲求からなのか、恐れを超えて、いつも、このような箱を空けてしまいます。
しかも、哲学的観想は、進歩的な考えのパラダイムでは、さらにこの上が存在することも予感させます。何かに到達するためには、このパラダイムをエポケーする必要もありそうです。
しかし、無事でいられるかどうか・・・。
もし、いずれ、できるようになりましたら、簡単かつ安全に獲得できる方法をお伝えしたいと考えています。
すこしづつ、内面を探りながら、注意深く、ゆっくり進んで行きます。
YOGAプロジェクト進行中
2010年07月14日
現在、いくつかのプロジェクトを進めています。
その一つが、ケアンズやアジアンリゾートで開催されているような自然の中でのヨガを、日本(伊豆の国市)でも手軽に体験できるようにするということです。
慢性疾患の管理ともリンクする予定です。
もうすぐ、多目的ステージが完成します。
小鳥のさえずりや木漏れ日に包まれて、朝日を浴びながら、自然の中でのヨガはなかなかよいものです。
8/7 AM7:00より、ヨガのインストラクターをお招きして初回テストを予定してます。
現在、モニターを募集しています。
初歩的なアーサナにしますので、経験のある方もない方もウェルカムです。持病のある方は事前に主治医への確認をお願いいたします。
ご興味のある方は、8月はじめ頃に申込書を送りますので、orientalia@hotmail.co.jpまでご連絡ください。(定員6名無料です)
自然にある時間
2010年07月06日
フリードマンは時間の捉え方と病気の関係を明らかにし、腕時計を「左手にある魔物」と目の敵にしています。
言い過ぎのような気もしますが、時間と健康には、奥深い係わり合いがありそうです。
主体と客体のどちらかを切り離して考えることができるようなると、日頃は一定だと疑わない時間も、実際には一定ではないことに気づくようになります。
まず、主体(自分)だけを考えたとき、時間が一定ではないことはすぐにわかります。
例えば、楽しいときや忙しいときには早く時間が過ぎ、退屈なときにはゆっくり時間が過ぎます。
そればかりか、誕生日ごとに、生まれてからの暦年が、あっという間だったと感じることもあります。
つまり、生体活動、精神活動によって変化することがわかります。
では、客体(世界)だけを考えたときはどうでしょうか?
これを究明したのが、アインシュタインによる相対性理論です。
結論だけ述べると、客体でも、時間は一定ではなく、長くなったり短くなったりします。
では、どのようにして、時間は一定だという感覚が染み付くようになったのでしょうか。
あえて道具主義的な価値観から、ひとつの理由を思い浮かべると、時間と生産性が直結するようになると、無駄な時間を節約し、より多くの生産性に振り分けようとする動機になります。
人間は生産するときに協力し合いますから、時刻で同期することによって、待ち合わせによる時間の浪費をなくすことができます。
その結果、同期のための便利な道具として、一定のリズムを持つ天体運動や、目に見えない原子運動を目安にして、現在のグレゴリオ暦や、時分秒の時刻系が発明されたと考えることができます。
ここぞというときには、ピッチを上げることも大切です。
しかし、あまりにそれが常日頃になるにつれ、単なる道具を絶対的な基準と錯覚するようになり、時刻に、強引に生体リズムを合わせることが習慣になったとき、ミスマッチが生じ、様々な不具合が起こるようになるのかもしれません。
このようなときには、発明による時刻を、絶対的なルールではなく、便利な道具として取り戻すこと、自然な時間の流れに身を乗せることが必要になるのではないかと感じます。
ケアンズに行ったら、日常から離れ、自然にある時間の流れに意識を向けてみてください。
時刻ではなく、美しいサンライズやサンセットといった、自然にある時間と同期した、自然な起床と就寝のリズム、食欲のリズム、必要なときに偶然に湧いて出る、突然の素晴らしい思い付きといったような本来の脳の働きなど、人間に本来あるべきリズムを思い出すことができるような気がします。
日本の文化は、何にも優先して時刻を守ることが大切というふうな教条主義に囚われ過ぎているようにも感じます。
そのようなとき、ケアンズは、フリードマンが教えてくれた、心臓病や代謝異常、精神疾患のリスクから救ってくれるかもしれません。
ゆっくりの大切さ
2010年06月29日
最近、いくつかのアイデアを実現するために、自分ではできないことを、人にお願いすることが多くなりました。
そうすると、締め切り時間に間に合わず、謝られてしまうことも多くなりました。
日本で仕事の打ち合わせをすると、
「ごめんなさいまだ終わっていません」
「いえ、ゆっくりでいいですよ。気にしてませんから」
