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エッセー, ケアンズで輝く人インタビュー
ヒルトン・ケアンズ総支配人
2008年09月23日
変革を続ける、ケアンズ
ヒルトンホテルのパワー源
ガイ・ハッチンソンさん
ヒルトン・ケアンズ総支配人
Profile
Guy Hutchinson がい・はっちんそん
1968年2月23日ベネズエラ生まれ。南アフリカで就学後、ロンドンでホテルマネージメントプログラムを終了。フォートホテルを経て、ヒルトンインターナショナル社へ。アムステルダムでビジネスデベロップメント、デュバイでのマネージャー職を経て、2002年から3年間ヒルトン東京ベイでオペレーションディレクターを勤める。売上1.3億USドルと、ヒルトングループの中でも屈指のホテルに育て上げた仕掛人の1人。2005年より、ヒルトンケアンズ総支配人として数々のプロジェクトを成功に導いている。
この8年間で3大陸4ヶ国で仕事に取り組んで来たハッチンソン氏。
軟らかな物腰と、様々な文化を柔軟に受け入れながら対応するスマートさ、そして「1日たった1つでも変化を起こす」という前向きなエネルギーが溶け合い、「真の国際人」と言う言葉を思わせる方だ。
「毎日必ず1つでも前に進むよう努力しています」
ヒルトンという国際企業のホテルマンとして、各国で遂げて来た彼の足跡は大きい。
例えば、2005年までの3年間就任したヒルトン東京ベイでは、東京ディズニーリゾートのオフィシャルホテルとして既に高かったブランド力に頼ることなく、ユニークな発想で新風を次々と吹き込んだ。「3年間ミッキーマウスづくしさ(笑)。ホテルに住んではいたけど、自分の部屋はミッキー禁止(笑)」
取り組んだプロジェクトはこんな具合だ。ホテル上部のスカイバーだったエリアに45部屋を増設。(このうちの1つである、子どもが喜ぶ仕掛けがいっぱいのファミリールームは、ベスト・ニュールーム・コンセプトという国際的な賞を獲得した)
また、当時はまだまだコンサバだったホテルのレストランシーンに、レボリューションを起こした「スクエア」を700万USドルかけて新設。ニューヨークのトップデザイナーに依頼したという店内は、アジア、地中海、バーとテーマが分かれ、各セクションが川やガラスの滝など水の流れで区切られた開放感あふれるインテリアとなっている。スタイリッシュな空間と、半オープンキッチンで、各国のシェフが目の前で料理をしてくれるビュッフェ、というユニークなコンセプトが大きな話題を呼んだ。
1日に2000人の人が訪れる人気レストランに育てるために、話し方や立ち振る舞いを学ぶよう、ウェイトレスを東京のトップクラスのモデルスクールで2週間の研修を受けさせるといった徹底ぶり。更に、マジシャンを呼んで子ども達の前でパフォーマンスをしてもらったり。
デュランデュランのサイモン氏に、スクエア用のコンピレーションアルバムをプロデュースしてもらったり。
レストラン=食事という従来の考えを快く打ち破ってきたその理由は、「ホテルのレストランシーンを変えたかったから」。
常に、新しい喜びをお客様に提供したいというホスピタリティ精神は、月に1度、各界の著名人とコラボレーションしたイベントを行うなど、留まることを知らない。
今までにないものを作り出す創造性の源は、「たくさん旅行をして見聞を広めてるからかもしれない」と分析する。
ただし、アイディアを出すのは楽しい部分。「ビジネスとして結果を出したかったら、ファイナンスに焦点を当てなければ」ときっぱり。
どの職場においても、何ができるのか、何が求められているのかを常日頃から考え、毎日何か1つでも変化させている。
「そこにあったものをこっちに動かす、大きな工事をする・・・内容の差はあれ、毎日必ず前に進むように努力しています」
「待ってるだけではいけない。常に新しさを打ち出すべき」
ヒルトンケアンズに着任したのは2005年。めまぐるしく物事が移ろう東京から、南国リゾートケアンズへ。
「非常に大きな可能性を秘めているデスティネーション」と言う印象を持ったそうだ。この町の核を成している人々は、予想以上に強く質の高いビジネスマインドを持っていることにも驚いたとか。
現在、低迷していると言われるケアンズの日本人観光業に関してもポジティブだ。
「我々のホテルのゲストの45%は依然として日本からのお客様。数が減ったとしても、本当に重要なマーケットだと認識していますね」
年に一度は自ら日本へ赴き、セールスコールを行っている。日本で初めての国際ホテルはヒルトンだったこともあり、ヒルトンはブランド力が非常に強く、強固なネットワークがあるのだそうだ。
ただし、ハッチンソン氏の考えは、自社のみに留まるものではない。
「ケアンズそのものをデスティネーションとして訴求することが大切だと考えています。
こういう時期だからこそ、力を合わせる必要がある。お客様の方がどんどん変化するんです。
だから、魅力的でフレッシュなプロダクトを打ち出さないと難しいでしょうね。
常に新しさを求めなければなりません。観光地によっては、年に16ものパンフレットを出していたりしますから。」
ハワイのリピート日本人観光客は約85%と言われる一方、ケアンズはたったの15%。具体的な数字や例を挙げながら、
「歩みを止めてはいけない。アグレッシブにマーケティングしていくことだと思います。待っているだけでは駄目」と繰り返す。
常に新しいことにチャレンジし続けているハッチンソン氏の口から出る言葉だけに重味がある。
「心をオープンにして人生の偶然を楽しみたい」
ハッチンソン氏の就任以来、ヒルトンケアンズは、まず目に見える形でずいぶんと変わった。
ロビー、バー、フロントデスクが全面的に改装され、更にエグゼクティブスイートや、スパスイートと言った部屋が追加され、今はメルボルンのトップデザイナーに依頼した新会議室のデザインを終えたばかりとか。
加えて、ウェディング用チャペルがあと2週間で完成、と言う忙しさだ。全面ガラス張り、バリの教会を参考にしたというこのチャペルは、水に囲まれた小オペラハウスのような佇まい。海に面したガーデンにあり、絶好のロケーションと言えるだろう。
ハードに手を加える一方で、オーストラリアトップデザイナー6人によるファッションショーの開催、ジュエリーフェアといったイベントも積極的に行い続けている。
「ホテルは色々な人が集う場所。だからローカルコミュニティへの貢献も考えて、今後も様々な催しを行って行きたい」と言う。日々の努力が実ってか、アジアに60あるヒルトンホテルのうち、ゲストの満足度アンケートでは、ヒルトンケアンズは5位に輝いている。
毎日ホテルを隈無くチェックし、改善を考え実行。
「忙しいのが好き。予定がないと、秘書に言ってダイアリーを埋めちゃうくらい。(笑)。色んな帽子をかぶれる(ホテル内のあらゆる職を指している)この仕事が大好きですね」
心からビジネスを楽しむハッチンソン氏に今後の目標を尋ねると、「人生はあまり1つのゴールにこだわらない方がいい。僕は今にとても満足しているけれど、心をオープンにして、人生が運んでくる偶然も楽しみたいんだ。」
数年に1度国を変え、広い文化体験を積んできた、彼らしいしなやかさがこの答えにも映されていた。
滞在中のINXSと仲良くなって一緒に釣りに行き、釣れた魚をレストランで料理してもらった話(ケアンズの誰もスターに気づかなかったとか)、日本の天皇がロンドンにご宿泊前、貸し切った12部屋の間取り図を2週間前に送った話(間取り図に収納プランが書き込まれ、信じられないくらいオーガナイズされていた!)、ブルネイ国王に、ミッキーバスを2台売ってくれ、と言われた話など裏話も楽しくて。本当にホテルはドラマのある場所なんだろうな。ビジネスマンとしても勉強になったインタビューでした。Keiko
住職の道を選んだPADI初代日本校長
2008年09月17日
恒久平和への祈りを
小笠原の新寺より捧げる、
PADIカレッジの初代日本校長。
吉田一心さん
小笠原・行行寺住職
Profile
吉田一心 よしだ・いっしん
1944年11月29日 中国チンタオ生まれ。大学卒業後、日本赤十字社神奈川県支部勤務、救急法と水上安全法の普及を務める。1977年NAUIインストラクター、’82年PADIインストラクターに。’87年PADIカレッジジャパン設立と共に校長に就任し、約1000人のインストラクターを養成。’93年浄土宗僧侶になり、三重県鈴鹿市の南龍寺住職として8年勤め、’03年小笠原村へ。新寺建立の資金集めのため、4年間全国行脚。 ‘07年、新寺、行行寺開山。現在、同寺住職。
40代半ばにして僧侶になることを志し、不思議な縁に導かれ、小笠原諸島の父島に新寺を建立、現在は住職として勤める吉田一心さん。
もともと、海、そしてビジネスの世界に身を置いていた氏が、仏教という異なる世界を生きるまでに、どのようないきさつがあったのだろうか。
生きるとは、そして死とは 救いを求めて、ビジネスの世界から仏教の道へ。
小学校4年生までは北海道、その後ずっと神奈川県の藤沢に住んでいた吉田さんにとって、海は常に身近な存在だった。大学1年の時から江ノ島西浜のライフガード、卒業後は、日本赤十字社で海での救助活動を続ける。
その後、世界的なネットワークを誇るダイビングスクール、PADIの日本校長に就任し、単身赴任で仕事に没頭。新規コースの開発など、インストラクターのために様々な業務に取り組んだ。だが、売上を計算する頭の片隅には、海で命を落とした人達の苦悶に満ちた顔が離れなかったという。
「ライフガード時代から見てきた人間の死は、苦しく、恐ろしいものでした。」自分もあのようにもがき苦しみ死んで行くのかと思うと、死が恐ろしくなる。生きるとは何か、死ぬとは…。救いを求めるべく、仏教本を手元に置いた。
「当時は無我夢中で働いていましたが、40を過ぎると、”死”はどこかの誰かのものではなく、自分自身のものとして思うようになります。このまま人生が終わっていいのか…そんな思いを持っていました。」
6年後、2つの組織に分かれていたPADIが1つに統合されることに。
「ここは肉体的にも精神的にも人生の転機」と、バブル全盛期、46歳のときダイビング業界を離れる。
「僧侶になろう、と決心したのは、故郷の北海道に帰ったとき。無性に帰りたくなり、訪ね、その夜決めました」
小笠原の戦地跡を訪れ、 僧侶としての夢が固まる。
この決断がダイビング業界に波紋を呼んだのは言うまでもない。
が、吉田さんの決心は固かった。佛教大学の通信課程で学び、実践の修養を積んで、3年後に僧侶の資格を得、跡継ぎのいなかった三重県鈴鹿の寺で住職になる。
更なる転機が訪れたのは、5年余りが過ぎた頃。
小笠原の父島に住むダイビング仲間からの、「亡くなった叔父の葬儀を執り行ってもらえないか」という1本の電話がきっかけだった。
かつて島には寺が2つあったが、1944年の空襲で焼失、戦後も再建されていなかったのだ。電話の5ヶ月後、硫黄島で法要をすることが決まり、吉田さんは小笠原を訪ねた。
法要が行われた硫黄島は、戦争末期、日本兵20,129名、米兵6,821名が戦死する死闘が展開された場所である。法要の後、多くの命が失われた地下壕を歩いた吉田さんに、平和への希求という、強い思いがわき上がる。
「島で戦没者の慰霊を続けたい。鈴鹿の寺は跡継ぎがいる、娘2人も独立している…身軽な自分が行かず誰が行くのか…」
小笠原に新寺を造るという夢の基礎がこの時から固まっていった。
80余名が参列した落慶法要にて、父島の方々との記念写真。吉田さんの向かって右には村長さんご夫妻の姿も。
努力の末、小笠原唯一の寺を建立。 平和のために祈る。
新寺を建立するには、当然ながら費用がかかる。堺市、正明寺の副住職の方など仲間が支援活動を始め、全国1,110の浄土宗寺院から建設資金を募ってくれた。
吉田さん自身も、北海道から沖縄まで学校や福祉施設で、時には街頭に立つなど200回にもわたる法話会を行って全国行脚をし、浄財を募った。
4年間で、土地の購入とお寺を造る資金が溜まったというバイタリティはすごい。
「お釈迦様と法然上人の仏教思想を広めたい、小笠原村の人の役に立ちたい、自分で決めたことだからやり遂げる、などいろいろな想いを持って活動を行いました。
でも、寄進者が増えた途中からは”夢の共有”へと変化しました。私だけの想いではもうないのです。全国の多くの方々と夢を共有し、スクラムを組んでの仕事です。辞めよう、などと思ったことは一度もありませんでした」
お金集めは計画通り順調に進んだが、予想に反して土地が決まらない、という苦しみに直面するも、ついに戦後62年目の夏に、建設着工。
内地からいらした方々を乗せたおがさわら丸が父間を離れたところ。ドルフィンテール号船上よりの見送り。「また来いよー!」、「また来るよー」。この後、海に飛び込み海中から最後のお見送りとなったそう。
「寺の掲示板には”歩めば到る”と掲げています。新寺建立発願以来の想いです。歩まねば、目的地には到達できません。微速でも努力をし、歩めば到達できます。目的(地)を持ち、歩む(努める)ことが人間として重要ではないのでしょうか」
天井画は京都ゆかりの中国人画家が担当。モチーフは龍だが、吉田さんの希望で小笠原の抜けるような空と海をイメージして青を主体に。墨色の線描をほどこし、戦没者への鎮魂の想いも込めたという。
こうして行行寺(ぎょうぎょうじ)が完成し、住職に就任した現在は、「長く寺院がなかった島の人達に仏とのご縁を結ぶ助けを、そして戦没者への回向と恒久平和を祈りたい」と語る。
政府は硫黄島へ遺骨収集団を60回以上派遣しているが、いまも、12,000体の遺骨は眠ったままだ。
「絶対に平和でなくてはいけません。それは”母と子が手をつないで歩ける世の中”です。今、世界中でそれをできない所が何カ所もあります。どちらが勝っても負けても、共に多くの死者が出るのが戦争です。理由をつけて戦争をしてはいけません。
今は、硫黄島の玉砕兵士と共に、硫黄島で命を落としたアメリカ兵にも回向を捧げる日々を送っています。」
まばゆいばかりの海原を見渡す山腹の寺で、吉田さんの祈りは続く。
編集後記
なぜ小笠原の方のインタビューが?と不思議に思われた方もいるかもしれません。(実際にお会いせずに原稿を書くという初体験に苦労しました…)実は、ダイビングつながりでケアンズと縁のある吉田さんが、11月12日と13日にケアンズで講演会と法話会をして下さるんです!(詳しくはP.31イベントページに)。ビジネスの世界、海、仏教、全てがバラバラなようでいてつながる人生の不思議をしみじみと感じます。「求め」て、「歩む」ことが大切なんですね。 講演会が楽しみです。Keiko
心に従って自らが変化になればいい
2008年09月23日
人,コミュニティ,自然と
つながり、地球が
永らえる環境を
作っていきたい。
ダイアナ・ルッソさん
ヘンプ・ホライズンズ
Profile
Diana Russo だいあな・るっそ
6月8日アデレード生まれ。戌年。広告会社の営業で訪れたケアンズに惹かれて移り住む。子育てをしながら学んだヘンプの環境的な素晴らしさを多くの人と分かち合うべく、オーガニックヘンプのアパレル会社、エコソルーションズのオーストラリア販売代理店Hemp Horizonsを主催。キュランダオリジナルマーケットに4人の女性でユニットを組むアースコネクションという店を出店し、ヘンプ商品の普及に努める。
www.earthconnectionskuranda.com
内側から輝く生き生きとした美しさ。それは、周りへの愛と自分自身の満たされた心を持つ人が得られるものなのだと、気づかせてくれる女性。サステイナブル(持続可能な)地球と生き方を求めて、様々なアクティビティを展開するダイアナさんをキュランダに訪ねた。
「講義で聞いて頭にひっかかっていた1つのフレーズに導かれて」
最近再開したキュランダ・オリジナルマーケットの終わりに、小さなお店を出している4人の女性がいる。ミュージシャン、アーティスト、オーガニックヘンプ(麻)を使う服飾デザイナーの3人、そしてヘンプ製品の普及に努めるダイアナさんだ。
キュランダ・マーケット内でアースコネクションズというお店を共同経営する大切な仲間、ミュージシャンのレイチェルさん、服飾デザイナーのリアさんと。写真左端に写っているのは、リアさんが作ったオーガニック・ヘンプのドレス。
お店はそれぞれの個性が生かされた、緩やかな時間の流れるハッピーワールド。自分たちのクリエイティビティに共感してくれるお客さんと、楽しそうな会話がはずむ。
人、コミュニティ、そして自然とコネクトし、地球の保護活動を広めたいという想いで名付けられた"アースコネクションズ"というお店は、まだ開始して数ヶ月目だが、既に様々な"つながり"が広がって来ていることを感じると言う。
「私は、もともとは広告会社の営業をしていました。人と話すのが好きだったし、営業しながらオーストラリア中を巡れるのが魅力で。でもケアンズに来た時に、この土地が大好きになってしまって一大決心。退職して$20だけを持ってやってきたの!」
その後赤ちゃんを授かり、1983年によりナチュラルなライフスタイルを求めてキュランダへ移った。
「子どもが3人でき、専業主婦をエンジョイした」とは言うものの、キュランダハイスクールのPTAをしたり、キュランダ初の保育園の立ち上げに携わったり、シアターグループを結成したり、アンフィシアター(野外劇場)の活動に積極的に関わったり。主婦としてできるコミュニティ活動に精を出す。
そして、スミスフィールドにキャンパスができたのと下のお子さんが小学校へ上がったのを機に、「地球を守るにはどうしたらよいか学びたい」と、大学へ。
授業中に見た、billion dollar cropというDVDに流れた最後の言葉…"What is criminal is that we are not growing it"という1文が頭にひっかかった。
「ヘンプの大切さに気づき、できるところから関わってみました」
石油と森林に替わる可能性を秘めた農作物として、また、様々な生活習慣病を改善する新しい健康食品として世界中で注目されているヘンプ。ヨーロッパ諸国やカナダでは、第二次大戦後から約50年間栽培禁止になっていたが、90年代に入って多くの国が栽培を再開。
食べ物はもちろん、建材、布など(ベンツは車種によっては車体にヘンプ素材を使用!)何と25,000種類もの商品がヘンプから作られるというから驚きだ。しかも、ヘンプは農薬や化学肥料を多く必要しないため環境に優しく、短期間で育つ。
調べれば調べるほど、その環境的な素晴らしさに気づき、ヘンプに関する何かをしたい!と心が疼いた。
「でも子どももいたし、お金もない。ヘンプの畑を買うには資本がいるし…。当時オーストラリアにヘンプはなかったし、どうやって関われるんだろうと長い間模索しました」。マリーバ市長にヘンプの素晴らしさを伝えるDVDを送り、ヘンプファームを誘致する要請をしたこともあると言う。(現在もオーストラリアにおけるヘンプ栽培/取引の規制は非常に厳しい)
粘り強く自分なりに出来ることを考えるうち、国外のヘンプ会社〜エコルーションに出会い、オーストラリアのディストリビューター(販売代理店)になりたいと申し出たのが2002年のことだった。
同時期、ある機関のスポンサーシップを得て、キュランダの人々が作るオリジナルヘンプバッグをマーケットで販売するコミュニティ活動も。
「小さく記事で取り上げられて、6万個も注文が入ったこともあるのよ(笑)。みんなで手作業で作っているんだから無理って断ってしまったけど、人々が興味を持ってくれたことが嬉しかった」
その後、バッグだけでは飽き足らず、服やアクセサリー作りにも幅を広げ、地元のファッションパレードに参加したこともあるそう。「好評だったから、盛り上がっちゃってメルボルンカップのファッションパレードにも出たのよ」と笑う。
2年後、キュランダ・ヘンプバッグのプロジェクトは終わったが、ダイアナさんのヘンプ普及活動は現在のお店を通して続いていく。
「心に従って、自らが変化になればいい」
「これからは、個々の人間も企業もサステナビリティを意識しなくてはいけないと思う。
今は、"地球を尊重したい" という情熱を持った人々やコミュニティとつながる場を持てていることが幸せ」と言うダイアナさん。自らも極力電気を使わない昔ながらの生活を森の中で営んでいる。
取引先エコルーション社の、ルーマニアにあるヘンプアパレル製造所を訪ねた時の感想をこう語ってくれた。
「野菜を自給自足して、笑顔のあるシンプルな、でも特別な暮らし。西欧型のライフスタイルに疑問を持つ私は、彼らは何て素敵なんだろうと思った。
私がルーマニアの工場と取引するのは、彼らの環境哲学が素晴らしいことと、人件費も正統に払われて、上質でオーガニックなヘンプを作っているから。それに、ルーマニアはヘンプの栽培を中止しなかった数少ない国の一つだからヘンプの伝統も息づいているの」
彼女の言うサステナビリティは、環境も人も伝統も…地上にある全てが永らえる道なのだ。
「完璧な人間はいないけど、心に引っかかることがあったら、小さな変化を自ら興していけばいいと思う。私は自分が信じることに向かって、常に行動を興したいと思っているわ」
やわらかな光の中で微笑む彼女の周りで、今後もっともっと素敵なコラボレーションが起こっていきそうだ。
お孫さんまでいるとは思えない若々しさ!心がオープンなダイさんの、エネルギッシュで温かいオーラに包まれて会話は留まることを知らず…。年齢も国籍も超えて、全ての出会いを全身で喜んでいるような彼女を本当に美しいと思いました。08.08.08(8月8〜10日)に、キュランダマーケットの30周年を記念して、ダイさんがオーガナイズするフェスティバルがマーケット内で行われるので、ぜひ足を運んでみて下さい。ヘンプブースも出店するそうですよ★ Keiko
ホテルの経営は、人生そのもの。
2008年07月08日
ホテルの経営は、人生そのもの。 だからハートが入っている。
Paul Kamsler Jr.
パシフィック・インターナショナルホテル
総支配人
Profile
Paul Kamsler Jr. ぽーる・かむずらー・じゅにあ
ケアンズ生まれ。シドニーの寄宿学校で教育を受けた後、両親のビジネスを手伝うため帰省。カムズラーファミリーとして、ケアンズ初の国際級ホテルを1982年に創設。当地の観光業の重要な役割を担い続ける。地域へ様々な貢献した一家としても著名で、数々の賞を受賞。’08年6月に、ケアンズ初のブラジル風バーベキューレストランをホテル内にオープン予定。老舗ながら、常にケアンズに新風を吹き込んでいる。
土地の名士。ケアンズに長く住む人なら知らない人はいない、カムズラー一家。多くの人の尊敬を受けるこの一家を代表して語ってくれた、ポール氏のビジョンは…。
「1978年。一家で訪れたハワイのビーチで、ケアンズにホテルを 建てる夢が始まった」
ケアンズシティの中心、そして海岸通りという最高のロケーションにあるパシフィック・インターナショナルホテルが、家族経営のホテルと聞いて驚く方がいるかもしれない。
「家族で経営するホテルというのは、ヨーロッパではよくあるけどね。ヒルトンなども最初は家族経営だったけれど、アメリカでグローバリゼーションの波が押し寄せて来てから、ほとんどがよく似たブランドホテルになってしまった。
でも、ゲストは、温かみや個性のあるスモールホテルを望む時代になってきていると思う」と語るポール・カムズラーJr.さん。
パシフィック・インターナショナルホテルが長く愛され続けているのは、支配人であるカムズラー一家の思想が隅々まで行き届いているからに違いない。
「ホテルが自分たちのホーム。だから、ゲストの皆さんは我が家に遊びに来てくれた大切なお客様。
そうだね、ホテル経営というのは僕らにとって、仕事じゃないんだ。"a way of life"〜人生そのもの。だから経営にハートが入っているんだよ」
実は、パシフィック・インターナショナルホテルはケアンズ初の国際級ホテル。
それまで高層ビルなど1つもない、のんびりとした田舎町ケアンズでは11階建てホテルの出現は大きな出来事だった。
当時は「カムズラーは熱病にかかったんじゃないか」と言った批判の声がうずまく。
が、一家には「観光が今後ケアンズの大きな産業になる。大型ホテルが必要とされる時代が必ず来る」と言う確固たる信念があった。
折しも、時を同じくしてケアンズに国際空港が開港。パシフィック・インターナショナルホテルは、町の発展に大きな役割を果たすようになっていく。
「そもそもは、両親が1950年にケアンズにホリデーに来て気に入って、小さなモーテルを運営し始めたのが始まり。
1978年に家族旅行でハワイに行った時、ケアンズもここと似ているじゃないか。ケアンズには観光地としての可能性がある。ホテルを建てよう、と言う夢が始まったんだ」
そして土地探し。1875年に、初めてヨーロッパ人が船から降り立った土地、と言う歴史的な場所〜現在ホテルが立つ場所〜に決めた。
1980年に着工、1982年にホテルはオープンし、一家の夢が現実のものとなった。
「一番大切なのはスタッフ。 そしてゲストに温かく、
きめ細かなもてなしをすること」
唯一の国際ホテルとあって、オープン後は国内外の様々なセレブが滞在したと言う。
ウィーン生まれで、在ケアンズ・ウィーン領事も勤めたお父上、ポール・カムズラーSnr.のヨーロッパ的な趣向も手伝ってか、作家など文化人にも好まれた。
同氏は、85才の今も、ホテルで指揮を取る。
(ちなみに、木曜島の真珠養殖産業、そして何とクロコダイルハンターをしていたというユニークな経歴を持ち、"特筆すべき貢献をした人"と言う賞を受賞するなど、コミュニティから尊敬を受けている人物。)
真ん中がお父様のポール・カムズラーSnrさん、右が弟のマークさん。創設以来、一家で経営している事を誇りにしている。
オープン以降26年経った今、周りにはホテルが多く立ち並び、ケアンズの様相も様変わりしたが、パシフィック・インターナショナルホテルの哲学は変わっていない。
「一番大切なのはスタッフ。そしてもちろん、ゲストがお金を払うに値する温かく、きめ細かなもてなしをすること」
ただし、老舗という看板に甘えず、常に前を見据える。石焼ステーキも、釜焼きピッツアも、ケアンズで初めて導入したのは当ホテルのレストランだった。
「同じことをするレストランが増えたから」と、今は、これもまたケアンズで初のコンセプト、ブラジル風バーベキューレストランを開業準備中だ。
「大変競争が激しいケアンズのレストラン業界で、他と同じことをしていても成功しない。上質なビーフ、そしてエキサイティングという、人々が好きな2つのキーワードを満たすコンセプトを探して行き着いたのが、ブラジリアンスタイルだった」。
大型の串焼きを、シェフがテーブルでサーブしてくれると言うエンターテイメント性の高いシアタースタイルのレストラン。
横には、地元の食材をできる限り使ったスペイン風小皿料理と、独創性あふれるカクテルを出すバーが設えられる予定だ。現代的なインテリアの中に、当地の歴史的な写真を飾ったりと、あくまで「ローカル」にこだわるところが、パシフィック・インターナショナルらしい。
「人生はチャレンジ。 困難に乗り越えた時、強くなれる」
豪ドルが強い為替、株式市場の暴落、グローバル、クレジットクライシス、燃料費の高騰など、現在多くの困難に立ち向かっているケアンズ。
これらの要素が相まって、観光客の数自体が減り、更に、訪れた人々も以前よりお金を使わなくなった。
誰も目を向けなかった時代に、観光地としてのケアンズの可能性を確信し、ビジョンを持って進み続けたカムズラー一家は、今の停滞気味のケアンズの観光業界にどのような考えを持っているのだろうか。
ケアンズ初の国際級ホテル、パシフィック・インターナショナルホテルは、海沿いの最高のロケーション。この26年間、ケアンズの様々な変遷を見守って来た。
「僕らがホテルを建ててからこれまでも、ライバルの出現はもとより、SARSや不景気など、多くの大変な時期があった。
でも、これらの出来事が僕らを一層強くしてくれたと思う。
人生って、チャレンジすることではないかな。今、事業にとってはタフな時だけれど、この時期を乗り越えた後に、ケアンズは一層強く、そしてより多くの人が訪れる町になっていると思う。」
経営を楽しく行い、ハッピーでいたいと言うポールさん。町に根付き、ハートのあるホテルをカムズラー一家が運営していることは、”ケアンズにとってのハッピー”と言えよう。
編集後記:
インタビューのリクエストに、個人でなく一家としてフィーチャーしてほしいとの第一声。家族経営って簡単なことではないと思うのですが、26年間経った今でもその絆は強い!