「いえいえ、それではいけません。必ずいついつまでに終わらせます」
そのいついつが何度か延長され、また謝られてしまいます。
こちらも何か申し訳ない気分になり、「誓ってはならない」という新約聖書の教えが思い出されたりもします。
時間と病気の関係も知られています。
あまり時間に追われるとことは、精神的ストレスになり、心血管疾患や精神疾患の危険因子であることがわかっています。
それだけでなく、単純な労働ではない、良いアイデアを出すことを必要とする仕事の場合には、リラックスした環境で、脳が十分に機能することが望ましく、アッという思いつきのために、脳の神経間結合の変化が必要であるという、物理的な制約にとらわれますから、やはり、あまり時間に追われることはよくないのではないかと考えています。
そのため、時間だけにとらわれすぎると、結果が出ずに気ばかりあせることになるのかもしれません。
どのように頑張っても、3分間のカップラーメンのようには、すぐに結果が出ないのがガーデニングです。
裏庭のクレマチスですが、土作りに2年、植えつけから3年でようやく屋根に届くまでに成長しました。(ミミズコンポストなしで)
ただし、最短で達成する努力もしています。
一年目は花つきは期待せずに水と肥料を十分に与えて、葉と根をできるだけ成長させ、2年目以降は花つきをよくするために、水と肥料を絞り気味にして日光には十分に当てるという戦略をとっています。
植物を育てていると、必要な結果のためには必ず必要な時間があり、かといって、色々な工夫をすれば時間を節約する方法もあるという、悩ましい事実を教えてくれる気がします。
ケアンズにいると、ゆったりとした時間がすぐに流れてしまうような気がします。
次回は、このように健康とかかわりを持つ、時間について考えてみたいと思います。
男性脳?
2010年06月09日
ガーデニングをしていると自分の性格に気付くことがあります。
男性脳の特徴の一つは、恐らくロマン主義的構造主義。
つまり、ある崇高な理想を一つ設定して、そこにたどり着くまでのステップを、メリットとデメリットを一つ一つ計算しながら、さまざまな選択を経て、最短距離で理想に近づくというものです。
結果だけでなく、このプロセスにも楽しみがあります。
ガーデニングでの崇高な目標のひとつは、できるだけ多くの花を咲かせることです。
崇高な目標なので最優先されます。
手入れをしなくても自然にバランスが取れることも目標にしているので、もっとも根本的なところは土作りになります。
普段、有機肥料と、化成肥料を使い分けながら育てているのですが、ある日、不幸にしてひとつの知識を得てしまいました。
ミミズの糞は、化成肥料と、他の有機肥料よりも3倍程度よく育つということです。
有機肥料も化成肥料も植物に使われるときには無機態になるので、効果はほぼ一緒。
違うのは、作用時間なのですが、ミミズの糞は、豊富な肥料成分に加えて、微生物の配合がとても良く、病原菌が少ないという特長があり、理にかなっています。
10万匹、いや100万匹のミミズコンポストを作ったら素晴らしくなるだろう、と、妄想を膨らませます。
このときの妄想の先にある、手に入れたいものは、もちろん美しい花なのですが、100万匹のミミズも花と同じに美しくなるパラダイム変換が起こります。
このときには、すでにミミズが、一般的に女性にどのように受け止められているかという普遍は吹っ飛び、見えなくなっています。
妻もきっと喜ぶだろう・・・、と思いつつも、無意識的な一抹の不安を感じるため、
「ミミズコンポストを作りたいんだけど。とりあえず1万匹くらい。」
と控えめに伝えて様子を伺うと、妻の表情がこわばり止まっています。
「絶対にやだ。」
現在、ケアンズのようなエコサイクルなガーデンを目指しています。
そして、いかにミミズコンポストを手に入れるかを、思い描いています。
ココナッツビーチ
2010年06月02日
ココナッツビーチには足跡一つ無く、人間の痕跡が何一つ無い景色が、視線の届く限り広がっています。
以前、「個」の範囲について書きましたが、ここ最近、話の流れが、個の認識を一度問い直すという方向性になっていますので、この流れに沿って、もう少し掘り下げて、ケアンズで、どのようにそれを経験できるのかを考えてみたいと思います。
発達心理学の分野では、「私」という自我が成立するのには、母子のケアが必要とされています。
つまり、乳房が口についたり離れたりしているうちに、どうも乳房と「私」は性質が違うのではないかということに気付きます。
そして、それがもう一段階すすむと、「私」と母親という、原初的他者の認識が生まれます。
最終的に、宇宙から分離された一つの個体である「私」が認識されるわけです。