「口論もよくするし、普通の家族」とおっしゃっていましたが、お互いを尊敬している様子が撮影時に自然とあふれて。
時代の一歩先を読む先見性を持ちながら、足が地についている。
ハッピーでいたい、と言い切るいい意味でのリラックス感が、生粋のケアンズっ子であることを感じさせる方でした。Keiko
前立腺について
2008年05月22日
皆様もご存知の様に、
前立腺は男性のみが持つ臓器です。
膀胱の下側にあり、中には尿道が通る、
くるみ大位の大きさの臓器で、精液の一部を作っています。
通常は高齢になると役割を果たし、次第に退化していきますが、
その過程で異常をきたす事があり、その代表的なものが、前立腺肥大と前立腺がんです。
少し専門的になりますが、前立腺には内腺と外腺があり、前立腺肥大は内腺が肥大して出来、前立腺がんは外線から発生します。
前立腺肥大とは
前立腺肥大とは、50代くらいから起こりやすくなる、前立腺が大きくなる良性の疾患です。
その原因は加齢による変化と言われていますが、詳しい原因は未だはっきりとわかっていません。
また、前立腺が肥大した人全てが前立腺肥大と診断されるわけではなく、それに伴い何らかの症状が発生している人のみに診断が下される疾患です。
症状は、トイレが近くなる、排尿の勢いがなくなる、トイレに行ってもすぐに排尿が出来ない、排尿後の残尿感等です。
これらは、まず前立腺が膀胱を圧迫する為に起き、その後今度は前立腺が尿道を圧迫する為に起こる症状です。中には全く排尿が出来なくなってしまう人もいます。
治療は、以前は前立腺肥大が見つかると、手術をする事が多くありましたが、現在では内服薬の開発に伴い、まず内服治療をする事が主流になっています。
この中には、尿道の抵抗を減らして尿の出を良くする、男性ホルモンを抑えて前立腺を小さくする内服薬などが含まれています。また、内服治療によって症状の改善が見られない時でも、以前のような開腹手術ではなく、現在では内視鏡手術が多く行われています。
前立腺がんとは
前立腺がんは、前立腺から発生する悪性腫瘍で、50歳過ぎより多く見られます。
さらに加齢に伴いその発生率は高くなっていきます。多くの方が混乱されるようですが、前立腺がんは、前立腺肥大とは全く関連のない疾患です。その為、前立腺肥大を放置すると、がんに移行するという事はありません。
ただし、自覚症状は出にくいながら、初期症状は前立腺肥大に似たものが多い為、症状が現れた時点で、医師の診察を受けることを強くお勧めします。
前立腺がんは自覚症状が比較的現われにくいため、その他の臓器に転移して、初めてその存在に気付くという事が、まだ多く見られています。
前立腺がんの診断には、
*腫瘍マーカー
(前立腺特異抗原:PSAと呼ばれる、血液検査)
*画像診断(超音波検査、MRIなど)
*直腸診(肛門から行う前立腺への触診)
などが行われます。
治療はがんの進行状況によって、かなり変化してきますが、代表的なものは、
【ホルモン療法】
前立腺がんは男性ホルモンに大きく影響される為、多く行われています。ただし、このホルモン療法では、がんの根治治療は行えず、制癌治療と呼ばれる。いわゆるがん細胞を眠らせる状態にする治療と言えます。中には10年以上この制癌状態を維持できる場合もあります。ホルモン療法にもいろいろあり、男性ホルモンを出さなくする為に行われる精巣の除去術、またはホルモン流出を制御する注射、内服治療、女性ホルモン投与等です。
【放射線療法】
がんが、前立腺に限局している場合、または前立腺の被膜までの場合に行われます。現在では、重粒子線という特殊な放射線治療も開発されており、比較的良い効果を現しています。
【化学療法】
いわゆる抗がん剤療法ですが、前立腺がんの場合、他の臓器のがんに比べて、効果が現れにくいと言われています。
【手術療法】
がんが、リンパ節に転移する前の状況に多く行われる、前立腺を摘出する手術です。
最近では、ホルモン療法と併用し、事前にがんの縮小を図ってから行われる事もあります。
前立腺に関する疾患は、羞恥心が伴ったり、排尿困難、残尿感などは、加齢によるものだから仕方がない等と考え、診察を受けない方が多くいらっしゃいます。良性の前立腺肥大でも、放置すると症状が進行してしまいますので、症状が出現したら、早めに医師の診察を受け、適切な治療を受けて下さい。
ジェーン永野
クイーンズランド州正看護婦の資格を持ち日本語も堪能。1993年にジャパニーズメディカルサービスを興す。
肌は体調のバロメーター!
2008年04月07日
よく、お腹からきれいに…というキャッチフレーズを
見かけますが、
お肌の真の健康とは、まさに、
身体の外側と内側からの、バランスとれたケアを、
常に心がけることから始ります。
肌は体の不調を知らせる” シグナル ”
どんなに高級で、名の知れたスキンケア商品にお金をつぎ込んでも、
体内からのケアを無視していれば、
肌トラブルは、どんな人にも起こりえます。
それだけ、お肌は体の不調が表れる”シグナル”でも、あるのです。
ストレス、溜まってませんか?
・多忙、
・人間関係、
・生活環境の違い、
・暴飲暴食、
・タバコ、
・アルコール
と、これらは、やはりストレス=健康を害する要素となってきます。
では、なぜストレスが、肌に影響を?
ストレスが溜まることによって、まず
1、疲労。栄養のバランスが崩れます。(糖分・脂分=活性酸素発生)
2、内臓機能が低下。(便秘や下痢ぎみになる人も)
3、ホルモンバランスの崩れ(自律神経の乱れがホルモン分泌に影響)
4、肌トラブル。吹き出物、にきび、血行不良=くすみ、脂肌、かさつき等。
ヘルシーな食事や、ダイエットしていても、実は…
仕事は忙しいけれど、ダイエットには注意しているわ…という人でも、
分析してみると、
ヘルシーそうである食生活は、、、
実は、、、
酸性に傾いていたり(胃腸に負担)、
水分補給ができていなかったり(リンパ液等に影響)、
乳製品の取りすぎ (排泄ブロッック)と、
結果は内蔵機能の低下からくる、肌トラブル
だと診断できます。
まず、できることで、体を癒してあげよう
こういったことから、私個人としてはまずお客様に、
時間があれば、ヘルシーフードSHOPやNATUROPATH、
ハーブリスト等に足を運んで、診てもらうことをお勧めしています。
人によっては、DETOX を勧められる人もいるでしょう。
または、その人にあった栄養バランスのとれた配合のサプリメントも、
一般のものより、体内に吸収しやすくできているため、高い効果が期待できます。
リラックスするために、スパやマッサージ、
温泉やヒーリング、素敵な音楽を聴いたりして、
身体を癒してあげるのも肌の細胞を元気に保つ秘訣です。
そして毎日、自分(身体)が幸せだと感じる時・時間を創ってあげてください。
AKIKO KIMURA
ビューティセラビスト&医療通訳。15年以上美容に関わって培った知識を少しでも皆さんと共有できたら、と願っています♪
五感すべてに訴えるスパオーナー夫妻
2008年04月07日
躰と魂、両方の健やかさを求め、
異次元体験の場をクリエイト
Jeff & Carol Fleming
スパ・オーナー
Jeff & Carol Fleming(じぇふ&きゃろる・フレミング)
ジェフさんは5月18日、キャロルさんは12月3日生まれ。共にニュージーランド出身。30年前オーストラリアに移住、ゴールドコーストでホテルを経営した後、ケアンズエリアへ。デインツリーエコロッジのスパに携わり、世界的に有名なスパに仕立てる。現在は、パームコーブのリーフハウス・スパとゴールドコーストのQ1スパを所有・経営。イギリスVogue誌や、ハーパーズ&クイーン・ロンドン誌、Conde’Nest Travellerなど名だたる媒体で、オーストラリア・サウスパシフィックNo.1スパ、世界スパトップ10、他多数の賞を受賞するなど、世界的な賞賛を浴びる。ケアンズ北にある静かなビーチに居を構え、世界各国のスパ開設コンサルタントとしても縦横無尽に活躍中。
スパの情報はこちら
Tel:4055 3633
世界の蒼々たる有名サロンを押さえ、ワールドスパトップ10、オーストラリア・南太平洋地区ナンバー1スパをはじめとする数々の受賞歴を誇り、国際的な賞賛を浴びるリーフハウス・スパの創業オーナー、
そして今やスパキャピタルとも呼ばれるパームコーブのトレンドの土台を築いた仕掛人……そんな肩書きから想像するバリバリのビジネスマンというイメージを美しく裏切ってくれる、フレミング夫妻。
常に二人三脚でビジネスを営んで来たお2人の周りには、スパコンサルタントとして、世界を飛び回る多忙さを微塵も感じさせない、リラックスしたハッピーな空気が流れている。
事業をしながら通った美容学校を卒業後、新たな道が次々と開ける
美に敏感な英国VOGUE誌のエディターのお目にもかなうこのスパの始まりは、いたってシンプル。
「自分の気持ちに素直に向き合った」こと。
「長い間、ゴールドコーストでホテルの経営をしていて、それはそれで良かったのだけど、違うことにチャレンジしたい。ヒーリング関係の仕事をしたい、と心が疼いてきて」
「目出たくキャロルはナチュラル・メディスン・カレッジで最年長の生徒になった(笑)」と、ジェフさんが続ける。
彼女の夢を支え、1年間1人で事業を切り盛り。本当に2人は仲が良い。
「この小さな始まりが私達の人生を変えました。卒業後は、次々と扉が開いて行くように、セラピーの仕事が舞い込んで来て…」
この変化をゴージャス・トランジットと彼女は表現した。
トリートメントルームでのお2人。ビシーシャワーと呼ばれる、リズミカルなハイドロセラピーは丘のスパもこぞって導入するほどの人気。2人の美的センスが映された室内は、インテリアの細部にまで気が配られている。
ホリスティックとスピリチュアル。
2つの要素をパッケージ化して成功。
心機一転、ファーノースクイーンズランドへ居を移し、自分たちのスパを創ることに情熱を注ぐようになった2人。
ホテルの経営も、人を大切にするホスピタリティ業。マーケティングも含め、スパのビジネスも基本は同じ、と言うジェフ氏がビジネス全般を、セラピストの資格を持つキャロルさんがサロンを見ると言う、分担制は今も同じだ。
南国情緒あふれるエントランス。シーベルリーフハウスの中庭、プールに面した一画はリゾート気分も満点。
現在のスタイルのスパを確立するまで各地のサロンを訪れたが、マッサージが気持ちいい、と言ったレベルの所ばかりで、オーストラリア的な場所がない。
自分たちが提供したいものと何かが違う、そんな葛藤の中で出会ったのが、Li’Tyaのプロダクト。
アボリジニの人々の間で古代より伝えられて来た薬草などを取り入れたものだ。
バラバラだったピースが1つにまとまり、ホリスティックで、スピリチュアルなセラピーをパッケージにするという新しい着眼点が、2人のスパを一躍有名にするカギとなった。
「人は、色や匂い、音、に惹かれるもの。うちのスパでは、施術前にトリートメント用の塩を触ってもらったり、オイルの匂いを嗅いでもらったり、お客さんに関わってもらうんだ」
アボリジニの人々の儀式にあやかって場を清め、神聖なスペースを創ったり、小さな特別感が重なり合って、施術が始まる前から、自然と違う次元へ誘われていく。
フルーツやベリーなど、オーストラリアの天然素材を使ったLi’Tyaの、スキンケア製品としての質の高さに加えて、魂を解き放してくれるような体験ができる異次元空間が人々を魅了し、噂となるのに時間はかからなかった。
2人がクリエイトしたのは、外見の美を追いかけるサロンではなくて、躰も魂も健やかになってほしいという願いから生まれた、五感全てに訴える、神秘的とも言える”体験”の場なのだ。
スパセラピストが財産
現在、パームコーブには7軒のスパが並んでいるが、2人に敵対意識は全くない。
「美しく、健やかになるために人々がパームコーブを訪れ、幸せな気持ちになってくれる。本当に喜ばしいことだわ」
彼等のハッピーオーラは、周りの人を包み込むのだろう。サロンのスタッフも、本当に生き生きと、誇りを持って働いている。そしてオーナーである2人とも「スパの宝は、セラピスト」ときっぱり。
Li’Tyaの専門セラピストとして、総合的な美しさと美を追求する、高いスキルを持ったスパ・セラピストになるまで、1人1人、数週間みっちりトレーニングを受ける。
サロンを立ち上げた5年前は、セラピストを集めるのにとても難儀したが、今は募集をかけなくても「働きたい」と応募が来るそうだ。
2人の哲学が反映されたリーフハウス・スパは、コロニアル・プランテーションスタイルと南国の趣を融合させたインテリアが美しい。椅子、テーブル1つに至るまで、輸入後にラスティックな仕上げを地元業者に依頼するなど、手が込んでいる。
逆に、2人が経営するもう1つのサロン、Q1はゴールドコーストの高層タワーという場所柄、アーバンな空間に仕上げたと言う。
2人の元にはサロン設立に関する相談も多く、立ち上げと最初の数ヶ月の経営までに携わったり、コンセプトを練ったりといった、スパコンサルタントとしての仕事がひきもきならない。
地元、国内だけでなく、中国、インド、シンガポールといった他国からも引っ張りだこの状態だ。
ただ、どこへ行っても彼等のポリシーは変わらない。それは土地の文化を反映した崇高な癒しの場を創ること。
リサーチをして、断片を思いつくと、どんなスペースがふさわしいか、どんなメニューが必要なのか、全体的なビジョンがわき上がってくるそう。
アイディアと創造性の元は、人里離れたビーチに佇む家でのひととき。海に面した一画のオフィスで早朝から働くが、夕方5時過ぎになると、2人でワインを持ってビーチへ。
「そこで、今日は何を達成できたかとか、今後の課題を話し合うのよ」
今後は、店の経営は徐々にマネージャーに委ね、コンサルティング事業を伸ばすことと、あと2軒スパを創ることが目標。
2人のハッピーなエネルギーの波が様々な場所へ広がって行く日はそう遠くないだろう。
編集後記
いつも一緒でケンカすることはないですか?と意地悪な質問をしたところ、全くないとのこと。「お互いの力を知っているし役割が違うし、尊敬しあっているから」…。力を引き出し、高め合えるお2人。素晴らしい! 1人でも多くの人が健やかになるために、自分たちの成功を他の人と惜しげ無く分かち合うところも素敵。幸せな人は周りも幸せにするんだ、と勉強になったインタビューでした。 Keiko
僕のブルースで自分の持っているパワーに気づいて!