これが、恐らくは「オッカムの剃刀(ケチの原則)」。
つまり、生活する社会や文化の中では、脳が何かを認識するのに最も苦労を必要としない方法であるがために、問い直すことをしない限り、一生にわたり、「私」と「対象」という認識を持ち続けるのでしょう。
ところが、普段の生活環境とは全く異なる、ココナッツビーチのような視線の届く限り人工物が存在しない、広大な自然の中に入ると、他者と認識している対象が、何も存在しないという不思議な感覚に包まれます。
これは、他者の痕跡に囲まれている都会で、一人で部屋にいるときの孤独とは異なり、なにか永遠に自由な「私」だけになったような錯覚を引き起こします。
おそらく、空想ではなく、実際的な体験として、他者の認識がエポケーされるのでしょう。
その結果、他者の相対として認識されている「私」もエポケーされるのかもしれません。
「私」と自然が一体にでもなったかのようで、スピノザの理論のように、自然を含めた世界そのものが神であり、そうならば、「私」も神の一部だという汎神論にひたるのもよいでしょう。(これはメタフィジクスなのであまり深く考えないでください。)
そして、何か救われる気がします。
ココナッツビーチで、一度この感覚を経験して何かに気付くと、「私」と信じている「私」は、実はもっと色々な形態に変化したり、成長したりすることができる存在ではないか。
「私」を誕生したときにまでリセットし、私でいることもできるし、私から少しづつ離れて、自由になることもできるのかもしれないという発想が生まれるような気がします。
追記
以前、松本先生がエッセイの中で、第二次世界大戦中に米国軍が恐れたのは、日本人の他人のために死ねる精神だと書かれていたのを思い出しました。私はパックス・アメリカーナの影響を受けた文化の中で育ち、個人の尊重や自由を楽しみ、それにとても感謝しています。その上で、日本の風土は、個の殻を破る力を与えてくれているのかもしれません。松本先生のエッセイからは、いろいろなことを勉強させていただき、また気付かせていただきました。この場を借りて、お礼申し上げます。ありがとうございました。
哲学で霊性を考える
2010年05月24日
今号のリビングインケアンズ、スピリチュアル(霊性)特集が届きました。
ちょうど、アボリジニの世界観と健康を合わせた論文を書いていたところでした。
しかし、テーマがテーマだけに、学会誌に投稿するにはもう少し熟成が必要かと思っていたところでした。
良いタイミングでしたので、少し長いですが、ご興味がありましたらご一読ください。
-----以下論文-----
WHO(世界保健機構)は健康を、「完全な肉体的、精神的及び社会的福祉の状態であり、単に疾病または病弱の存在しないことではない」と定義している1)。これは、半世紀以上前の定義であり、個々人の意識や、外部環境が変化した現在では、普遍性を失いつつあるといえる。改正には至らなかったが、1999年のWHO総会では、健康の定義に、霊性(スピリチュアル)を含めることが提案された2)。その後も議論は続き、Awofesoは、21世紀の健康とは? と問い、生-死-生のサイクルを特徴とした、オーストラリアアボリジニの健康概念に触れ、WHOの健康定義を、霊性を含めて再定義することを提案している3)。統合医療の分野でも、霊性を含めて考える動向が見られる4)。
霊性という、心身に対して上位の感覚を希求すること。そして、現代社会が失ったものを、原始社会の中に見直す動きは、矛盾や閉塞感を伴う現代文化に対しての、反動形成や逃避、退行であると受け取ることもできる。しかし、アボリジニの文化に見られるような、生-死-生というサイクルは、過去生や死後の世界が存在するのではないかという、通文化的な直観でもある。
また、霊性を病気の解決に役立てる動きも見られる。その一つとして、前世療法があげられる。Weissは、被験者が退行催眠中に、生前の記憶を話しはじめ、そのことが心的外傷に対して治療効果をもたらしたことを報告している5)。催眠によって得られた前世記憶の多くが空想の産物であるという批判がある6)一方で、史実と照合し、本当の前世の記憶としか判断できないとする報告もある7)。世迷い事から目を背けたいという気持ちから、すべてが捏造されたものであると疑うような、徹底的懐疑の立場を取ることは簡単であり、普通でもある。ところが、理論上においては輪廻は存在可能である。今回、前世を足がかりとして、哲学的手法で霊性を考察してみたい。
前世とは、「私」はかつて、時間的接点のない、ある人物を生きたというふうな、過去生であるといえる。この、過去の「私」、という存在を、概念として、なんとなく感じることのできる無意識の観念がある。この、過去の他者と、現在の自分を繋ぐ媒質が魂の一部ではないかと推測している。
ここで、過去生が存在すると仮定したときに生じる、大きな疑問を考えてみたい。過去生を感じるとき、いったい、自分自身のうちの、何が、過去を生きたのかという疑問が起こる。我々は普段、「私」というとき、一塊に移動できる、意識を伴う、強い物理的結合を持った有機体を意味する。身体は死んだらそれまでであるから、過去を生きたのは、現在の心身を持った、日常的に「私」と感じる、自分自身そのものではないことは明白である。ここから、日常的に感じている「私」と、過去生を考えるときの「私」の間に差異が生じる。この差異から、ひとつの要素を取り出すことができる。全く接点をもたない別の人間に対して、身体を含まない「私」を投射することによって、過去生が成立している。したがって、「私」とは、身体を必ずしも必要としない何かである。そして、その何かには、自分以外に「私」を感じることのできる感度が含まれていることがわかる。つまり、過去生という概念を理解するためには、「私」という、個に対する固定観念を、捉えなおす必要がある。
一方、「私」という人間の本質を、Dawkinsが主張する、肉体は遺伝子の乗り物である8)というほどまでに、遺伝子や、物質的な身体そのもののような、物質に還元したときには、死んだらそれきりであり、前世や来世は存在しない。現代人の多くはこのような感覚を持つのかもしれない。しかし、人間の本質が、物質のみからなるという、極端な実存主義的な捉え方はむしろ不自然である。人間の身体は、絶えず外部世界から物質を取り込み、外部世界に老廃物を排泄し、成長や老化しながら変化している。非自己を取り込み、それが自己となり、また、それが外部に排出されると非自己になるのである。自分であったものが自分でなくなり、自分でなかったものが自分になるということが生涯にわたって繰り返されている。「私」とは、自己と非自己が交錯するダイナミック(動的)な存在であり、つかみどころがない。にもかかわらず、厳密には時間軸に対して同一ではない、常に変化する身体を、一生にわたって、同一の「私」、とみなす観念がある。したがって、このような同一性を生み出す感覚は、極めて近似的な観念であることがわかる。この観念はアイデンティティ(自己同一性)と類似と考えても良いだろう。
現代社会では、アイデンティティを失うことにより、アパシー(無気力)に陥る危険性があることから、生きてゆくために、社会や文化といった外部世界が、「私」を、身体や、場合によっては、会社組織、高級車、高級時計に、封じ込めることを要求しているのかもしれない。「私」が身体と限りなく一致すれば、物質として時間的に有限な身体が死んだとき、「私」は終わる。これは、ディオティマの言葉「人間は激しく不死なるものを恋し求める」に表現される、強いエロス(恋)的な欲求と強く拮抗する。身体という、外部世界との明確な境界と、生涯にわたる絶対的な同一性を信仰する、強い個、強い主観が、過去生を強く否定するのであろう。その結果、永遠を望む、人間的欲望との間で強い葛藤が生じるのかもしれない。
それとは逆に、輪廻転生の概念を持つ、アボリジニは、「私」と外部世界との強い一体感を持つ。つまり、「私」が、身体の境界を限りなく超え、外部世界という、永遠そのものと究極的に一致しているように見える9)。
現代人は、このようなアボリジニが持つ感覚を、歴史の過程で個人主義、ヒューマニズム(人間中心主義)と引き換えに手放したと考えることもできるだろう。一方で、近年、環境問題の深刻化から、ヒューマニズムを脱却し、人間と自然との一体性、調和性を深めた、ディープエコロジー10)に代表される、「私」と外部世界との、強いつながりを意識する思想が生まれつつある。このような、霊性の成長による、個人の自由な選択の結果としての集合的な思想は、現代を生きる我々においても、永遠の感覚を手に入れることができることを予感させてくれる。
前世が存在することは、必然的に来世も存在することにつながる。「私」が自分自身という固定観念の束縛から離れ自由になり、他者や自然、宇宙といった外部世界との間にある深い関係に気付き、それらを大切にする心のありかたが芽生えると、前世の感覚も自然に芽生え、プラトンやラカンをはじめとする多くの哲学者が希求した、永遠の魂と、何よりも健康をもたらしてくれるのではないかと考える。
1)WHO. Basic Documents, Forty-fifth edition, Supplement, 2006, WHO Webpage http://www.who.int/governance/eb/who_constitution_en.pdf page accessed May 5, 2010.