2008年02月05日
聴く人が、自分のパワーに
気づくことを願って演奏を続ける
8Ball Aitken
ブルースミュージシャン
Profile
グレッグ・エイトキン*現在は、8Ball Aitkenのステージネームで活躍中。
本文は、2004年3月時のインタビューです。
1981年6月9日生まれ。11人兄弟の長男としてマリーバの農場で育つ。農作業を手伝いながらハイスクールを卒業。ブルースに衝撃を受け、ギターやベース、ドラムなどの楽器、作曲を独学で始め、15才より地元のパブやクラブで演奏を始める。ブリスベンでのプロとしての活動を経て、04年よりケアンズに戻り、演奏活動を続ける。www.8ballaitken.com
www.myspace.com/8ballaitken
心の痛みを表現するブルースは、 僕の人生そのもの。
弱冠22才にして、自分の才能を強く信じ、進むべき道を明確に把握している青年がいる。
「音を通じて人を癒したい。自分の音楽によって、
1人1人が世の中をよくしていく力を持っていることに気づく手助けをしたい」
と言う、グレッグ・エイトキンさんだ。
物静かな彼が全てのパッションを捧げて演奏するのはブルース・ミュージック。
「小さな時から人間の孤独とか苦しみ、失望、飢え、そんなことを強く感じてきた僕にとって、
たまたま耳にしたブルースミュージックは衝撃的なものだった」と語る。
グレッグさんは11人兄弟の長男として生まれ、少年期をマリーバで過ごした。
小さな時から家計を助けるためにマンゴーやバナナの収穫など、
出来る限りの農作業や肉体労働をこなし、親の離婚、貧困を体験と、
決して平坦とは呼べない日々を送る。
そんな中で、アメリカ黒人の背負う人生の苦しみをルーツとし、
心の痛みと向き合うブルースに出会い、探していたものが見つかったような気持に。
自らが演奏を始めるまでに時間がかからなかった。
「どんな楽器でも基本がわかれば演奏できるようになる」と言う彼は、
リードギターの他、ドラム、ハーモニカ、ベースもこなす。
ブルースミュージシャンから教わったこともあるけれど、演奏も作曲も基本的に独学。
表面的なコピーでなくて、自分の言葉、自分のやり方を大切にしたいと言う。
グレッグさんの作る曲のテーマは、世界情勢、難民、人間のこと、だましあい、
自分の体験から恋愛まで様々。それぞれに異なるメッセージを込め、
違うリズムにのせ、ブルースの伝統を尊びながらも、自分の表現を加えていく。
「ステージ上で、シャワーで、トイレで。ふいに心の中に
音があふれるように出てくるんだ。眠れない夜に起きあがって詩を書き始めたり。
曲はまるで天からの贈り物だね。降りてきたものにチャンネルを合わす感じで、
どんどん新しい曲が生まれる。
楽器は、自分の中のものを表現するための道具にすぎないと言う気がする」。
音楽はすごいパワーを持っている。
13才頃から演奏、作曲を始め、自分が天から与えられた“ギフト”を自覚。
15才にして既に地元のパブやクラブで歌ってきたグレッグさんは、
数年後、新境地を目指してブリスベンへと旅だつ。
▲自主制作CD「THE DYNAMITE AITKEN BROTHERS」(Copyright 2003 The Dynamite Aitken Brothers) 貪欲にブルースの演奏活動を続け、CDもリリース。
弟さんと一緒に作った、"Dynamite Aitken Brothers"というCDは売り切れるほどの人気を博す。
JJJなどのラジオ局でオンエアされ、テレビ番組、Today Tonightでも紹介されるなど
活動に注目が集まり始めた今年、故郷ケアンズへ帰ってきた。
ブリスベン時代のグレッグさんの写真を見ると、今とはまるで別人だ。
品良く短くした髪にスーツ。
「このスタイルの方がブリスベンでは受け入れられるから。
ケアンズに戻ってきたらリラックスしているんで、服装もこの通りさ。(笑)」
たとえ見た目、演奏場所が変わっても彼の音楽を求める人がいることには変わらない。
現在、レギュラーでステージを持っているジョノス・ブルースバーでも、
地元の人、ふらりとやってくる観光客、と
年齢、客層を問わず人々に心地よいひとときを与えてくれている。
グレッグさん愛用のギター。ブラスコーンが付いていて、強くシャープでダイナミックな音が出る。
彼のステージは、威圧感がない。まるで空気のように空間に馴染んだ佇まい。
どこか投げやりな、それでいて語りかけるような歌声と、
鮮やかな指の動きから奏でられる音が、その空間を包み込む。
決して押しつけがましくなく、でも確実に聴く人の心に響く、不思議なパワー。
彼のブルースを聴きながら、きっと皆思い思いの憧憬を心に描いているはずだ。
目下の夢は日本で日本のミュージシャンと共演をすること。「オーストラリアにもブッシュソングというルーツミュージックがあるけど国が若くて強い文化がない。だから、日本のように古い歴史を持っている国に強く憧れるんだ」
「音楽を聴いて、具合が良くない人の調子がよくなったり、
落ち込んでいたのに元気になったり、妹や弟たちが夜、
ぐっすりとした眠りについたりということは珍しいことじゃない。
音楽っていうのはそれだけパワーがあるものだと思う」
先日はリーフで出会った韓国人の男性に、「言葉が違ってもすごく伝わった」と
ステージの感想を言われ、ミュージシャン冥利につきたとか。
音を通して人に楽しい時を過ごしてもらうことが自分の仕事、
とグレッグさんは思っている。
「人は誰でもクリエイティブだし、何らかのギフトを天から与えられている。
そしてそれは世の中を良くするもの。僕はそう信じている。
だから1人1人が自分の力に気づいてハッピーになる手助けをしたいと
強く願っているんだ。音楽を聴いている間は、今抱えている問題はちょっと置いて、
本当に大切なものに気づけるように」
「天からのギフト?まずは自分がとても惹かれることを見つけることじゃない?
それに子どもの頃本当に好きだったことを思い出したり。
絵やダンスや動物や…大人になって忘れていることがヒントになっているかもしれない」
自分の心に素直に。そして見つけたものに焦点を当て続け、ポジティブでいること。
自分の文化や家族を理解して表現すること。
グレッグさんのメッセージは音に乗って伝わる。
会話中、何度も出てきた“ギフト”という言葉。
全ては与えられている。持っている包みを開くかどうかは自分次第。
彼はそんな気持にさせてくれるミュージシャンだ。
歌を通して環境保護を呼びかける
2007年01月10日
歌を通して環境保護を呼びかける
Anja Light
シンガーソングライター/環境活動家
Profile
Anja Light(あんにゃ・らいと) シンガ−・ソングライター、環境活動家。スウェーデンに生まれ、オーストラリアに育つ。10代より環境・反核活動家として、オーストラリア、マレーシア、 日本などを中心に活躍。「ディープエコロジー」哲学にもとづく環境教育の実践でも知られる。1999年日本の仲間たちとNGO「ナマケモノ倶楽部」を結 成、以来その世話人をつとめる。現在はエクアドルを拠点に、夫の環境活動家マルセロ・ルーケとともに、生態系の保全と持続可能な地域づくりにとり組んでい る。2001年春長女パチャ、2003年夏長男ヤニを出産。CD「Voices for the Forest」、「PACHA MAMA」、「Slow Mother love」などをリリース。2003年春、オーストラリアでの州議会議員選挙に緑の党から出馬するなど、今後は政治活動も注目される。
インタビュー前記
2006年6月18日にケアンズ美術館でのキャンドルづくりをはじめとするワークショップに多くの日本人ボランティアの方に参加していただき、大変感謝しております。
そもそもこのイベントは、私が深く賛同しているムーブメント「100万人のキャンドルナイト」を海外の方に紹介したいと思いつき、前年の中国・上海に続き、豪州・ケアンズでの実施を立案しました。
2001年米国ブッシュ大統領は、原発増のエネルギー政策を発表しました。これに対し米国内、そしてオーストラリアでも自主停電という形の抗議がなされ、同年6月21日、日本でも環境NGOナマケモノ倶楽部が、“暗闇カフェ”として行動を起こしました。
このナマケモノ倶楽部は、環境活動か&シンガーソングライター、アンニャ・ライトさん、スロービジネススクール校長の中村隆市氏、そして辻信一氏(明治学院大学教授)のお三方が結成したNGOです。
2002年には、無農薬有機栽培の普及活動で知られる「大地を守る会」(代表:原田和芳氏)のプロジェクトが立ち上がると、NPOだけでなく環境省や自治体、そして企業も呼応して、100万人のキャンドルナイトは今日の大きなムーブメントへと広がりを見せます。
「人口の光で明るくなってしまった地球の夜に、暗い帯が自転とともに移動していく。これは地球代のアートだ」…この坂本龍一氏のメッセージを聞いて、私もアートのフィールドからキャンドルナイトに参加したいと思うようになりました。
私がケアンズでささやかな「呼びかけ」を行ったこの夏、日本ではおよそ700万人の方が、何らかの形でキャンドルナイトに加わったそうです。
12月22 日のキャンドルナイトは、さらにその数を上回る人数が参加されているはずですので、1000万人規模のイベントになる日もそう遠くはありません。
私は、当日キャンドルナイトの原点、暗闇カフェで、アンニャ・ライトさんの歌声に耳を傾けていました。
アンニャさんはスウェーデンから3歳のとき、オーストラリアのゴールドコーストに移り、現在はクイ−ンズランド州の田舎町、エヤーを拠点に世界各地で活動されています。
環境活動、アーティスト、そして母親として… アンニャさんから貴重なお話をうかがいました。
シンガーソングライター
私は高校時代に、歌いはじめると同時に、地球環境に強い興味を抱き、既に活動家になろうと決意していました。
大学の選択時、環境科学を選ぶこともできましたが、私は演劇コースを選択しました。
環境の啓発活動において、コミュニケーションが最も大切なツールだと考たからです。その当時は、まだインターネットなども普及されておらず、大学で知り得る書籍などの情報は、古いものしかありませでした。
大学なかばで現場を知るためにマレーシアへ。マレーシアのサラワクの奥地でペナン族という先住民族との話し合いが難航したとき、問題をメッセージにして私が唄うと彼らの表情が一変しました。
私にとって、唄うことは、キャンペーンのためのひとつの道具(ツール)、手段なのです。オーストラリア熱帯雨林情報センターの活動をしていた当時の「歌」は、森林保護に関わっていた気がします。
2006年11月11日に行われたライフスタイルフォーラムのステージにて
家族(子供達)と暮らしはじめた頃から、音楽の幅も拡がり、スローライフやシンプルな生活でも生きていること、ユニバーサルな内容に変化しています。
しかし核となる部分は変わっていません。環境破壊の根源は、私達の生き方や文化であり、カルチャーを変えていこうと呼びかけ続けています。それは今後も変わりません。
両親がスウェーデンから移住したのは、豪州の自然に魅せられたからのようです。NGOのミーティングにも一緒に行きました。また理由もなく葉っぱをちぎったりしてはいけないと、しつけられました。但し私を活動家にするつもりではなかったはずです。
母親は、芸術家(画家)でしたので、今も華やかなドレスを着たりします。母から学んだことは自分の思いをおそれず、伝える表現すること。母は、ゴールドコーストで、緑の党の初期の組織メンバーでしたし、父親も新聞に投書するなど「よくない」と思った事をきちんと行動に起こす人でした。
若い頃、血気盛んな私たちは、マレーシアでクレーン車に乗って伐採阻止をアピールしたことで、警察に逮捕され拘置されたことがあります。
豪州にいた母、スウェーデンの父は、共にスポークスパーソンとして弁明し、国際的なメディアに対して森林伐採の現況を語ってくれたことを、私は感謝していますし、尊敬しています。」
エヤーでの生活
「私は世界中旅をしていたので、初めてきた土地に住むことに、抵抗はありませんでした。
グレートバリアリーフを子供達に見せたくて、この街に来ました。
この世界(自然)遺産は、地球温暖化の影響で海面水位が上昇しているため、将来消滅することが危惧されています。
砂漠の国オーストラリアにあって、エヤーは水の豊富な、子供二人と過ごすには快適な場所です。
緑の党のメンバーもいませんが、地域の方たちと違いを見出すのではなく、共通点を探すことに楽しさを感じています。
庭の種を交換するなど、ささやかなことからでもコミュニケーションが拡がります。
田舎だから何もできないとは思いません。スローライフはどこでもできます。
例えば学校から種を持ち帰り自宅の庭で植物を育てるプロジェクトもあります。
エクアドルでは電気のない生活に慣れていますので、自分たちでエヤーでもスローライフを楽しんでいます。
2006年12月22日 府中カフェスロー 暗闇カフェ会場
地球温暖化のキャンペーンのため、映画の上映、政治的な環境活動にも力を注いでいます。
昨年の5月ナマケモノ倶楽部主催のスローツアーでは、17人の日本人と、私がお勧めするオーストラリア東部のエコロジカルなスポットを訪問しました。
クイーンズランド州では、マレーニー近郊の"クリスタル・ウォーターズ"。ニューサウスウェールズ州ではニンビン村の"ジャランバー"。そしてビーチの美しい最東端の町"バイロン・ベイ"。ここは、地元住民の反対でファーストフードのチェーン店がないのも特徴です。
ケアンズも、東京などの大都市と比べて、家族で暮らすには大変住みやすい環境ですよね。
次回のツアーは、ケアンズとグレートパリアリーフを入れたコースを計画したら素敵ではないかと思っています」
インタビュアー
横澤悦孝(よこざわ・よしたか)
1964年生まれ旅行代理店→商社→NPO法人職員を経て、2005年よりエコロジー・アース・アート21で奮闘中。2006年6月、ケアンズで地元の子どもを対象に環境意識を促すイベントを開催し、共感を呼んだ。 www.japandesign.ne.jp/HTM/EEA21/に、アートと環境を軸とするレポートを執筆中。 エコロジー・アース・アート21(EEA21) : http://www.eea21.jp/
ケアンズのマルチカルチャリズムの立役者
2008年02月21日
自分の価値観を変えた異文化体験を市の活動を通して実現
Deevah Melendez
ケアンズ市・マルチカルチャー プランニング オフィサー
ディーバ・メレンデズ
プエルトリコ生まれ。1982年より約10年間ニューヨークのスポーツブランドで、ファッションデザイナーとして活躍。工場見学で訪れたインドで自分の人生を考え直し、世界旅行に出る。TAFEでスペイン語の教師、アフリカでのボランティア教師などを経て、1997年よりケアンズ市のマルチカルチャー・コミュニティアートフォフィサーに。2000年から現在までは、同市のマルチカルチャー・プランニング&デベロップメント・オフィサーとして、数々のイベントを企画、実施。社会科学の学士も持つ。
自分の心に素直に…。言うのは簡単だけれど、成功していたキャリアを捨てて新しい世界に身を投じるのは、かなりの勇気が必要だ。
が、ここケアンズに、外国人、そして女性でありながら、自分の信念に従って、新たな渦を巻き起こした人がいる。
「良いと思うことを心から信じていれば何等かの形になるはず」
ディーバさんは、ケアンズで唯一のプエルトリコ人。彼女の最初のキャリアは、ニューヨークのファッション業界で培われた。
20代の体力を生かして、1日16時間働き尽くめ。
デザイナーとしてかなり成功していて、「30才にはもっとリッチで、有名になっていたい」という夢を描いていた。
そんな彼女に転機が訪れたのは、会社の工場を訪ねるために行ったインドでの体験がきっかけ。
お抱えの運転手付き、5スターホテルに泊まる状況と、現地の人の生活ぶりのギャップ…
「アメリカを出たことのなかった私にとっては大大ショック。物質社会にどっぷり浸かっていた今までの価値観に、大きな疑問がわいてきました。インドへ行って、初めて本当の自分が頭をもたげ始めたのです」
この後の行動が並ではない。人が羨む年収を捨てて、ニューヨークの会社を辞めてしまったのだ。
「周りの人は正気か?って聞いてきたわ。でも、人生はファッションだけじゃない。私は、自分の心の中の疑問に従っただけなの。恐れや疑いを持ってしまったら、自分の成長が止まってしまうんじゃないかしら。」 良いと思うことを、”心から”信じていればきっと何等かの形になる、というのが彼女の考え方。
その後シンプルな暮らしに憧れて、母親のいたハワイでブティックの経営を始めるも、4年後には、大型台風、母親の死によってその生活も終わりを告げ、傷心のまま旅に出る。
「母親は若くで亡くなってしまったけど、生きがいを持って人生を全うした人なのね。そんな彼女の側にいて、私は生きる目標が見つかってないなって感じていた」
そんなある日、ディーバさんの目に留ったのは、新聞の小さな広告。アフリカで英語を教えるボランティア募集というものだった。
プエルトリコの人は、遡れば、スペイン人、アフリカ人の血を受けている。以前からアフリカに興味があった彼女は、迷うことなく飛行機に乗っていた。
アフリカでは、貧しさ、死がいつも周りにあった。流水はないから、水がめで必要な水を運び、数週間に1回ホテルでシャワーを貸してもらうような暮らし。けれど、貧しくても、人々がお互いいたわりあう姿が日常にあふれていた。
「学校では、前の先生がよくムチで子ども達を打ったのだそうです。彼等はいつも怯えていました。私は罰を与える代わりにほめてあげようとしたのね。ある時、ご褒美に生徒の1人に鉛筆をあげたの。本当に喜んでいたのに、数日後は半分以下の長さになっていた。理由を聞いても恐がって言わなかったのだけれど、友達に切って分け与えていたことがわかって…。他の人とシェアする、という人生の大切なことを、この子たちから学びました」
個人主義の国からやってきた自分。隣の人の苦しみも判らなかった自分。将来するべきことは何だろう?次のアクションは何?と自分に真摯に問い続けながら、アフリカでの任期を終えて、再び旅に出たのだと言う。
「本当に好きな事を仕事にしようと心に誓いました」
長いバックパッカー生活を経て、昔出会った人との縁でケアンズに腰を落ち着けることに。
この時は、とにかく自分の人生にフォーカスしたい、と思ったそう。
「デザイナーとして成功して、当時の願いは叶ったわけだし、”何を願うか”は気をつけて選ばなきゃ、と思いましたね」
これからは、本当に好きな事を仕事にしたい。どんな仕事であっても、コミュニティ、カルチャー、アートに関係すること。
そんな明確なビジョンを持って、色々な所へ履歴書を持って訪ねる。
断られ続ける中、マイグレーション・リソースセンターのマネージャーの紹介で、グラフトンアーツ(ケアンズ市の管轄する芸術団体)へ。待てど暮らせど返答がなかったのだが、突然、プロジェクト進行係が必要という募集があり、自分が適任!と応募。見事ここでのポジションを得た。
「今が、変わる時!と思うと、その思いが自分を突き動かしてしまうのよね(笑)。常に夢を見ているし、諦めない強い意志を授けてもらって感謝しているわ」
2000年より、ケアンズ市のマルチカルチャー・プランニング&デベロップメント・オフィサーという職に就くことになる。
「何かを仕掛けて、小さなものを大きく育てるのが好き」