2)厚生省大臣官房厚生科学課.WHO憲章における「健康」の定義の改正案について.第14回厚生科学審議会研究企画部会議事録.資料1.健康定義改正案を審議した第101回WHO執行理事会会議の議事録要旨. 1999.
3)Awofeso N. Re-defining ‘Health’, WHO Webpage, http://www.who.int/bulletin/bulletin_board/83/ustun11051/en/ page accessed May 5, 2010
4)アジア統合医療会議.メディカルトリビューン 2010年5月13日版. 東京. メディカルトリビューン株式会社. 2010: 34-35
5)ブライアン・L・ワイス. 山川紘矢. 山川亜希子(訳). 前世療法. 東京. PHP文庫. 1996
6)Stevenson I. A case of the psychotherapist’s fallacy: Hypnotic regression to "previous lives." Am J Clin Hypn 1994; 36(3): 188-193.
7)Linda T. An Unusual Case of Hypnotic Regression with Some Unexplained Contents. J Am Soc Psych Res 1990; 84(4): 309-344
8)リチャード・ドーキンス. 日高 敏隆. 岸 由二. 羽田 節子. 垂水 雄二(訳). 利己的な遺伝子 増補改題「生物-生存機械論」. 東京. 紀伊國屋書店. 1991
9)ロバート ローラー . 長尾 力(訳). アボリジニの世界 ドリームタイムと始まりの日の声. 東京. 青土社. 2003.
10)Næss A. The Shallow and the Deep, Long-Range Ecology Movement. Inquiry 1973; 16: 95-100
問い:無私になれ
2010年05月14日
禅問答に、「無私になれ」というものがあります。
東洋思想を持つ方と話をすると、この難問に果敢にチャレンジする方がいらっしゃいます。
意地悪なことに、無になる→消滅する→死ぬという変換までできてしまうので、人によっては死を恐れないという結論に達する人もいます。
これから述べてゆくように、これはこれで無数にある一つの答えですが、このような破壊的な道筋に、人を陥れる問いが許されていいのかという憤りも感じます。
今回は、気分転換に、哲学と言語認知の脳科学をミックスしてこの問題を考えてみたいと思います。
まず、この命題を要素に分節します。
ある程度意味のわかる範囲まで分節すると「無」「私」「なれ」となります。
そして、それぞれのパラメータを考えます。
まず、最初に「無」を考えてみましょう。
これが最初の罠です。
この問いの罠は、思考を「無」という言語の一般的な意味に縛る言語認知の罠です。
デカルトが「われ考えるゆえにわれあり」といい、絶対的な存在を示したのに対して、「絶対無」というものは、われわれの認知においては存在しますが、客観事実では存在しえないのです。
したがって、答えにたどり着くことができる(問いであるならば、答えにたどり着くことができなければなりません)、ここでの「無」は、われわれを縛り付けている一般的な言葉の「無」ではなく、それ以外の「無」という概念、または意味、もしくは感じ方などを指します。
絶対的な「無」は不可能ですが、相対的な「無」は可能です。
この場合、絶対的な「無」を指しているように勝手に感じてしまうのですが、絶対無はデカルトのいうように、事実としては無可能性です。
答えがあるならば、空間内の移動などに伴う相対無ということになります。
一方で、もし、脳の思い込みにしたがって、「絶対無」と考えたときには、二つの可能性に収束します。
一つは、問題が解けない。
もう一つは、普遍ではなく、最初に述べた死への変換のような、ある状況に対する無限の種類のうちの一つの答えに収束します(解けないことと限りなく近い)。
つまり、普遍的な答えがあるとするならば、この質問の「無」は、われわれが通常感じている「無」とは違う意味をさすのです。
次に、「私」です。
実は、「私」も思い込みです。
よくよく考えてみると、「私」という絶対的な基準はなく、絶えず変化します。
生まれてから、死ぬまでの間、絶えず身体という物質は、外界から様々な物質を取り込み、また排出し、成長、老化し変化しています。
にもかかわらず、現実には同一ではない自分を、同一と見なす感覚(これを拡大すると、前世という接点のない他人と、自分とを同一と見なす感覚があります。これを私は魂の一部と考えています)があります。
われわれが普段信じている「私」というのも、言葉という形式が指すもの、単なる信念であって、客観事実とは別のものなのです。
つまり、「私」も「私」で無くなることが可能です。
「なれ」も同じような発想で様々に解釈できますが、面倒なので省きます。
まとめると、「無」も「私」も絶対的な一つのものではなく、無限に変化することができるのです。
無限は「無」と限りなく近いものです。
そうすると「無私になる」というイメージが見えてきます。
ここまでは、主体(自分)の観点から考えましたが、もう一つが、客体(自分以外)との関係です。
「無私」の形態が無限にあるので、客体との関係を考えると、「無私になる」という場合、どのように無私になるかという選択もまた無限にあります。
そのために、あらゆる状況に応じて、それに対する「無私」が、無限に思いついてしまうのです。
自分から主体や客体の要素だけを停止すること。
これを、エポケーといいます。
したがって、強く結びついている主体と客体を分離できないと、つまり、どちらかをエポケーできないと、ここでも無限ループの罠にはまります。
これは、強い精神的ストレスになります。
日常でもこのような無限ループに陥ることが良くあり、しばしばいざこざに発展するように感じているため、これが解決できるようになると、精神が生きることがとても楽になる様な気がします。(そのために、医師として、簡単にできるようになる方法を探求しています)
こう考えると、「悟り」とは、自分の感覚や固定観念の緊縛から「自由」になるという要素を持つのかもしれません。
Meditationの射程
2010年05月11日
ケアンズでセッションを受けさせていただいた癒し手の方から、日本にある、安心なMeditationの施設を教えていただき、今週末に受講の申し込みをしていました。
今日、インターネットに繋いだところ、このような記事が。
70年間断食は本当? 聖者の「ヨガパワー」を検証中、インド
http://www.afpbb.com/article/life-culture/health/2722468/5685631
70年断食の印ヨガ聖者、科学者も仰天
http://www.afpbb.com/article/life-culture/health/2724999/5722973
本当に仰天です。
なんでも、Meditationからエネルギーを得ているそうです。
自身をコントロールするのに(そもそもコントロールという概念が支配する側とされる側という観点で、ヨガ的でないのですが)、Meditationはどれだけの射程を持つのでしょうか?
週末が楽しみです。
楽観思考とプラス思考
2010年04月22日
先日、ビリーブートキャンプをやっている最中にビリーバンドが切れました。
はじめてから、毎日続けて3年目。バンドが切れたのは3セット目です。
それまでは、スポーツジムに行ったり行かなかったりで、なかなか運動の効果を体感することができませんでした。
現在は、色々工夫を重ねて、運動は面倒な習慣ではなく、楽しい習慣へと変化することができています。
その方法の一つが、何もしなくてもなんとかなるという楽観思考ではなく、努力をすればきっと良くなるという、将来を望み、達成を信じるプラス思考が、良い行動に導いてくれるのだと考えています。
楽観思考もプラス思考もいくらか不安を解消してくれます。
患者さんに病気の説明をするときに、不安の持つメリットとデメリットのバランスをどのようにとるかが難しいところです。
不安は精神的ストレスになる一方で、不利益を避けるために、不適切な行動を避ける原動力にもなります。
病気への不安によるストレスは、自然治癒力や、生活習慣を改善しようとするやる気を妨げてしまいます。
そのため、患者さんに病状の説明をするときには、必要以上に不安を与えないように心がけています。
逆に、あまりに病状を楽観しすぎる患者さんもいます。そして、しばしばそれをプラス思考だと思い込んでいるようです。
楽観は逃避と解釈することもできます。
逃避にもメリットはあり、ストレッサーからの逃避はしばしば、ストレスの解消に役立ちます。
その結果、ストレスが主な原因になっている不具合が、自動的に解消されることはあるかもしれません。
しかし、なるようになるさと運命に身をゆだねても、必ず良い結果にはならないのが、われわれの生きる世界です。
楽観は、常には、幸せに導いてくれません。
そのため、それを知っている「こころ」は、楽観を選択するとき、無意識に警鐘を鳴らすのかもしれません。
一方で、プラス思考は、ものごとをありのままに前向きに捉え、期待した結果への、行動や努力を促します。
私は、プラス思考とは、ある事柄の良い面と悪い面、つまり、メリットとデメリット、不安と期待などを正確に捉え、悪い面を意識しながらも、良い面によりフォーカスを当てることだと考えています。