精力的に、様々なイベントを企画したり、内外の人を巻き込もうと懸命な努力を続けるが、マルチカルチャー、文化活動、アートなどと言うと、周りの人々の反応は”ヒッピー的な活動?” ”自分とは無関係”、 ”必要な時だけ参加する”といったものだった。
「狭い考え方の人と一緒に仕事をしなければならない時は、怒りを覚えてました!長い時間を費やして、人間関係を作って行って、本当にちょっとづつ土台が変わってきたんですよ」
情熱を持って、市や移民のリーダー的な人々と交渉を続ける中で、多様な文化背景を持つ市民のためのサポートサービスとポリシーを作成したり、15カ国のグループからなる会議を設定して、彼等が地域に貢献できる場を作ったり、地元の高校と組んで島民やアジアからの人々が直面する問題を演劇にしたりと、多くのことを達成してきた。
ピースウィークの一環で行われた、地元の子ども達のアート展にて。
最近の仕事では、ユネスコの世界平和年にちなんだケアンズでのピースウィーク 〜多様な文化、ヒューマンライツ、社会的正義、女性、先住民、差別、と言ったテーマを掲げたイベント〜 が印象深い。
加えて、アフリカからの避難民の子どものドキュメンタリー制作、ケアンズに暮す他民族の人たちの写真を使ったカレンダーの制作、国際発展スタディの学位の取得、社会科学の学位取得…ととにかく多忙。一貫したテーマの元で、まさに寝る間も惜しんで多岐に渡る活動を続けている。
「かなり保守的だった市議会も、ピースウィークを誇りにしてくれたり、最初は相手にもしてくれなかったメディアが私たちの活動を取り上げてくれたり。市がこうした活動に対してポジティブに変わって来たこと、そして0から始めて自分も貢献できたことが本当に嬉しいですね」と。
「自由も家も車もある。そんな国に生まれたからには責任があるように感じているんです。優しさが他の人を救うはず。今後も、他の人をサポートしながら、自分が持っているものを捧げて、人々が幸せになる機会を作っていく生き方を目指します」と爽やかな笑顔で結んでくれた。
インタビューを終えて
「あまり遠い先までは考えない。ここまではこうしよう、って決めてきてるから、リスみたいにジグザグに走ってきてる気がする(笑)」と言うディーバさん。思い悩むより、求めながら行動していく生き方。でも、その時は意味を成さなくても、あとでピースがはまって大きなパズルが解けていっているようで素晴らしい!一生懸命生きていれば、全ては用意されていくのかな、と思いました。”正しい願いを心から持てば実現する”、”自分を安全からはずした時に成長できる”、”人生は大きくて素晴らしい”、と素敵なメッセージをたくさんいただいて勇気が出たインタビューでした。 Keiko
vol.38「再会」
2006年07月06日
人がダイビングに興味を持つ理由は色々あると思うが、僕がダイビングにどっぷりはまっている理由は、陸上に住むほ乳類の中で、非常に特異な存在である人間の起源にあるように思う。
進化論にも色々あるが、個人的に気に入っているのは『水生のサル説』である。『アクア説』ともいわれるが、類人猿からヒトに進化する過程で、水中での生活を通じて進化したのが現在のヒトであると言うものだ。
結局、ヒトは水中のほ乳類の方に近いことが多いというものであり、異論は様々な形であるだろうが、僕はダイバーとしてこの『アクア説』が、今の自分がダイビングにどっぷり漬かっている理由をうまく説明してくれているように思う。
ダイビングを初めて20年程になるが、小さい頃から海水浴などで水中を眺めるのが非常に好きだった。ウツボとにらめっこしたり、貝を集めたりした頃のことは今でもよく覚えている。宮崎へ向かうフェリーに乗った時に船の周りにイルカの大群を見たこともある。
そんな感じで小さい時から接して来た海だが、今ダイビング活動の中でも最も興味があるのが『クジラ』や『イルカ』との水中遭遇だ。
魚との出会いよりも、ほ乳類であるクジラ類は、水中で出会う感動が他の生物よりも数倍大きくなる。この記事が出ている頃にはほとんど終わりかけているが、ここケアンズでは毎年写真のようなミンククジラが大集合する季節がある。どこからともなく現れては、ダイビングボートやダイバーに大接近する。ホエールウォッチングというよりは、クジラによるヒューマンウォッチングである。水中でタンクの空気を吸っている水生のサルは、クジラと出会うことで進化上の過去を再確認することになるような感じだ。
ミンククジラは体の模様等での個体識別が出来るのだが、以前同じ個体のミンククジラに2年越しで再会したことがある。
クジラはそれぞれ個性が強いため、ダイバーへの接近の仕方だけでも特徴がある。以前遭遇したシーンとふとダブるような個体に出会ったことがあり、もしかしてと思いながら撮った写真を比較してみると同じ個体だったのである。この広いGBRのダイブスポットで、1年後同じ個体にあえる確率は非常に少ない。
さてこれを書いているのはFLOREATというチャーターボートの上である。ミンククジラを追跡するためのツアーにクルーとして乗船しているのだが、今月ミンクチャーターツアー3回目のこのボートには、僕がケアンズに来た頃からの友人である、インストラクターTOSHIの率いるグループが乗っている。彼は以前ケアンズの名ガイドであったが、今では沖縄県恩納村にある「シーワークス」というダイビングサービスを経営している。その彼が約5年ぶりにお客様を連れて船に乗ってくれたのである。
非常に嬉しい。小さい頃から引越が多く、親友というものが出来にくい環境だった中、ケアンズで10年程の付き合いを通じてダイビング業界について熱く討論し続け、時にはけんかになるが、翌日にはケロッとしてまた会っている。そんな友人が5年ぶりに戻って来たのだから嬉しいに決まっている。
グループの中にも今までケアンズで会ったリピーターのお客様が多くいて、再会の嬉しさが倍増した。相変わらず酒の量は非常に多いTOSHIであったが、熱く語るダイビングへの思いは以前と変わらず、いや以前にも増して強いものを感じた。今回はクルーズの期間だけのケアンズ滞在であったが、また次回ケアンズに来てくれる日が今から待ち遠しい。
クジラに話を戻すが、ケアンズ沖にはザトウクジラも1年に1度北上してくる。ザトウクジラの歌を聴きながらダイビングが出来るシーズンだ。模様等がほとんどないザトウクジラの個体識別は、写真だけではほとんど無理だが、世界で1頭のみ確認されているアルビノ(白色個体)のザトウクジラがいる。今年もこの白鯨「MIGALOO」がバイロンベイ沖を通過したニュースが入って来ている。バイロンからだと3〜4週間程でケアンズに来る計算だ。この白鯨がケアンズに戻ってくるというニュースも毎年耳にするのだが、海へ出かける時のワクワクする気持ちを高めてくれることには間違いない。
ダイビングの仕事をしていると見知らぬ人との出会いが楽しいのはもちろんだが、知り合った人たちとの再会はさらに楽しく嬉しいものだ。頻繁に日本へ帰るわけにもいかないので、なかなか再会のインターバルが長くなってしまうのは仕方がないのだが、それでも1年に1度、数年に1度と言った形で長くつながっているダイバーの輪は僕の宝物である。
7月の下旬からはフィリピンへ3週間弱帰る予定である。3年ぶりである。現地にいる知り合いのダイバーはもちろん、フィリピン人の友人との再会が今から楽しみだ。
vol.42「異国人」
2007年03月06日
2月、ひょんなことから日本へ帰ることになった。1年半ぶりである。といっても前回は2泊3日ほどの短期だったのでその前からとなると約3年ぶりとなる日本帰国であった。関空インの成田アウト。大阪と東京両方を訪問するのが目的であったのでこのようなスケジュールになったのだが、相変わらず海上空港である関空には惚れ惚れする。ケアンズを一飲みするんじゃないかというほどの大きさである。父親に迎えに来てもらって、実家へ直行。早速おふくろの懐かしい日本の食事を楽しんだ。
翌日は、仕事のため朝から梅田へ。懐かしい紀伊国屋で立ち読み。本屋の売り場面積にあらためて感動、その在庫数も信じられないくらいである。その足でヨドバシカメラへ。ビル全体が電気屋・・・でかすぎる。逆にこっちが何を探しに来ているのか途中で忘れてしまうほどの品数であった。
周りを見渡せばほとんど全員が日本人、日本なのだから当たり前なのだが自分にとってはそれが違和感にもなる。海外で住みながら、日本人であることを忘れないように日々過ごしているはずなのだが、どっぷりケアンズの空気に慣れてしまっていることは、日本に帰ってはじめて気がつく。人の流れ、車の流れ全てが早い。レストランで食事をしてもでてくるのが早い・・・・そして旨い。
夜は道頓堀に出かけた。大阪人として忘れてはいけないグリコの看板。思わずカメラを構えて写真を撮っている自分が外人のように思えた。昔は、当たり前のように毎日見ていた風景が全て新鮮である。人だかりになっているたこ焼き屋があったが、余分の空間が胃にはない。居酒屋に行っても、どのメニューもわくわくするほど見ていて楽しい。
とにかく、遊園地に行ってパニック状態になっている子供のような気分である。何から手をつけていいのかわからないが、全てを見てみたい、食べてみたい。そんなこんなで時間だけがどんどん過ぎていき、たった1週間の出張があっという間に終わることになる。
3日目からは、しっかりと風邪もひいた。体が完全夏専用モードになっているようである。なんかやばいなと思ったのが3日目の朝、その午後にはしっかり熱を出して寝込んでしまった。1日ほど時間を無駄にしてしまったが、予定の仕事はこなせたので良しとしよう。
それにしても、人が多いというのはいいことである。ビジネスにしても普通に生活するにしてもやっぱり人である。海外で暮らすのはとにかく大変だ。一見よく見えても細かいところでいろんな苦労が付きまとう。僕の場合、嫁さんが外人であるので海外で住むことに関して当然のような成り行きではあったが、個人的には日本がほんと好きである。ただ、今回の帰国は、自分が日本人感覚からどんどん遠ざかっているのを確認した時間でもあった。当たり前のようにあるサービスが分からない、温泉に入ると10分過ぎたころから息苦しくなってくる、平気で違う電車に乗ってとんでもない方向へ行ってしまう、携帯のリチャージの買い方がわからない・・・なんかケアンズにいるとよくワーキングホリデーの人たちから聞くような質問なのだが、自分が日本に帰ったときにそういった基本がわからない。そうそう、ヘルメットをしていない自転車に乗った人にも違和感を感じ、歩道を向こうから突っ込んでくる自転車に怒りを覚えたこともあったが、どうもそれは普通のことだったようである。
自己主張の強い外国に住んでいると、腰の低い日本人のよさをふと忘れがちである。はっきりものを言わないという欠点でもあるが、その物腰の低さは忘れてはいけない日本人のいいところだと思う。そして何にもまして、日本のいいところは、行き届いているサービスである。ある人と話しをしていて、スターバックスの中で日本ほどサービスのいいスターバックスはないそうである。本家でもびっくりしているほどらしい。その話は納得しやすい。で、今回出会った日本人サービスで1等賞は新宿から乗った成田エクスプレスの売り子さんである。振りまく笑顔に乾杯であった。
vol.44「東海岸縦断」
2007年07月06日
先月は久々に東海岸を縦断することになった。ゴールドコーストにある店に荷物を運ぶためだった。だいたい自分で店をやっているのに、半年以上も放っておくこと自体なんとも申し訳なかったので、そのお詫びもかねての出張であった。
昔アーリービーチでダイビングコースを教えているときは、ケアンズに住みつつ毎月のように車で通っていた時期がある。片道650キロほど。慣れてくると7時間ぐらいで走ってもそんなにつらくはなくなってくる。途中の休憩パターンも型にはまってくるようになり、決まった場所で、決まった時間、決まったものを食べて次へと移動するようになっていた。
ケアンズからゴールドコーストまでの移動となると、アーリービーチのそれに比べると約3倍、走行距離にして1800キロちょっとである。これぐらいの距離になると、結構前の日からの準備に気合が入ってくる。通常は1泊2日でロックハンプトンに宿泊してからゴールドコーストへと言うパターンである。昼間、天気がいいとこのロックハンプトンまでの約1000キロは結構気持ちがいい。周りはサトウキビか牧場ぐらい。約350キロから400キロごとに大きな街に到着し休憩と言った感じである。しかし、オーストラリアという国はでかい。それでもって人が少ない。何となく地球上で最後に残るのはオーストラリアのような気もするぐらいである。
そんなこんなで到着した今回のゴールドコースト。残念ながらダイビングをするまもなくケアンズに戻らなければならなかったが、今回の悲劇と言うかおろかな間違いは復路にあった。
バンダバーグで用事があったので、ゴールドコーストを朝3時半に出発。8時にバンダバーグ到着。2時間ほどのミーティングをしたあと10時に出発。ここで何を思ったのか、何となくケアンズまでその日のうちに帰れそうな気がしたのである。みんなには無理するなと言われたけれど、なんか体が大丈夫だといっている。結局そこから約15時間半かけて夜中にケアンズに到着した。最後の1時間は本当につらかったが、ちょうどタイミングよくパトカーに止められて飲酒検問を受けたり、道脇に止めているネズミ捕りのフラッシュがたかれたりしたのでケアンズまで目が覚めた状態で到着した。(ちなみに、検問は任意のもので何もお咎めなし、スピードカメラもなぜか制限速度で走っているのにバシャッと写された)
1泊を節約するために一気に帰ってきたのであるが、翌日からその無理がたたってむち打ちのような症状が首に出て、その後4・5日首が回らなくなってしまったのである。これにはびっくり。振動がずっと首に負担となって、ひどい筋肉痛と言うかむち打ちになったようである。
困ったのは、ケアンズに戻ってから2日後に飛行機でオークランドに行かなければいけなったこと。首が横に動かないにもかかわらず、隣の席に座っているオージーがよく話しかけてくるのである。顔を向けることが出来ないから体ごと向きを変えて話さなければならない。そこからくる頭痛も半端じゃない。気づいてくれればいいのに、ブリスベンまでの約2時間のフライトの間ずっと話をすることになった。到着間際に、「首大丈夫?」って。分かっていたらそっとしておいてくれればいいのにと。1週間のオークランド出張も半分はこの痛みのためにフルパワーならず。
全てが、何を思ったのか一気にゴールドコーストからケアンズまで帰ろうとした罰である。
オーストラリアの道は運転しやすそうで、実は結構スピードが出ているにもかかわらずそのスピード感がないため危険なことも多い。特に夜間なんかはどこからカンガルーが飛び出してくるか分からない。無理は禁物、次の縦断からは充分に休憩を取りながら移動することに決めた。
さてさてダイビング小僧もすっかり潜る本数が減ってきたのだけれど、ダイビングの仕事で、拠点がケアンズ・ゴールドコースト・バンダバーグ・オークランドとなったので、これからもっとそこからいろんな場所へ潜りに行こうと思っている。
好きなお酒のほうも、今回のオークランド出張で初めてニュージーランドのワインをじっくり飲んだのだけれども、あまりにも飲みやすく、あまりにもおいしかったので記憶を失うほど飲む羽目になってしまった。キーウイワインには注意である。
vol.43「ボートから見たイルカ」
2007年05月06日
海に出かけると思いがけない光景に出会うことがある。日没の瞬間に天候やその他の条件が揃ったときにだけ見ることができる「グリーンフラッシュ」などは見ることができると感動である。
僕の中で一番印象に残っているのは、セブ島で夜、海を見ていると水面を泳ぐイルカの背中が夜光虫で光り暗闇の中にぼんやりとイルカの形のような光が浮かび上がったことである。その1回しかその光景は見ていないが、今でもはっきりと記憶に残っている。
もちろん写真など撮れるような条件ではないので皆さんに見せることは出来な いが、海に出るとそんな不思議な体験をすることがある。
2年前のミンククジラ追跡クルーズでの話。グレートバリアリーフは冬の期間南東の風が吹き、決して穏やかな海況とは言えない日が続くことが多い。
それでもリーフの内側に入ってしまえば問題なくダイビングができるし、水中のコンディションも全く問題にはならない。この時期のクルーズで4・5日間北へ向かってミンククジラとの遭遇を楽しむのだが(ちなみにこれは世界中を見ても珍しい)、毎年ある程度の風は覚悟しているし、多少の船の揺れも予想してツアーに出かける。
ところが、出発してから5日間全く風が吹かなかったのである。水面がオイルを張ったような滑らかなガラスのようになっていて、水平線のほうを見ても空と水面との境目がわからないほどである。
通常1日だけ同じようなコンディションになることはあるのだが、5日間のクルーズでそのうち4日間、それも冬季にである。そのときのダイバーはラッキーとしか言いようがない。
当然、水面で何かが動けばすぐにわかる為、クルーズ中のミンククジラ遭遇率は今まで行った中でも最高だったのは言うまでもない。
そこで、また思いがけない光景に出会ったのである。それがこの写真。撮影したのは走っているボートの上からである。
写真の右下のボートが写っているのがはっきりと見える。これほど水中にいるイルカをボートからはっきりと写真に収めたことがなかった。空を飛んでいるような感じである。
しばらくボートの船首部分で遊んでダイバーを楽しませてくれたが、水中でイルカを見たとき以来の全身をはっきりと見たイルカ…最高であった。
単純にミンククジラとの水中での遭遇も衝撃的な体験であるが、その中でも特に印象に残っているシーンを上げるとするなら、昨年のクジラの中でダイバーが前に差し出した手のひらを口先がくっつくぐらいまで体をまっすぐ立てて上がってきたときだろう。
全身が8mほどもあるクジラがである。ダイバーのほうがビビッてしまい、クジラが触れる直前に手を引いてしまったのであるがそのまま出していれば確実に「ミンククジラの手のひらキス」であった。
イルカ・クジラではないが、マンタのひれでビンタを食らったことがある。マンタとの出会いだけでも興奮するが、そのときはなぜか1列になって水面近くを行進しており、スノーケリングで次から次へとやってくるマンタを正面から眺めることが出来たのである。その数20枚以上。
どうも行進中のコース上にいたのが僕だったようで、一枚のマンタがにらめっこするほど寄って来たと思ったら、くるりと体の向きを変えるときにヒレの先で僕のほっぺたを「パシッ」と叩いたのである。これにはびっくり、ビンタをされて感動してしまった。
そうだ、一つ忘れていた感動のシーン。またまたイルカに戻るが、アーリービーチで働いていたときの話。
水中でなくした講習用のスレートを探しにボートから一人で潜ったとき、ふと気配を感じて振り返ってみるとそこにイルカの赤ちゃんが体を立てて僕を見ていたことがある。すぐに母親のイルカが呼びに来て泳ぎ去ってしまったが、しばらく呆然としてその場から動くことができなかった。
われに返り、水面に浮上してみると、ボートのクルーが他のお客様と一緒にイルカの群れを追っていた。近くに群れがいたようである。
最近どうも事務仕事が多く、ダイビングに行く機会が少なくなってきている。旅行に行く機会も減ってきている。 なので、昔のこんなシーンを思い出すことが多くなってきてしまった。
またこれからも新しい感動の瞬間を期待しつつ潜りに行かなければ!
vol.41「バスの旅」
2007年01月06日
ここ2年ほど西オーストラリアに行っていない。特に行かなくなった理由はないのだが、行けなくなっていると言ったところだろう。他の場所での仕事に余裕ができればすぐにでも戻りたいところだが、その中でも今すぐにでも行きたい町が西オーストラリア南部にある。
パースから車で5・6時間のところにその小さな町はある。
幹線道路が通っているわけではないので、地図を頼りにたどり着くと、家はそこそこあるのだが観光地化されていないこの町に着く。宿泊施設は1軒のみ。モーテルといっていい感じだが、結構ちゃんとした宿泊施設である。前回行ったときは、ダイビング前夜にレストランで西オーストラリアのワインをたらふく飲み、かなりいい感じに酔っ払ってしまった。食事のメニューはお世辞にも決していいとは言えないが他の選択肢がないので我慢しなければならないが、この西オーストラリアのワインはほんとにおいしいものが多いので良しとしよう。
このエリア、ダイビングで言うとシードラゴンといわれるオーストラリアの固有種が多く見られる。
シードラゴンとは、シーホースといわれるタツノオトシゴなどの親戚にあたるが、全長30cmほどでその擬態が素晴らしく、日本のテレビや世界のメディアで幾度となく紹介されている。たぶん南海岸域では1・2を争うシードラゴンポイントだろう。
シーズンさえ間違わずに選んで行くと(9月から2月ぐらいまでが産卵時期で1年を通じてもっとも多くのシードラゴンを見ることができる)リーフィーシードラゴンとウィーディーシードラゴンの両方を見ることができる。 また、それだけではなく冬期(7月から9月)には多くのミナミセミクジラが集って来ることでも知られ、地元のオージーが「ボートの横に集ってきて、多いときは背中を歩くこともできるぞ」なんてことも言っていた。実際に歩く人などはいないだろうが、この周辺のビーチには本当に多くのセミクジラが集ってくる。
4WDでしか入っていけそうにないような道を突き進んでいくと、そういった隠れたビーチにたどり着く。そこにはサーファーであれば泣いて喜ぶような波が立っているが人はほとんどいない。海の色も藍色といったほうがいいような深い青である。観光地としてまだ有名ではないため、キャラバンか何かでオーストラリアを廻っているオージーぐらいしか訪れることはない。そんな特別な場所なので、この記事の中ではあえて町の名前は出していない。
さて、この町にある唯一のダイビングサービスに名物ガイドがいる。もともとアメリカ人らしいがひげを伸ばした仙人のような風貌に最初はちょっと引いてしまう。周辺のダイビングポイントの知識は豊富で素晴らしいダイビングガイドをしてくれるが、シーズンオフの期間は農業などを営んでいるようで初対面の印象は確かにダイビングガイドというよりも農家のおじさんという感じではある。なんせ彼一人でやっているダイビングサービスなので、決まった営業時間というものはないらしい。ダイビングに行っているときはもちろん店は休み、お客さんが少ないときはもちろんすぐに閉まってしまうような感じである。同じくダイビングサービスをやっている僕から見るとうらやましい限りのスタイルである。
なので、これを読んで行きたいと思っている人は必ず電話で予約をしてから行くように。あと、この周辺は夏場でも水温が18℃ほどまでしか上がらないので、ドライスーツを持っているといいだろう。
オーストラリア各地にはここで紹介したような個人で営んでいるようなダイビングサービスがいくつもある。雑誌の情報だけではなく、自分の足で探し出して丸秘ポイントを開拓するのは本当に楽しい。大勢でダイビングに出かけるのも楽しいが、自分だけが知っているところで自由気ままにダイビングもいいものである。
その延長線でもあるが、昨年からソロダイビングたるものも始めた。ダイビングはバディーで潜るものという常識があるのだが、ソロダイビングというテクニックもアメリカを中心に開発されてきており、正しいトレーニング・器材と経験があればひとりでダイビングができるところが増えてきている。
プライベートでは一人旅が好きである。これからも仕事でのダイビングと遊びでのダイビングとの区別をしっかりとして両方楽しみ続けたい。
vol.40「ゴールドコースト」
2006年11月06日
10月はじめ、久しぶりにゴールドコーストまで車で行ってきた。そもそもの目的は仕事だったのだがゴールドコーストまでの約1700キロを1泊2日、1人で運転したのは何年ぶりだろうか。
10年ほど前まではケアンズに住みながらアーリービーチで仕事をしていたこともあって、ほぼ毎月片道約650キロほどの行程を車で往復していた。ゴールドコーストまではその約3倍、1日で走りきるには無理である。ロックハンプトンでモーテルに泊まり、翌朝早く出発、昼過ぎにはゴールドコーストに着いた。
長距離を運転するのは基本的に好きだが、途中あれば嬉しいのが日本のようなサービスエリアである。ブリスベン近郊までくるとかなり充実した施設はあるが、途中はガソリンスタンドにコンビニエンスストアだけといったところばかりである。
そんなわけで、オーストラリアの車の移動でいつも飽きてしまうのが移動中の食事。フライドポテト、チキンドラムスティック、フィッシュアンドチップスなどに限定されてしまう。これが、かなりの距離を移動するときには苦痛に変わってくる。大きな街ごとに休憩するとマクドナルドのはしごになってしまう日も多い。ソーセージアンドエッグマフィンの朝食と、クオーターパウンダーセットのランチ、ビッグマックでディナーなんて日もある。
まだ、西オーストラリアを北上することを考えれば東海岸は街もあるし、人の匂いもするので快適といえば快適なのだが、ハイウエイ沿いの食事だけ何とかならないだろうか。
15年前の1号線に比べると舗装も道幅も数段よくなってきているのは確かである。追い越し車線なんかも、一定区間ごとに整備されてきて運転も以前に比べるとしやすい。昔は、巨大なトラックが向かってくると路肩に止まるしかなかったことも多かった。巨大なトラックで思い出したが、オーストラリアではたまに家をそのままトラックに乗せて引越しをすることがある。昔ケアンズの郊外に住んでいるとき、なんか隣の家に人が集まって工事をしているなと思っていたら、次の日の朝にはそっくり家ごとなくなっていたことがある。家ごと移動したのはすぐ分かったが、どうやって狭い道を通っていったのかはわからなかった。しばらく経って、マルグレーブ通りで早朝、家が動いているのを見て初めてオーストラリアのすさまじい引越しテクニックを実際の目で見たのだが、日本ではありえない方法である。
途中、いろんなところに寄って観光やダイビングなどができれば文句ないのだが、残念ながら今回は一気にゴールドコーストまで降りなければならず、給油のための休憩ぐらいでどこにも寄らず目的地を目指した。ケアンズに比べるとさすが都会である。何度行っても圧倒されるのがサーファーズの高層マンション。上を見上げながら運転していると事故を起こしそうである。
この時期はINDYのレース前でもあり渋滞も相当なものだったが、午後2時ごろ無事サーファーズに到着、宿にチェックイン。
滞在中の仕事の合間に立ち寄ったのが写真のビーチ。朝早くから多くのサーファーが来ているのだが、その向こうにサーファーズのビルが見える。海の青さも素晴らしかったが、ビルを背景にサーフィンを眺めるのはケアンズにはない光景である。そもそも、ケアンズ周辺はサーフィンができるビーチが皆無と言っていい。北に行ったビーチのごく一部でできるところがあるらしいが波の大きさなどはサーファーズの比ではない。それにしてもサーファーズパラダイスとサーファー、見事に合体してかっこいい空間を作り出している。
ダイビングは見せるスポーツではないので、ダイバーとゴールドコーストといってもちょっと地味な印象が残ってしまうのは仕方ない。ただここの海は、サーファーだけにしておくのはもったいない。大物三昧のダイバーなら涙を流したくなるようなポイントが一杯ある。仕事の合間にダイビングができるかと器材を車に積んできたのだが、残念ながらそういった時間をとることはできなかった。
今回の出張の帰りは、ブリスベンで合流した嫁さんと2人で帰る事になったので行きに比べると楽だったが、次の出張からは間違いなく飛行機で行くことになるだろう。しばらく車での移動は控えようと思っている。
vol.37「バスの旅」
2006年05月06日
最近ガソリンの値上がりが激しい。新聞やニュースでは連日取り上げられているが、ここ数年の国内線の飛行機の値下がりとガソリンの高騰で、バスや車でオーストラリアを周る人が少なくなってきているのではないだろうか。
以前は、ワーキングホリデーなどがケアンズからゴールドコーストへ向かう場合、バスを利用するのが当たり前であった。が、飛行機の方が安い(場合が多い)今、途中どこにも寄らずに飛行機で一気に南下してしまう(もしくは逆に北上してしまう)ケースが多いようだ。便利にはなったが、見逃してしまうものも多いだろう。
東海岸をじっくり移動するのは非常に楽しい。ダイバーならなおさらである。日本のダイビング雑誌は、ケアンズからのダイビングの情報がほとんどであるが、東海岸全域には多くのダイビングスポットが点在する。
アーリービーチのダイビングサービスで働いていたころは、1ヶ月に少なくとも1〜2回程は、ケアンズから車かバスで通ったものである。片道630キロ。日本の感覚でいえば、車で通勤するような距離ではないが、オーストラリアでは長距離に入るほどでもない。
バスだと11時間程の行程が、僕の中ではかなりお気に入りだった。普段あまり読むことのできない本を持ち込み、じっくり読んだこともあるし、サトウキビ畑や牧場なんかを、ただただボーっと眺めていただけのときもある。
ちょっと時間の余裕があると、途中タウンズビルに寄って、水族館で時間をつぶすこともあった。
タウンズビルにはグレートバリアリーフマリンパークの本部があり、オフィスに立ち寄れば数多くの資料を入手することもできるし、水族館にある売店に行くと、興味深い本を購入することもできる。
また、オーストラリア最大の陸軍の基地があり、QLD州の第2の首都とも言われている。町の中心にある『キャッスルヒル』からの夜景はかなりきれいでお気に入りの場所。ここからはあの有名な『ヨンガラレック』というダイビングスポットへ行くこともできる。
アーリービーチは東海岸最大のパーティータウンとして、バックパッカーの集まる小さな町である。数百mの一本道の両側に、かわいいショップやパブが立ち並び、ビーチが目の前に見える。昼間からビールを思いっきり飲みたいのなら、アーリービーチでの滞在を考えてみるといいだろう。
さらに南下していくと、グレートバリアリーフの南端へのダイビングを楽しむこともできる。バンダバーグからGBR最南端部へのダイビングに行くのもいいし、そのさらに南では(もうブリスベンが目前だが)、退役軍艦のレックダイビングやマンタ・サメなどとのダイビングを思う存分楽しめる。
ブリスベンのさらに南に位置し、毎年のようにチャンスを見つけては行っているのが『バイロンベイ』である。前述のアーリービーチに雰囲気のよく似た町で、オージーには有名なダイビングスポットがある。サーファーにとってもかなり人気のポイントなので、数年前にサーファーとダイバー合同企画みたいなものを組んで行ったこともある。
いつも個人で潜りに行くことが多かったバイロンベイに、ゴールドコーストからサーファーと一緒にバスでツアーとしていったのだが、全く共通点がないと思っていたサーファーとダイバーに、多くの部分で共通する部分があり面白かった。
西海岸には、毎年のように『エクスマウス』へジンベイザメを見に行く。自分で車を運転して行くより、飛行機で行くほうが安く行けてしまうのかもしれないけれど、陸路で感じるオーストラリアならではの風景などを見逃してしまうのは非常にもったいない。
オーストラリアに長く居ると、日本に居た時と比べ距離感が大きく変わってしまう。3桁の移動はごく普通、4桁になれば長距離かなといった感じである。1000キロを超える移動も、時速100キロでずっと運転できるので、休憩を入れても12時間ほどで着いてしまう。
その間の風景は、だだっ広いオーストラリア大陸しか入ってこないのだが、日本を離れてオーストラリアに住んでいることを一番感じられるときでもある。
地図に地名が載っていても町だと思い込むのは危険である。ガソリンスタンド1件だけのところでも、地図にしっかり地名が載る場合もあるからだ。
5月から8月頃は、東海岸南部のダイビングが非常に面白くなってくるので、できればダイビングをやりながらの移動が最高だと思うが、ダイビングをしない人も、この時期はクジラが北上してくるので、いたるところでホエールウォッチングができるだろう。一気に各都市を移動する旅もいいが、時間がある限り、じっくりオーストラリアを見てもらいたい。
vol.36「ニュージーランドのリズム」
2006年03月06日
ニュージーランドに行ってきた。15年前、ケアンズに到着したときは「何とのんびりしたところだろう」と感じたが、今回初めて訪れたオークランドは都会だった。高層ビルが立ち並び、町中にはハイウエイも走っている。
今回はビジネスで来たので、用件を片っ端から済ませていかなければならない。そんな感じで始まったニュージーランド出張なのだが…。予想していなかったニュージーランドの壁に初日からぶち当たってしまった。
リズムである。
生活のリズムというか、仕事のリズムというか、全てがのんびりしている。オーストラリアもかなりのんびりした国だと思っていたが、ニュージーランドはその数倍のんびりしていた。
オークランドといえば、ニュージーランドの中でも大都市のはずなのだが、そこで働く人々はのんびりと日々を暮らしているようである。
まずは銀行の口座開設が1日でできない。携帯電話がその日のうちにつながらない。マクドナルドでは注文してから5分は待たされる(滞在中4回行ったが、例外なく待たされた)。
最初はこのリズムにとまどったが、慣れてくると、結構そのリズムを楽しめるようになった。
ファカタネ、という町でダイビングをした時に出会った、マオリのダイブマスター「ジェームス」。
何でもファカタネはマオリの先祖が最初にニュージーランドへ上陸した場所らしく、いろいろな話を聞かせてくれた。町名の由来や、マオリ部族間の争いの話し、マオリの長い名前の話など、ビールを飲みながら語ってくれたのだが、やはりニュージーランドのライフスタイルが一番良いといっていた。忙しく働いて金を儲けるのもいいが、生きていくだけの収入があれば、あとは楽しければ一番良いという。