ただし、楽観が、状況にとって最も良い選択肢であり、プラス思考の結果として選択されることはあるかもしれません。
ケアンズにいると、日本にいるときよりも、悲観やマイナス思考が抑えられるような気がします。
そして、現在、不安の代わりをする、「何か」を探求しています。
スピリチュアリティ(霊性)
2010年04月11日
次号のリビング・イン・ケアンズはスピリチュアル特集という案内をいただきました。
私は、白状すると、つい数年前まで、それは頑固な「科学原理主義」でした。
つまり、科学こそが絶対的に正しく、真理に到達できるたった一つの手段だと信じていました。
今は、そうではないことに気付き、いうなれば「科学道具主義」になっています。
つまり、科学は、現在のところ人間が使用できる、ある目的に到達するための、ある状況での、最善や次善の策を提示する、便利で確実な道具だという立場に変化しています。
さて、「魂」、「真理」や「絶対的存在」といった、形而上的存在に助けを求めずに、とにかく最善に向かって、行けるところまで行ってみようという方法は、「機械論」といわれています。
「心医術」は、最善の健康や幸福を目標として、「機械論」を展開させていただいているのですが、ある段階まで到達すると、どうも、「魂」、「真理」、「絶対的存在」、そういったものが、チラチラチラチラしはじめます。
何かがありそうなので手を伸ばしても、決して掴むことのできない何かです。
人間には、このような何かを感じとることのできる本性があるのではないかと考えています。
考えることだけで、この答えを無理に求めようとすると、ニヒリズム(虚無)という、底なしの無力感に嵌まり込んでしまうこともあるといわれています。
そのため、考えるだけではなく、実際に経験すること。
ヨガのような伝統的技術や、スピリチュアルワークなどの分野での、言葉では表現することのできない、体験的理解が役立つのではないかと考えています。
そして、喩えていえば「スピリチュアリティ道具主義」のように、スピリチュアリティを病気の奇跡的回復や幸福のための道具に使おうとすると、高いお金を払ったのに、期待したほどの効果がないといったような、痛い目に合うような気がします。
スピリチュアリティの実践は、人智を超える超越的なものを実体験し、感じること自体が目的であって、健康や幸福は二次的にもたらされるものとしたときに、素晴らしい価値をあたえてくれるのではないかと考えています。
ケアンズには、この分野で、人間とは思えない、凄い方が多くいらっしゃいます。
しかし、準備もなしに、このような未知の領域に突撃するのには、大きな勇気が必要になります。
スピリチュアル特集は、とても良いガイドブックになってくれるかもしれません。
楽しみです。
偶然といえば・・・
2010年04月02日
偶然の出来事に、常識という、自分の中に設定された思い込みを超えて、起こりえないことが起こると、その中に意味やメッセージ性を見出し、何か神秘性が生まれるのかもしれません。
以前、ケアンズでこんなことがありました。
スミスフィールドのショッピングセンターを歩いていると、
「ちょっと!!!!!ちょっと!!!!!」と妻が興奮しています。
指を向けた先に目にしたのがこれ。
雑貨店のオーダークッションのコーナーに、妻と娘の名前のクッションが並んでいました。
妻は"Mia"。娘の名前のパスポートの表記は"Sara"ではなくて"Sarah"。
なぜ、偶然に、並んで通りかかった二人の日本人の名前が、ケアンズに二つ並んで存在するのでしょうか。
しかも、偶然に服の色と模様の並びまで一緒です。
無意識の領域に意識を向けているせいか、昨年あたりから、このような普通の偶然ではない偶然が良く起こります。
ちょっと怖いです。
この怖さの根源には、人間が理解できない領域に対する無力感、自分自身の人生を、自分の力では完全にコントロールできないことを思い知らされるためではないか、などと想像しています。
心理学や、思想・哲学をベースにして、新しい見方をはじめたので、細かなことにまで意識を向けるようになったのだと、自分に言い聞かせています。
芸術と癒し
2010年03月25日
前回のケアンズ滞在での思索で、フランクルの「それでも人生にイエスという」から、人間にとって、生を繋ぐための最も強い欲求は「食欲」であること。
そして、「愛情」「思いやり」「美」「希望」といった人間的感性は、「食欲」という、本能のレベルでの最も強い一次欲求でさえ、超えるのではないかという洞察に導かれました。
「美」と芸術が持つ、強い癒しの効果を、より強く信じるようになりました。
より高度な人間の根源に響いた副産物として、現実的な健康やウェルネスに役立つのではないかと考えています。