ちなみにこの町でダイビングショップを経営しているのは、ファカタネの元町長なのだが、本人にはそんな雰囲気は全くなく、言われるまで気付かなかった。日本にも、姉妹都市との交流などで何度か行ったことがあるらしく、親日家であった。
みんな口を揃えて、これからもっとファカタネのダイビングが有名になって欲しいというのだが、同時に今の少ない人数で楽しく続けていくのが一番良いとも言う。のんびりしている上に、かなり保守的、というのが僕の印象だが、今までのリズムを変えたくない、そんな印象をいたるところで強く感じた。
さてジェームスが僕に、「一番住みたい場所はどこだ?」と、聞いてきた。そのとき彼はニヤリと笑っていたのだが、僕が「日本だ」と答えると非常に驚いたように、「ファカタネじゃないのか?」と聞き返してきた。ファカタネに来た多くの人が、そのまま住み着いているそうである。当然、僕もそれぐらいここを気に入っていると思い込んだ上での質問だったらしい。
確かにいい場所だなとは思ったが、まだまだこれから色んなところを見てみたいし、今のところ日本が僕の一番好きな場所であるのは間違いない。
しかし、オーストラリアに長く住んでいると、距離感がオーストラリア式になってしまうのか、ニュージーランドは非常にこじんまりした小さな国だという印象だった。今回は北島だけの滞在だったが、どこに行くにしてもすぐ近所、という感じである。東側から西側の海岸まで北島を縦断するのも容易である。南島になるとかなりワイルドなところが多くなるらしいので、それなりの準備と時間があった方が楽しめるようだが、はじめて行ったニュージーランド、なかなかいい国である。
ニュージーランド人は食べることがこよなく好きなようである。マクドナルドに行くとNZ独特の特別メニューが目に付く。ハンガーバスターやその他ビックサイズのセットメニューが多くある。マオリの人たちにとって、通常のLセットでは物足りないらしい。
ビールもいろいろ揃っている。不思議なのはオーストラリアで買うオーストラリアのビールよりも、ニュージーランドのほうがずっと安かった点だ。なぜだろう。
ジェームスから聞いたのだが、彼の知り合いのマオリで、クジラの骨を使ってアクセサリーを作るカーバーがいるらしい。オーダー時、彼に直接会って話をして、そこから得られるインスピレーションで作ってくれると言う。出来上がるまでには数日かかり、店を持ってやっている訳ではないので、紹介がないと会うことができないが、次回行ったときには是非時間をとって会ってみたい。
クジラの骨から作るだけでも、ダイバーとして是非身に付けておきたいが、会話の中から読み取られる自分をベースにして作るというところがさらに魅力的である。
ュージーランドに行ってきた。15年前、ケアンズに到着したときは「何とのんびりしたところだろう」と感じたが、今回初めて訪れたオークランドは都会だった。高層ビルが立ち並び、町中にはハイウエイも走っている。
今回はビジネスで来たので、用件を片っ端から済ませていかなければならない。そんな感じで始まったニュージーランド出張なのだが…。予想していなかったニュージーランドの壁に初日からぶち当たってしまった。
リズムである。
生活のリズムというか、仕事のリズムというか、全てがのんびりしている。オーストラリアもかなりのんびりした国だと思っていたが、ニュージーランドはその数倍のんびりしていた。
オークランドといえば、ニュージーランドの中でも大都市のはずなのだが、そこで働く人々はのんびりと日々を暮らしているようである。
まずは銀行の口座開設が1日でできない。携帯電話がその日のうちにつながらない。マクドナルドでは注文してから5分は待たされる(滞在中4回行ったが、例外なく待たされた)。
最初はこのリズムにとまどったが、慣れてくると、結構そのリズムを楽しめるようになった。
ファカタネ、という町でダイビングをした時に出会った、マオリのダイブマスター「ジェームス」。
何でもファカタネはマオリの先祖が最初にニュージーランドへ上陸した場所らしく、いろいろな話を聞かせてくれた。町名の由来や、マオリ部族間の争いの話し、マオリの長い名前の話など、ビールを飲みながら語ってくれたのだが、やはりニュージーランドのライフスタイルが一番良いといっていた。忙しく働いて金を儲けるのもいいが、生きていくだけの収入があれば、あとは楽しければ一番良いという。
ちなみにこの町でダイビングショップを経営しているのは、ファカタネの元町長なのだが、本人にはそんな雰囲気は全くなく、言われるまで気付かなかった。日本にも、姉妹都市との交流などで何度か行ったことがあるらしく、親日家であった。
みんな口を揃えて、これからもっとファカタネのダイビングが有名になって欲しいというのだが、同時に今の少ない人数で楽しく続けていくのが一番良いとも言う。のんびりしている上に、かなり保守的、というのが僕の印象だが、今までのリズムを変えたくない、そんな印象をいたるところで強く感じた。
さてジェームスが僕に、「一番住みたい場所はどこだ?」と、聞いてきた。そのとき彼はニヤリと笑っていたのだが、僕が「日本だ」と答えると非常に驚いたように、「ファカタネじゃないのか?」と聞き返してきた。ファカタネに来た多くの人が、そのまま住み着いているそうである。当然、僕もそれぐらいここを気に入っていると思い込んだ上での質問だったらしい。
確かにいい場所だなとは思ったが、まだまだこれから色んなところを見てみたいし、今のところ日本が僕の一番好きな場所であるのは間違いない。
しかし、オーストラリアに長く住んでいると、距離感がオーストラリア式になってしまうのか、ニュージーランドは非常にこじんまりした小さな国だという印象だった。今回は北島だけの滞在だったが、どこに行くにしてもすぐ近所、という感じである。東側から西側の海岸まで北島を縦断するのも容易である。南島になるとかなりワイルドなところが多くなるらしいので、それなりの準備と時間があった方が楽しめるようだが、はじめて行ったニュージーランド、なかなかいい国である。
ニュージーランド人は食べることがこよなく好きなようである。マクドナルドに行くとNZ独特の特別メニューが目に付く。ハンガーバスターやその他ビックサイズのセットメニューが多くある。マオリの人たちにとって、通常のLセットでは物足りないらしい。
ビールもいろいろ揃っている。不思議なのはオーストラリアで買うオーストラリアのビールよりも、ニュージーランドのほうがずっと安かった点だ。なぜだろう。
ジェームスから聞いたのだが、彼の知り合いのマオリで、クジラの骨を使ってアクセサリーを作るカーバーがいるらしい。オーダー時、彼に直接会って話をして、そこから得られるインスピレーションで作ってくれると言う。出来上がるまでには数日かかり、店を持ってやっている訳ではないので、紹介がないと会うことができないが、次回行ったときには是非時間をとって会ってみたい。
クジラの骨から作るだけでも、ダイバーとして是非身に付けておきたいが、会話の中から読み取られる自分をベースにして作るというところがさらに魅力的である。
vol.35「オーストラリアでのクリスマス」
2006年01月06日
これを書いているのは12月25日、クリスマスの日である。日本から観光できた人はかなり驚いたかもしれないが、ケアンズ(オーストラリア全体と言っていいが)のクリスマスは非常に静かだ。
家族が集合して、特別なランチやディナーを楽しむというのが一般的な過ごし方である。クリスマスの日に仕事をするなんて、考えたこともない人が多いので、当然、多くのお店も閉めることになる。
シドニーなどの都市部でも、クリスマスの日の営業が法律で禁じられているほどである。珍しく開いているレストランで食事をしようと思うと、特別料金だった、なんて事も珍しくない。
街中を走っている車の数もまばらである。何がすごいって、あのエスプラネードの24時間営業マクドナルドも閉まっている。
日本だと師走で忙しい時期だが、こちらではクリスマスのかなり前から新年にかけて、クリスマスホリデーをとるビジネスが多く、スムーズに物事が動かなくなることが多い。政府関連の窓口などは遅れる言い訳が全て「クリスマスだからね」と来る。どんな業者に連絡を取っても、「クリスマスだから」と1月まで待ってくれとくる。
今月、エアコンの業者に設置を頼んだのだが、ユニットが22日に届いても設置が1月9日になると言ってきた。この暑いクリスマスを涼しく過ごそうと思って頼んだのにである。
日本にいるときはクリスマスの日に仕事をすることに何の抵抗もなかったが、オーストラリアに来てからは25日に仕事をするのが犯罪のような雰囲気まで漂っている。
こんなクリスマスを過ごすことになって15年。その雰囲気にすっかり慣れてしまった。毎年、過ごし方は違うのだが、最近はマッタリと朝から家族と一緒にいることが多い。ホテルに部屋をとって、何もせずにゴロゴロするのも最高だ。
以前、フィリピンの両親がケアンズに来ていた時に、たまたまダイビングツアーでバンダバーグに行くことになり、その最終日がクリスマスだった。両親は敬虔なカトリック教徒でもあり、従ってクリスマスディナーが非常に重要である。
ダイビングクルーズから下船したのが24日夜。夜中に車を走らせるのは好きではなかったが、その日のうちにロックハンプトンまで北上し一泊。翌朝4時に出発し、ケアンズまで一気に死に物狂いで帰ってきた。
その距離約1200キロ。営業しているのはガソリンスタンドだけで、ランチを取れる場所すら見つからない。スタンドに置いてあった僅かなミートパイとポテトチップスをほおばりながら、何とか夜7時、ケアンズでのクリスマスディナーに間に合った。それ以来、無理なスケジュールはクリスマス前に入れないようにしている。
もうひとつ、オーストラリアのクリスマスが日本と大きく違うのが、真夏のクリスマスであるということだ。ホワイトクリスマスが非常に懐かしいが、毎年蒸し暑いクリスマスを過ごすのもなかなかのものである。サンタのひげを見るだけでも暑苦しく感じてしまうのは僕だけではないはずだ。
それでもクリスマスともなるとデパートでは雪景色の前で、あの暑苦しいサンタが大勢出没する。南半球バージョンのサンタを徹底したほうがいいと思うのだが…。
クリスマスをはさんで来年の計画(この号が出ている時はすでに2006年だが)なども立てているのだが、ダイビングでは南オーストラリアを攻めようかと計画中。ちょっと変わったダイビングがいろんなところで楽しめる。夏限定になるのかもしれないが、そのあたりの旅の報告もこの紙面でできればなと思っている。
南半球という広い目で見てみると、ニュージーランドが面白そうである。ただなんとなく日本と形が似ているだけで親近感があるのだが、冷たい水でのダイビングが楽しみなのである。
ケアンズに長くいると、「寒い」「冷たい」ダイビングが懐かしくなってくる。もちろんドライスーツで完全防寒対策をした上での話しだが、常夏のダイビングとはまったく違うところがいいのである。
それと、寒いところはなんとなく海の幸も旨そうである。ケアンズで熱燗を飲んでも、なんか汗をかきながら飲んでいるようでいまひとつだが、プルッとくるような寒さの中で、釣った魚を塩焼きにして、豪酒の熱燗を飲むなんていうのもいい。
オーストラリアに住んでいると、1年が過ぎるのが恐ろしいほど早く感じるのだが、2006年も今までと変わらずいろんなところに行って、いろんなことを試してみよう思う年末である。
ゴールドラッシュに起因するケアンズの始まり
2007年09月10日
ラッセルリバーの金鉱で金を探す人々。1890年頃。
ケアンズはもともと港町として始まりました。トリニティ湾という名は、イギリスの探検家キャプテンクックが1770年に通り過ぎた時に名付けたものです。この海が注目を浴びたのは実に100年の後。1873年にケアンズから3218km離れたパーマーリバーで金が発見されてからでした。
ゴールドラッシュで賑わうこの金鉱から輸送用の港を作る必要性が高まり、政府の役人がカードウェルからエンデバーリバーまでの東海岸を探検し、開港にふさわしい場所を探し回りました。一行は、現在ケアンズのアンザック公園の向かい側に当たる場所にキャンプを張ったと言う記録がありますが、マングローブと湿地を通り抜けることができず、遠目に見えた土地に降り立つことはできませんでした。
1876年にはホドキンソンリバーで金が発見され、パーマーリバーから多くの人が流れてきました。当時、港はクックタウンにあったのですが、ホドキンソンリバーからは遠すぎました。そこで、この川からたった80kmしか離れていないケアンズに港を開いてはどうかと言う話が持ち上がったのです。
ビル・スミスを先頭に一行が派遣され、ホドキンソンリバーの金鉱の村、ソーンボローからトリニティ湾までの道を切り開くよう命じられました。この時(1876年7月)は作業を断念せざるを得なかったのですが、2ヶ月後に、今度はクックタウンからボートを使って、海路でトリニティ湾へ入って作業を続けました(現Rainforest Estateよりハイキングコースとして残っています)。
同時期、政府も積極的に活動を進め、カードウェルの警察長官シェリダンを派遣して、町にふさわしい場所を探させました。2週間の調査の後、報告書が提出され、タウンズビルから命のおりた役人が1876年10月6日にシェリダンの選んだ土地に到着しました。そして翌日、クイーンズランド州の知事だったウィリアム・ウェリントン・ケアンズから名を取り、ケアンズという村が正式に誕生したのです。
ケアンズとその一帯に住んでいた中国人
2007年09月10日
(左)1903年頃ケアンズに移住してきたWong Su Duck一家。4人の妻、24人の子どもがいた
(右)ドラゴンダンス アボット通りにて1910年撮影
1870年代、ゴールドラッシュのあったパーマーリバーにはたくさんの中国人が働いていました。金が採れなくなった後も、その多くがケアンズとその周辺に在留。1881年には、サッシュ通り(現シールズ通りとスペンス通りの間)がケアンズのチャイナタウンとなりました。粗末な小屋が並ぶこの通りに、およそ700人の中国人が暮らし、ほとんどの人々がサトウキビ・プランテーション、Hop Wah Estateで働いていました。マルグレーブロードとイシュメール通りの間、チャイナマン・クリーク近くにあったこのプランテーションは1〜2年後つぶれてしまいましたが、管理人の住んでいたマクロード通りから畑までの道は、閉鎖後もしばらくHop Wah Roadと呼ばれていました。
1880年代までには、掘っ建て小屋はなくなり、チャイナタウンにちゃんとした建物が建ち始めます。ストリートの西側の真ん中にあったのはSun Wo Tiyが所有する2階建ての大きな建物。その向かいにはSam Singの2階建ての建物。また道の両端にJoss Houseが建てられました。道沿いには中華パン、焼豚、食べ物屋などの店舗が並び、角をスペンス通り側に曲がった所にはChin Bonの仕立て屋(現Cummins & Campbellビル)があり、軽いシルクでできたスーツを売っていました。
ほとんどの中国系の店は後ろに長く伸び、右側が細かく別れていて、多くの人がそこで寝、横には男性がオピウムのパイプを吸う場所がありました。奥の部屋ではギャンブルが行われるのが常で、Fan Tan やChee Farと呼ばれるゲームが好んで行われました。
前後に籠のついた棒を肩に背負って野菜やフルーツを売る人もチャイナタウンではたくさん見られました。彼等は籠に合計で65kgほどの物を入れて運ぶことができ、歩くたびに籠を一緒に持ち上げて、肩に重みがあまりかからないようにうまく歩きながら、ケアンズの町中の一軒一軒を回って野菜や果物や、時にはpak-a-puと呼ばれるギャンブルの券をこっそり売って歩きました。
中国新年は1週間に渡って祝われ、チャイナタウンでも毎日午前6時から午後10時まで祝賀が行われました。この期間は歩行者天国で、各店ともベランダから滑車付きの爆竹を地面から少し離れた所まで下げました。約30センチごとに8個ほどのボンボン付きのふさで飾られたこの爆竹は、発火すると大きな音がなるようになっていました。爆竹が通りに投げ込まれたり、スカイロケットや花火が夜空を飾ったり、白人も店に招待されてビール、ワイン、スピリット、中華菓子、ジュースなどと一緒に中国新年を祝いました。
サッシュ通りの他に、小規模ながらカントン通り(現ドレーパー通り)とHop Wah Road(現マルグレーブロード)との角にもチャイナタウンがありました。
チャイナタウンの外でも野菜やフルーツの栽培、サトウキビ・プランテーションで活躍する中国人がいました。Lum Jimという人は、フレッシュウォータークリーク近くにあったBill Bannings’フルーツ果樹園を所有し、100エーカー程のこの土地で5人の中国人を雇って果物を栽培。レインコートや帽子をワラで作っていたと言います。1880年頃Fairview Hillんに住んでいたJimmy Ah Singは丘一帯に果樹園を持っていました。Pine Creek に一家で暮らしていたWah Dayは80才を超えた老翁で、フルーツやライチを栽培。彼の家族は現在も同じ場所(Glen Boughton)でサトウキビ畑を営んでいます。Green Hill にいたSee ChinはCSR社がサトウキビのために土地を買い上げるまで、大々的にバナナを栽培していました。
現在、チャイナタウンは姿を消してしまいましたが、白人と結婚した中国人も多く、現在も多くの一家がケアンズに暮らしています。
シールズ通りの歩み
2007年09月10日
今回は、シールズ通りの特集(18〜21ページ)にちなんで、この通りの歴史的な写真を中心にご紹介します。
「シールズ(Shields)」という名は、ジョージタウン、クックタウン、ケアンズでクイーンズランド・ナショナル銀行のマネージャーを務めたW. Tennant Shields氏からとったもので、この通りはケアンズの町が出来た時から中心部の一つでした。
現在は、レイク通りとの交差点がシティプレイスという広場になっており、憩いの場にもなっています。
写真1…シールズ通りからエスプラネードを望むショット。1890年撮影。ケアンズという町ができて間もなくの頃です。湿地帯だった当地には小さな沼のようなパッチがたくさんあったので、埋めて地面を均すため、エアログレンからシェリダン通り→シールズ通り→アボット通りと、砂利を運ぶトロッコが走っていました。写真の右手は現在アートギャラリーの建物が建っている場所です。左手にトロッコの線路が写っています。
写真2…レイク通りとシールズ通りの角。1920年代終わりに撮影されたもの。現在はシティプレイスになっている場所です。
写真3…1930年に撮影された、カーディーラー〜Estate HS Williams。この屋根は今も同じものが使われています。今はカフェやお店になっていますが、70年近く前は車を売っていたんですね。
写真4…1926年撮影。第一回ANZACデーの集い。1925年、アボット通りとシールズ通りの角に、兵士記念塔が建てられました。(現在、この塔はエスプラネードのRSLビルの前に移動されています)。左手に見えるのは、インペリアルホテルという建物です。
写真5…クラウンホテルの初代マネージャーを勤めたスパーリング一家。1925年撮影。現在のホテル建物は、1929年の火災で焼失した後再建されたものです
ケアンズの目抜き通り
2007年09月10日
1.Harris Bros. にて1936年撮影。現在はマルグレーブロードにあるが、当時は107アボット通りに店を構えていた。1931年創業。クイーンズランド州でたった2軒しかない、家族経営のデパートメントストアとして人気があった
2.アボット通りにあったBoland’s General Store。1890年代撮影。アイルランドから1882年にやってきたボーランド氏は、日用品の注文を受け配達をするこの店から始め、後に現在もランドマークになっているボーランドセンターを建てるほどビジネスを発展させた
3.コミノスカフェ店内。ミルクバーセクションにて1938年撮影。当時は100人以上のスタッフが働いていた。1906年にこのカフェを始めたのは、ギリシャからの移民、コミノス氏。カフェの売上の1%を消防隊に寄付するなど、名誉市民としても名高かった。1951年にカフェを閉じた後も家族経営は続き、カフェだった場所にオーキッドプラザを建設
4.Mellocks Mens Wear Shop前(レイク通り)。1956年、大雨の後に撮影。父親が創業し、後に継いだ息子のメリック氏による店は大繁盛。当時のメンズファッションの最先端だった。(店は現在アボット通り、ウールワース隣)
ケアンズにショッピングセンターができるまでは、シールズ通り、レイク通り、スペンス通り、アボット通りの一画が「ゴールデンブロック」と呼ばれ、市民の買い物の中心地でした。
1950年代の地図を見ると、ニュースエージェント、宝石店、銀行、薬局、カフェ、デリカ、ビューティーサロン、ミルクバー、本屋、服屋、テーラーなどが軒を並べていたのがわかります。
レイク通りに店を構えていたのは、高原の町アサートンに大きな店を出していたMazlin一家。1922年にケアンズに移り、第2号店を始めました。
1922年11月24日にオープンしたこの店を、当時のケアンズポストは次のように描写しています。「ケアンズ市民、そしてビジターにとっても、とても素敵なファッショナブルなショッピングの場。(中略)メンズ、レディス、子供服と最新ファッションが揃う」。
ちなみにこの店のモットーは、階級に関係なく誰でも心地よいサービスを受けられる店、だったそうです。Mazlin一家が購入し、住んでいた家は、現在も379 Draper St.にあります。
店は順調でしたが、1927年2月にサイクロンに見舞われ、建物が大損害を受けます。もっと安全な場所へ移ろうと決め、シールズ&レイク通り角(現在は一階がRockmansという服屋さん)の土地所有者、Lannoy氏と売買交渉を始めました。この土地は、よく水がたまり、1920年始め頃の一時は牛の販売場でした。
結局、Lannoy氏が建物を建て、Mazlin社にリースするということで話がつき、現在も姿が残っている2階建ての建物が造られます。(当時、2階は瀟洒なダンスホールでしたが、第二次大戦後、Mazlin店のストック置き場になり閉鎖します。)
オーク材がふんだんに使われた、高級感漂うインテリアの店内は手の凝った天井、中2階があり、服や靴、コスメティックなどが売られていたそうです。
1959年にこの店は、現在も続くRockmansに代わり、インテリアもガラリと変わりました
木曜島へ真珠を採るためにやってきた日本人たち 〜その1〜
2007年09月10日
1.真珠採取船 (Luggerと呼ばれていた)は、1883年(明治16年)には木曜島に200隻以上あった。写真は、日本人所有の大黒丸
2.仕事を終えた潜水夫。酸素ボンベがなかった当時、ホースでつながれたダイバーのヘルメットに船上からポンプを使って空気を送った。1913年に自動ポンプが開発されるまでは手動だったので、空気が途絶えるという事故が起きたり、スクリューでホースが切断されてしまうこともあった。潜水服だけでも、水中で浮力をつけても40kgの重さがあったと言う
3.木曜島に残る日本人の写真
4.真珠採取船の船上の様子。大きな白蝶貝が山積みにされている。ダイバーに空気を送ったり(手回し送風機と呼ばれる)、真珠貝から真珠を取り出す作業を経験しないと、ダイバーやテンダー(命綱持ち)にはなれなかった。
木曜島という島をご存じでしょうか?ケアンズから北北西に793kmにある面積3㎢ほどの小島です。ここに、明治中頃より多くの日本人が真珠産業のために渡ります。
1869年に、ナマコの漁場を探していたバナーという人が原住民の真珠細工を見て、真珠採取を閃いたのが木曜島での真珠産業の始まりと言われます。
採れたのは主に白蝶貝で、大きいものは20cm以上、殻が厚く中側が光沢のある銀白色で、洋服の高級ボタンなどに用いられました。中には、真珠玉を含むものがあり、貴重な副産物でした。
最初はマレー人、現地住人などが貝を採る潜水夫(ダイバー)を勤めましたが、1879年(明治12年)頃から日本人の出稼ぎが増えていきます。日本人には「精力と成功への強い衝動、および賃金を得たいという熱望」が見られる、という報告もあり、白人経営者は競って日本人ダイバーを集めました。
1882年は、和歌山県出身の中山奇流という人が卓越した潜水技術で名を上げ、自らの出身地和歌山から後継者を呼び寄せたので、ダイバーは和歌山県出身者の独壇場となります。
1883年になると、豪州真珠会社支配人ミラーが日本政府と交渉し、横浜の潜水業者を通じて、初の正規契約労働者として37人を団体移民させました。
当時の契約は「3年契約、労働時間は日の出より日没まで。日曜、祭日、悪天候日は休業。支度料30円貸与、病気の際は入院無料、往復船賃雇い主負担」というものでした。
潜水夫という仕事は、潜水病、窒息、鮫の奇襲など、死と隣り合わせであっても、人々を惹きつけて止まなかったようです。『木曜島の夜会』という小説を書いた司馬遼太郎氏は、この理由を「金への執着」と説明しています。
なにしろ、貝を採るダイバーは、当時小学校教員の年収が100〜130円、農民の賃金が15〜20円の時代に、約1200円、命綱を預かるテンダーという職の人でも350円の収入があったと言われ、かなりの高賃金だったのです。
1897年の段階では、木曜島の真珠関係者1500人のうち、900人は日本人で、日本人所有の採取船も30隻を超えていました。(次号に続く
ナマコ
2007年09月10日
1.トレス海峡のウオリアー島で、ナマコを処理する地元島民
2.グリーン島を出発したナマコ漁船。1931-32年
3.1890年に発行されたクイーンズランド州の産業報告書にも、ナマコのことが記載されている
ケアンズが正式に港として認定されたのが1876年。その後、ファーノースと呼ばれるこの地域一帯には、金、木材、砂糖、鉱山など様々な産業が栄えました。
が、実はそのずっと前から、ここには知る人ぞ知る産業があったのです。
それが、ナマコでした。グレートバリアリーフに囲まれた温かなケアンズ近郊の海は、中国で買い手に事欠かないナマコの産地で、古くは1600年代からインドネシア人が危険を犯してまで当地に赴き、ナマコを捕っていたという記録があります。
1803年8月17日、オーストラリアの海岸線を海図に記していたマシュー・フリンダーズの船がリーフで座礁し、その際に乗組員がナマコを発見。翌年に捕獲を始めました。
また、ケアンズという町が興る約50年前、1827年には、10トンものナマコがティモールのKupangで最高値で売られたと記されています。
グレートバリアリーフのほとんどの場所と海岸線沿いで捕れるナマコは、新鮮に保つために、捕れるとすぐにおろされ、内蔵を取ってきれいにすると燻されました。
この臭くて人が嫌がる仕事は、安くで雇われたアボリジニやトレス海峡の島民たちが担当したそうです。
当時はフィッツロイ島やフランクランド島など、グレートバリアリーフの島々にナマコの処理場がありました。
当時は観光客が来ることもなく、ひっそりとしていたグリーン島に、J.S.V. Mein社によって、小工場が作られたのは1858年のこと。
1873年、1874年には白人スタッフがアボリジニに殺され、船を奪われるなど、いくつかの悲劇に見舞われてしまいます。
原因ははっきりしませんが、アボリジニ労働者に対する不当な扱いが殺人につながったのでは、という説があります。
この時のナマコの漁師の中には、ヨーキーズノッブの名前の由来となった、イギリス、ヨークシャー出身の、通称ヨーキーがいました。グリーン島の世話人として知られた彼は、後年、グリーン島でアボリジニに殺された幽霊の恐い話を人々に語ったと言われます。
事件もあり、グリーン島のナマコ工場の業績はその後もあまり振るわなかったようですが、後年、タウンズビルという町の名前になったタウンズ船長が引き継いで、ニューサウスウェールズ州に住む中国人への商売を始めて成功を納めました。
その後ナマコの価格は更に上昇し、中国や香港への輸出が始まりました。
中でも13隻の船で450人もの人を雇っていたクックタウンが産業の中心地となり、1881年からの2年間の年間輸出量は3万パウンドにも及んだそうです。
20世紀になると、政府が先住民の雇用や、価格について規制を設け始め、ナマコ産業は次第に静かになっていったのでした
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