将来、やさしい自然療法を行うクリニックにしようと考えている山小屋の駐車場に、タイルを使ったモザイクアートで、「心医術」のフィロソフィーを表現してもらうことにしました。
万物の根源である虹蛇が通り過ぎた跡に、ジェンダーなどの二対性に分かれ、花粉、男性、地球とめしべ、女性、未知なる宇宙といった進化の過程、現実性と神秘性を、いくつかの心理学的なエッセンスを注入して、デザインしてもらうようにお願いしました。
人それぞれ、感じることもそれぞれでしょうが、人間の本質には「分かれたい」と「ひとつになりたい」などの様々な相矛盾する性質があることや、それらの間で調和をとることの大切さなど、色々なことに気付いてもらえたらと願っています。
「万物の根源」や、「全てを一つにするもの」という、フィロソフィーを超える叡智の領域、そして、現実的な相矛盾を考えるストレスを、芸術が補い、和らげてくれるのではないかと期待しています。
今回から、コラボレーションをはじめたのは芸術家の小堺さん。
リビング・イン・ケアンズ、小堺さんのお力を借りながら、癒しのグッズの開発もすすめています。
皆様に感謝です。
「存在」
2010年03月19日
Seijiさんのブログでもご紹介いただきましたプロジェクトです。
常識的な人であれば、疑いようの無い、確実なひとつの意識からスタートして、哲学が目標とする、「こころ」の中に宇宙のような無限の広がりの意識を持つことをゴールにした本の執筆を開始しました。
スタートは、デカルトの知恵を借りて、「存在」にしました。
自分が「存在」していることだけは、どうやっても疑うことができないからです。
ここから、わずかでも離れると、実はすでに無限が待ち構えています。(「存在」とは何かという問いにはまると、痛い目に合うことがわかっているので、今回は「存在」とは全ての人の了解事項ということを前提にします)
遭難することなく、ゴールにたどり着くことができるかどうか、無限への旅にわくわくしています。
美と認識
2010年03月10日
リビングインケアンズからのつながりで、現在、芸術家のSEIJIさんとコラボレーションをさせていただいています。
美の超能力者の方々による、アトリエインカーブ展の紹介をされています。私も先日、浜松を訪れたときに行ってきました。
私は知的障害という言葉があまり好きではなく、なぜなら、大多数の標準的な知的水準が正常で、それ以外は障害だと、どうして価値を決め付けることができるのだろうかという疑問が起こるからです。
それはさておき、自分とは異なる認識プロセスを持つかもしれない方々が、どのような世界を感じ表現されているのかは、とても興味がありました。
作品を鑑賞すると、美よりも、なぜこのような表現が生まれるのだろう、世界の本来の姿とはどのようなものだろう、という認知的、哲学的興味が先立ちました。
私は、虹のような、色に溢れる配色が好きなのですが、普段は選ばないようなデザインのブックカバーを購入しました。
読書の目的のひとつは、他者の考えや経験を通じて、自分の中に、自分に無かったもの、非自己を創造することだと考えているのですが、芸術にも似た要素があるのかもしれないと思い、このブックカバーが、何かぴったりのように感じられたからです。
「人は、人生を始めてから、徐々に芸術を始める」1)というのは三島由紀夫の言葉です。
芸術には、自己成長をしてはじめて感じることができる、意識の中に、美を創造することができたときの喜びを、心待ちにする要素もあるのかもしれないと思いました。
参考文献)
1)三島由紀夫 (1996) 若きサムライのために 文芸春秋
津波のおかげで
2010年03月01日
週末は、肝臓病の研究会や、講演の依頼など、都合の良いことに色々なイベントが重なり、浜松に行ってきました。
しかし、帰りは、津波のために、自宅に向かう全ての道路が通行止め。
早々にあきらめて、手前の静岡で、もう一泊することにしました。
今朝は、東に向かう早朝のドライブでした。
そのおかげで、海に昇る、美しい日の出を見ることができ、ケアンズの日の出を思い出しました。
オレンジの朝日を浴びながらのドライブもなかなか良いものです。
色々な、良い出来事と悪い出来事の間には、深い関係があるのかもしれないなどと思いました。
プロフィール
- ymitsui
- 三井 康利。 1972年静岡県生まれ。 1997年北里大学医学部卒。 内科医。 現代西洋医学と補完代替医療、思想・哲学の良い点を取り入れ、ホリスティック(全人間的)な視点から医療を考察・提案。 臨床医として日常診療に役立てている。 資格:日本内科学会認定医、日本補完代替医療学会学識医、日本温泉気候物理医学会温泉療法医、日本旅行医学会認定医、日本消化器病学会専門医、日本消化器内視鏡学会専門医。
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